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古代ローマ遺跡の傍に眠る四人の日本人

元駐中央アフリカ共和国大使  林 要一

 アウレリアヌスの城壁、3世紀後半ローマの都を外敵から守るためアウレリアヌス帝によって建設されたゆえにそう呼ばれているこの城壁は、現在でも市内のあちこちでその威容をみることができる。その南の一角にあるサン・パオロ門は、その昔首都ローマの港町として栄えたオスティアに通じる街道の起点であった。その城門のそばに城壁を胎内に取り込んだ形で大理石のピラミッドがそびえている。法務官ガイウス・ケスティウスの遺言で紀元一世紀末につくられた彼の墓廟である。2015年4月、日本人篤志家の財政援助で修復工事が施され往昔の白亜の輝きをとりもどした。

 今年5月から6月にかけて筆者は約1ヶ月をローマで過ごしたのだが、この修復がローマ市民のあいだで評判になっていると聞き、装いを新たにしたピラミッドを見に行った。ところが、内部の見学は土日に限られていて、なおかつ予約制、すでに7月末まで予約は満杯とのことで残念ながら外観しか見ることはできなかった。

 しかし、そのまま帰るのも癪にさわるので、ちょうどこのピラミッドの裏手にプロテスタントの墓地があり、そこには英国の詩人キーツやシェリー、イタリア共産党の創立者で思想家のアントニオ・ グタムシの墓もあることを思い出し、そこへ行ってみることにした。

 正式名称を「ローマ非カトリック信徒墓地」というこの墓地は、城壁とこれに並行するケスティウス通りに挟まれた長方形の土地に広がっている。道路側も5〜6メートルの高い塀で閉鎖されていて その一角にある正門を入ると、城壁にむかって登り傾斜になっている土地に墓が並んでいる。背の高い糸杉が林立し、その間に大小の樹木が枝を広げているので昼なお暗いといった印象である。この区画は、現在「新墓地」と称され、1822年以降の死者が葬られている。

 これに対してピラミッドの裏側を目の前にする「旧墓地」は、「新墓地」とは土塀で仕切られ、ローマの笠松が植えられた広々とした緑の芝生のあちこちに墓石が散在する、墓地というより公園といった雰囲気である。

 「新墓地」の一角にある管理事務所では、この墓地関連の絵葉書や図書類が売られているほか、希望者には有名人の墓地を案内するガイドをつけてくれる。

 筆者が、日本人の墓のあることを教えられたのはその事務所の英国婦人からだった。墓地のデータベースによると、その日本人の名は、河瀬太郎、二郎およびタエ、それに山田貢一郎であった。

 事務所からもらった地図をたよりにまず河瀬太郎の墓をみつけた。位牌型の墓石には、表側に右から「明治七年三月十四日於羅馬誕 大日本河瀬太郎墓 同年五月九日于同所歿ス と記され、裏側には上から TAROU KAWASE / HE WAS BORN 14 MARCH 1874 / AND / DIED AT ROME / 9 MAY OF THE SAME YEAR」とあった。わずか五十六日の儚い人生である。

 太郎の墓にほど近いところで見つかったあと2人の墓は合葬墓で日本式の太郎の墓とは異なり、地面に水平に置かれた板石に両人の氏名と生年没年が英語で記されている。まず上から「CIROW SAME YEAR / AT ROME KAWASE / BORN 20 FEBRUARY 1876 / DIED 7 JULY OF THE とあり、横一本線の下に、 TAE KAWASE / BORN 17 DECEMBER 1876 / DIED 29 OF THE SAME MONTH / AT ROME」と書かれている。二郎は4ヶ月半、タエにいたっては僅か12日間のつかの間の命であった。

 「ローマ非カトリック信徒墓地その300年の歴史と被埋葬者」の著者ニコラス・スタンリー=プライス氏によれば、この夭折した3人の幼子の父親は、イタリア駐劄特命全権公使河瀬真孝である。

 河瀬真孝は、旧長州藩士で、桂小五郎や高杉晋作などと尊皇攘夷運動に積極的に参加、明治政府になってからは、特に木戸孝允の引き立てで所謂立身出世をとげた人物である。

 慶応3年(1867年)、木戸等の勧めのよりグラバーの協力を得て密かに英国に留学、明治4年(1871年)4月に帰国した。滞在中は家庭教師について英語を学ぶかたわら工業専門学校などで造船術の修行をしたといわれている。帰国後直ちに、木戸孝允の推挙で工部少輔に任官したが、故あってその2ヶ月後の9月に侍従長に任ぜられた。そして翌10月には、これも木戸の斡旋で韮山代官江川太郎左衛門英龍の娘英(ひで)と結婚した。真孝31歳、英16歳。英龍に深く恩義を感じていた木戸孝允は、この結婚に先立ち、英を自分の養女として自邸に引き取っている。また、英のほうも孝允を“お父様”と呼んで慕っていた、と後に河瀬は語っている。

 2年後の明治6年(1873年)11月、イタリア駐劄特命全権公使を拝命した河瀬真孝は、同年12月、妻英を同伴して横浜港からフランス船で赴任の途についた。イタリア皇帝ヴィットリオ・エマヌエーレ二世への信任状の捧呈は、翌明治7年(一八七四年)3月1日、水の都ヴェネツィアの離宮で行われた。

 その13日後の3月14日、長男太郎が産声をあげた。河瀬夫妻がローマに着いたのは、おそらくこの年の1月末か2月始めであったろう。すでに身重の身であった英にとって、50日に及ぶ長旅と生まれて初めての外国での慣れない生活は、さぞかし大きな負担であったと推測される。

 そんなこともあってか、両親の喜びと期待を裏切って太郎は5月9日に夭折する。それから1年9ヶ月後の明治9年(1876年)2月20日に次男の二郎が誕生したが、この子も5ヶ月に満たずしてこの世を去る。だが悲劇はそれだけでは終わらなかった。その年の暮れに生まれた年子の長女タエも生後12日目に儚い命を終えた。つまり、河瀬夫妻は着任後三年の間に三人の愛児をつぎつぎに失うという不幸に見舞われたのである。

 当時のイタリアは内戦の末に統一を果たしたばかりでその首都がトリーノ、フィレンツェを経てローマに定まったのは1870年、河瀬公使着任の3年ばかり前のことであった。したがって医療衛生施設にしても法皇領時代と大差のない水準であったことは容易に推測される。乳幼児の死亡率も他のヨーロッパ諸国に比してはるかに高かったと言われている。ローマでもマラリアが発症していた時代である。

 その後河瀬公使は、明治16年(1883年)司法大輔に任官、明治17年(1884年)からは英国公使としてロンドンに駐在して、条約改正交渉に当たったが、さしたる成果を挙げることができないまま、明治26年(1893年)青木周蔵公使と交代した。

 しかし、この間、夫人の英は大いに内助の功を発揮して、現地の社交界でもその名を知られる存在となったほか、若い邦人留学生に対しても親身になって世話をしたので、実の母親のように慕われた。ローマで愛児三人を失ってからは子宝に恵まれなかった英にとって、若い留学生たちは満たされなかった母性愛を注ぐ格好の対象であったのかもしれない。

 公益財団法人江川文庫が所蔵する七万点にも及ぶ史料のなかにはローマからの消息をつたえた河瀬英の書簡類も含まれている。今後これら史料の解読が進めば、三人の愛児死亡の経緯についてもあらたな事実がでてくるかもしれない。

 死亡した三人の乳児が「ローマ非カトリック信徒墓地」に埋葬されたのは、当時はここ以外に非カトリック教徒の墓をつくることができなかったからだが、それに加えて父親が外交官であったことが埋葬許可の取得を容易にする要因でもあったと思われる。この推測が、後述のとおり4人目の日本人被埋葬者の特定にも役立つことになる。

 その日本人とは1883年にローマで死亡した山田貢一郎なる人物である。

 その墓碑は、河瀬太郎のそれを簡素にした形の石碑である。表側には右から左に「大日本山田貢一郎之墓/明治十六年一月 十五日於羅馬歿」、裏側には、フランス語で上から順に「KOITIRO JANVIER 1883 JAPON / MORT A` ROME A` L’AGE DE 33 ANS / LE 15 YAMADA / NATIF D’HIROSHIMA DE LA PROVINCE D’AKI / ( 山田貢一郎日本国安芸国広島で生誕一八 八三年一月十五日ローマにて歿す享年三十三)」 と書かれている。前出のスタンリー=プライス氏によれば、墓地のデータベースには、 “著述家、英国国教会信者”としか書いてない、という。

 そこでまずインターネット検索で調べてみた。すると、明治5年に、わが国に初めて西洋建築を紹介する書物として「西洋家作雛形」なる本が出版されていて、その原本である英国人建築家チャールズ・ブルース・アレンの著書を翻訳したのが、山田貢一郎と村田文夫という人物であることが分かった。

 村田文夫は、芸州広島藩の眼科の藩医の息子で、明治2年(1869年)に書いた「西洋聞見録」という西洋文化紹介書は、福沢諭吉の「西洋事情」に次いで広く読まれた。そして、山田はその村田文夫の弟子であったという。ローマの墓地に葬られた広島生まれの山田貢一郎が、この翻訳者と同一人物である可能性はきわめて高いと思われた。

 他方、ローマ非カトリック信徒墓地にはるか極東の小国日本からやってきた山田が埋葬を許可されたについては、同人が単なる旅行者ではなく、なんらか公的な用務を帯びて滞在した人物ではなかったかとの推測が、前述の河瀬一族の例を引くまでもなく、成り立つのではないかと考えられた。つまり、日本公使館となんらかの関係がある人物ではないか、と。

 そこで山田が死去した明治16年当時のイタリア駐劄公使は誰であったか、を在外公館歴任表で調べると、なんとこれが浅野長勲公使。芸州広島藩最後の藩主である。明治15年(1882年)から明治17年(1884年)まで約2年間在勤している。二人は広島というキーワードでつながっていた。

 幸いなことに浅野公使は、赴任のため本邦を出発した日から帰朝した日までの毎日を几帳面に記した日記を残している。題して「海外日録」。日記を所蔵している国会図書館にでかけて早速閲覧した。驚いたことに山田貢一郎の名前は、日記の第一日の記述の中にあった。そればかりではない。彼の死亡、葬儀、埋葬、一周忌についても特記されていたのである。以下にその抜粋を紹介する。

「明治十五年六月十八日(雨日曜)
伊太利国駐劄特命全権公使の命を奉し午前七時十五分妻と共に出発す
(以下小文字)随行外務書記官田中健三郎、外務書記生市来政方、従者石川完治山田貢一郎
明治十六年一月十五日(晴月曜)
山田貢一郎病院に於て病死す。
明治十六年一月十七日(晴又雨水曜)
午後二時山田貢一郎の葬儀を行ふ。仍てプロテスタンテの墓地に会葬す。
明治十七年一月十五日(曇火曜)
午後駕して山田貢一郎の墳墓に詣る。但し本日一周歳忌日に相当するに因てなり。

 山田貢一郎に関する記述は以上ですべてであるが、いささか不思議に思うのは、浅野公使が、山田の死亡の事実を特記し、その葬儀を執り行い埋葬にも立ち会い、さらには一周忌に墓に詣でることまでしているのに、山田が、いつ何の病気で入院したのかについては一切言及していないことである。

 公使は、おそらく家臣であったであろう山田の英語の能力を買って従者として任地に連れて行き、プライベートな秘書役として働かせていたと考えてまず間違いはないだろう。さすれば日常的に接触があったはずで、その発病、入院を知らなかったとは考えられない。それなのになぜそのことを記述することがなかったのか。

 他方、公使は明治15年の10月29日に発熱、それから凡そ1ヶ月間公邸で病床につきほぼ毎日ドイツ人医師が来診していた事実がある。病名ははっきりしないが、そのことと山田の罹病入院のあいだになんらか因果関係がなかったのか。これまでのところこれらの謎を解くカギとなる資料を発見するには至ってはいない。

 四人の墓の現在の佇まいから思うに、もう随分長い間詣でる人もなかったようだ。とくに河瀬二郎とタエの墓石は全面がコケで覆われ、しかも手前の角が大きく割れたままになっている。

 邦人観光客も多い昨今、ピラミッド墓廟を見学のついでにこの墓地まで足をのばして、同胞の訪れもなく侘しく眠る四人の霊を慰めてくれる奇特な人はいないものだろうか。