「日韓国交正常化50周年」に思う – 日韓新時代を若者に託す –

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小野正昭 (日韓文化交流基金理事長・元駐メキシコ大使)

 締結までに14年余を要した日韓基本条約から50年の今日、思い出すのは交渉に当たった外務省の先輩の次の言葉である。「交渉の当初、韓国側は36年の恨みは36年経たなければ晴らせないと言い、交渉の後半になると、否36年の倍かかると言いだした」と。
 朴槿恵大統領は就任の1週間後に「加害者と被害者という歴史的立場は1,000年の歴史が流れても変わることはない」と述べ、今や韓国は、日本に対し「恨」(その象徴である「慰安婦問題」)を御旗に、最高指導者が海外まで遠征して陣頭指揮を執る日韓歴史戦の様相を呈している。両国内ではネット右翼やヘイトスピーチにみられるように相手国に対する不満が一気に噴出し、日韓関係は戦後最悪とも言われている。
 しかし、日頃、草の根レベルでの交流に携わる者として、筆者は日韓の現状に関し異なる感想を有している。以下、国民レベルの相互理解の進展と日本人としての課題につき、個人的な見解を述べることとしたい。
 
日韓基本条約は平和と繁栄に貢献

 50年前の日韓基本条約の締結が、その後の両国の平和と繁栄に貢献したことはまぎれもない事実である。しかし、マスコミを含め、過去50年間両国が様々な分野で協力し、実を挙げてきたことを評価する記事は少ない。
 たしかに、当時の日本の資金供与5億ドルが、韓国経済の発展にいかに貢献したか、韓国民は知らされていないし(当時の韓国の国家予算は三・五億ドルであり、日本の資金の大きさが分かる)大方の日本人も忘れている。
 実は、韓国政府は日本からの5億ドルがいかに自国の発展に貢献したかについて、条約締結後11年目の1976年12月に500頁近い「請求権資金白書」を公表し、その冒頭部分で次のように高く評価している。「緊迫した安保危機、オイルショックによる世界経済の混乱を韓国が克服できたのも経済協力を含む韓日間の国交正常化による国力増進が大きな力となった」と。さらに付言すれば同書55~60頁にかけ日本による朝鮮人徴用者への分配金が一覧表になって発表されている。この節目の年に改めて日韓両国民の50年に亘る協力を振り返り、正しい評価をしたいものだ。
 
積み残された課題

 50年前の交渉で議論の対象とはならなかった問題 – 植民地支配に対する「謝罪」とその背後にある歴史認識問題 – がその後今日まで、両国の和解達成の足かせとなってきた。しかし、今なお韓国政府が提起している「反省と謝罪」は、既に日本政府により、十分になされたではないか。すなわち「村山談話」に、そして「小渕・金大中共同宣言」という公式文書に「反省と謝罪」の言葉が明記されているからである。
 ところで、筆者は、問題は謝罪の言葉で解決出来るものではないと考えている。韓国の歴代大統領も次のような「耳に心地よい言葉」を発言してきた。

 朴正煕大統領(補償は韓国が代わりに行う)

 全斗煥大統領(植民地遺産問題は終わった)

 金泳三大統領(金は必要ない)

 金大中大統領(過去は問うまい)

 盧武鉉大統領(未来を志向しよう)

 しかし、指導者の言葉が直ちに国民的和解にはつながらないことを両国民は知っている。「謝れば謝るほどに悪くなる日韓関係」と言われて久しい。和解には国民レベルで相手の立場の理解と尊重、そしてより良い繋がりを持ちたいという継続した意志の存在が前提とされるからだ。もう謝るのは止めにしたい。
 残された課題は、歴史認識であるが、両国の学者が「歴史共同研究委員会」を立ち上げ6年間にわたり議論した。とりあえずの結論は当然のことながら「共通の歴史認識をもつことは困難」ということであった。更に息の長い作業を通じて、せめてお互いの見解の違いを併記した共通の教科書が出来上がることを期待したい。
 慰安婦問題は法的には終わっていると考えるが、仮に主体的に追加措置を取る場合でも「女性のためのアジア平和国民基金」の努力を忘れないでほしいものだ。詳細は省くが、慰安婦問題について世宗大学の朴裕河(パク・ユハ)教授が最近出版した「帝国の慰安婦」に対し、ソウル地裁が出版差し止めを言い渡した。朴教授は、生命を賭して「歴史の真実」を追究し、韓国社会から四面楚歌に遭っている。同女史の勇気ある行動に敬意を表したい。
 
日本人として知らなくてはならないこと

 筆者は、在韓国大とKEDO(朝鮮半島エネルギー開発機構)に計六年勤務したが、韓国北朝鮮の人たちと日々交流する中で自問し続けたことは、被害者の痛みとはどういうことなのか、何でいつまでも恨んでいるのかということであった。
 日本統治36年間、朝鮮人がどのように暮らし、何を喜び、何を悲しんだか、何に価値を見出していたかを承知したく古書店等を歩き回った。日本人が統治時代を回顧した資料の中で総督府財務局に10年勤務した水野氏による「反日感情の原因」と題する口述は参考になった。もとより水野氏の見解に対する異論もあろうし、更なる検証が必要であるが、一つの参考として以下紹介する。
 
反日感情の原因 –

遠因:
土地を取り上げ、農民を泣かせた
朝鮮人を日本人にしてやった(善意の悪政)
警察が弾圧した朝鮮人留学生は反日となって帰国
朝鮮の伝統を無視 – 白衣は汚れるから着るな、白衣着用者は村役場に来るべからず
民族感情に無理解で性急な日本化 – 朝鮮神宮へ参拝させる – 自由の拘束・圧迫
近因 – 戦争:
朝鮮人として戦争などしたくなかった、物資は不足するし、食器(真鍮)も取り上げられる – 出さねば戦争に負けると言われ、表面は愛国に燃えて供出したというが、内情は巡査が来て取り上げた。
最悪なのは、コメと人間の供出だ – 昭和12年支那事変の時、食料は内鮮ともに大丈夫と言っていたが、内地の干ばつで朝鮮が米を供出しないと戦争に負けると言ってコメを取り上げ、満州から粟を入れた – もっと悪いことは人間を取り上げ、石炭を掘る者、南洋で軍港を造る者 – 機密でやるので生死が分からなくなる – 一部の朝鮮人は短波受信機で日本が負けることを内々承知していたが、人間と食糧を無理やり供出させられた
 出典「朝鮮経済とその終局」総督府最後の財務局長、水田直昌(戦後は東京銀行協会専務理事)
 資料を読んでいて、被支配者にとって抑圧された記憶はまず消えることはないであろうと考えた。また、苦労した先人たちの加害経験について語った記録が少ないのも印象に残った。例えば歴史の教科書に「戦時労働動員」と記載されていても、その実態がどのようなもので朝鮮人の心にいかなる感情を残したか、まず学校で教わることはなかった。日本自身の問題として朝鮮統治の総括を行い子供たちに伝えていきたいと思う。

朝鮮民族の主体性を見る

 韓国人の反日感情の背景には近世に於いて多くの日本人が朝鮮民族を独自の主体性をもつ対象とは考えなかったことがある。戦前の日本人の考えが戦後の日本社会の根底に差別意識として今でも存在しているように思えてならない。しかし、戦前の日本人のすべてが朝鮮人に偏見を持っていたわけではないことも付言したい。当時、一部の政治家や文化人は朝鮮民族の優秀性や主体性を評価していたのも事実だ。
 その一人は初代朝鮮統監伊藤博文である。伊藤統監は、ある日、朝鮮への日本人の入植の必要性を力説する新渡戸稲造に反論して、「君、朝鮮人は偉いよ、この国の歴史を見てもその進歩したことは日本よりはるか上であった時代もある。この民族にしてこれしきの国を自ら経営できない理由はない。才能に於いてお互い決して劣ることはない。然るに今日の有様になったのは人民が悪いのではなくて、政治が悪かったのだ。国さえ治まれば人民の量においても質においても不足はない」と「朝鮮は朝鮮人の為」という持論を展開した。
 (出典:新渡戸稲造著「偉人の群像」)
 朝鮮民族の理解者である伊藤博文がその後間もなく侵略の象徴として暗殺され、併合が加速されたのは誠に皮肉なことであった。
 独立後、韓国の教育には、軍事政権下で国民意識形成のため民族主義史観が導入され、「日本の統治が無ければ朝鮮は自立し発展していたはずだ」との見方が主流となった。
 
韓国の若者の対日観に変化の兆し

 筆者が在韓大に勤務していた頃(1990年~1993年)韓国の中・高等学校では民族の誇りと愛国心を養成するため、唯一の正しい歴史、いわゆる反日教育が徹底して行われていた。当時、国史の先生は、日本の事をしばしば蔑称(倭奴・ウエノㇺ)で呼び感情をこめて辛い歴史を語った。生徒は自然と反日・嫌日になっていった。当時はソウルオリンピックの後で海外旅行の自由化もあって多くの韓国の学生が日本を訪問し、中には学校で教わった日本とは違うことに驚く学生もいた。しかし多くの学生は日本の発展ぶりを率直に受け入れられず、逆に日本の発展は韓半島から学んだお蔭であるなどと考え、「韓国世界一」「なんでも韓国起源」がもてはやされた。しかし、それから20年の間に徐々に教育の現場にも変化が見られるようになり、日本を蔑称で呼ぶことを控えるようになっている由。
 
民族主義史観からの脱却の動き

 金大中大統領就任に伴い日本の大衆文化が韓国にも開放され、日韓間の渡航者数が飛躍的に増大し(正常化の年が1万人、FIFAワールドカップの2002年に130万人、2014年には500万人)、国民同士の相互理解が促進された。金大中氏はIT情報化政策を進め、インターネットの普及により韓国社会の国際化が進んだ。近年、韓国の専門家の中には世界史的視座に立って、外国の歴史家と交流する機会も増えており、「歴史は一つ」ではないと理解し、日本をより客観的に捉える学者が増えつつある。このように民族主義史観にも変化が出始めている。
 韓国の高校生・大学生の多くが、就職に有利だからではなく、日本人や日本文化が好きだからという理由で日本語を学んでいることには勇気づけられる。もちろん、歴史の清算は終わっていないというマスコミや反日団体の活動は相変わらずで、依然「日本が好きだ」と韓国社会で堂々と言えないのが現実だ。
 
韓国人と日本人は似て非なる者である
– 日韓異文化交流を促進しよう –

 日本人にとって異文化とはもっぱら米欧を指し、韓国を異文化の国とは理解してこなかったのではないか。韓国を正しく理解するためには何よりもまず異文化として正面からとらえることにより相互理解を促進する必要がある。
 様々な形の青少年交流、学生間交流、姉妹都市交流拡大が最も効果的である。より具体的には相互の学校訪問やホームステイを通じて相手と直に話し、生活し、肌で感じることが何よりも大切である。 
 日韓の和解に独仏の経験がそのまま適用できるとは思わないが、52年前のエリゼ条約に基づき既に800万人の若者が隣の国を知り、独仏180の大学が参加する「独仏大学」が設立されている。中でも2003年にベルリンに集まった独仏の高校生たちが共通歴史教科書の作成を提案したことが契機となり両国の学生たちは共通の歴史教科書を使って現代史を学んでいる。独仏和解に若者が決定的な役割を果たしたことは学ぶべきだ。
 筆者は日韓が官民挙げて、様々な形で、若い世代の交流に最大限の努力をすれば、いずれ「過去の清算」ではなく「過去の克服」という次元で新しい日韓協力時代を始めることが出来るのではないかと考えている。
 
外交青書に韓国人高校生の作文が掲載

 今年の外交青書に、日韓文化交流基金で交流した日韓の高校生の作文が掲載される(予定)。ここに韓国の高校生の作文を紹介して結びに代えたい。
 「幼い頃から日本に関心を持ち、高校で日本語を学んでいる私は、一年生の時、香港で世界から参加している高校生との交流で日本の学生と出会った。私は嬉しくて自分から声をかけたが、彼らは韓国人が日本人を嫌っていると思ってか緊張していた。しかし、互いに相手国の文化を話題にするうちに、打ち解けて親しく交流することが出来た。その後、彼等とはメールをやり取りしており、今や日本というと真っ先に彼らの事が思い浮かぶ。
 両国には、過去の歴史や外交問題のために相手に反感を持っている人が多い。政治と外交は、切れやすくもつれやすい細い糸のようだ。もつれた糸は、解きほぐすのも大変だ。だが、糸にはつなぎ直すことが出来るという長所もある。
 国同士の関係も同様に、安定した関係が危うくなることもあり、その関係を解きほぐすのに多くの労力が必要だ。韓日関係の安定は、政府の努力だけでは難しいかも知れない。何よりも民間交流を拡大し、両国の国民の意識を変えていくことが大切だと思う。」

(龍仁外国語高等学校2年 白賀媛)