邦人保護と渡航の自由
三好 真理(領事局長)
邦人を取り巻く国際環境の変化
2015年は、年初のパリ等でのイスラム過激派によるとみられる連続テロ事件で幕を開けました。仏にとっては過去50年間で最悪の17名の死者を出して、世界を震撼させました。
続いて、1月20日には、昨年8月、11月に相次いでシリアで行方不明になった湯川遥菜氏、後藤健二氏と見られる人物の映像がISILによって流され、72時間以内に日本政府から2億ドルの支払いがなければ殺害するとメッセージが配信されました。その後、2月1日までに計4回にわたってメッセージや動画が配信され、お二人の邦人は無残な最期を遂げました。最後の動画では、「……このナイフは……おまえらの国民がいるところではどこでも殺戮を続けるだろう。では日本の悪夢を始めよう。」とのメッセージが流され、有言実行で、卑劣なISILの不気味さがうかがえ警戒が必要な状況となりました。
3月18日には、チュニジアの首都チュニス市郊外にあるバルドー国立博物館において、武装集団によるテロ攻撃が発生し、残念ながら邦人3名を含む22名が犠牲となる惨事となりました。イスラム過激派による犯行とみられ、チュニジア政府による捜査が続いていますが、今や世界のどこにいてもテロの脅威に晒される時代となったということが言えると思います。
わが国を含む主要国の渡航情報
シリアにおける邦人殺害テロ事件を受けて岸田大臣のご指示により、中根大臣政務官の下、在外邦人の安全対策強化策の検討が始まりました。就中、我々の念頭にあったのは、ISILの活動地域のような地域へ渡航を企図する邦人の保護を念頭に置いた、危険地域への渡航制限のあり方について検討です。
ご案内の通り、日本の外務省は海外安全ホームページを通じて、海外に関する様々な情報を提供しています。とりわけ重視しているのは、渡航・滞在にあたって特に注意の必要な国・地域の現地情勢や安全対策の目安を四つのカテゴリーに分けてお知らせする「危険情報」です。下から順に、「十分注意してください」(黄色)「渡航の是非を検討してください」(濃い黄色)「渡航の延期をお勧めします」(オレンジ)「退避を勧告します。渡航は延期してください」(赤)となっています。(「渡航情報」「注意喚起」)あるいは「渡航自粛(勧告)」といった言葉は1975年頃から使われ始める一方、在留邦人に向けては、1968年当時、在南ベトナム大使館が「引き揚げ、又は疎開勧告」を行ったのが記録上一番古い例のようです。その後、1997年に採用した「海外危険情報」では、危険度に応じた数字表記(危険度1~5)を行うようになりました。やがて、危険度数が旅行業界等からあたかも許認可であるかのようにとらえるようになり、かかる数字の一人歩きを回避すると共に、情報全体をユーザーが参考情報として利用し、自ら渡航について判断すべきとの趣旨で2002年改正が行われ、現在に至っています)。
主要国では、米国がカテゴリー分けにかかる特段の定型文言のない Travel Warning / Travel Alert を出しているほか、英国、仏、独、カナダ、豪州等がわが国同様色分け付きないし定型文言の段階別渡航情報を発出しています。
邦人保護の要請と渡航の自由の制限
今回のシリアのおける事案の後、「どうして邦人があのような危険な地域へ行くことを許容したのか」「止めることはできなかったのか」「自己責任で行ったのだからかかった経費は請求したらどうか」等の声が聞かれました。日本の国内であればたとえば、「災害対策基本法」の中で「災害が発生し、又はさらに発生しようとしている場合において、人の生命又は身体に対する危険を防止するため特に必要があると認めるときは、市長村長は、警戒区域を設定し、緊急事態応急対策に従事する者以外の者に対して当該区域への立入りを制限し、若しくは禁止し、又は当該区域からの退去を命ずることができる。」(第63条)という規定があります。他方で、日本の主権が及ばない海外において「警戒区域」を設定することは困難ですし、仮に設定できたとしても在外領事が当該地域へ近づくことはきわめて難しいことから実効的とは言えないでしょう。
そこで、主要国の例を調べたところ、G7のメンバー国で、自国民保護のための法的拘束力を有する渡航禁止措置をとっている国はありませんでした。移動の自由等の基本的人権を重んじての結果と思われます。唯一、お隣の韓国では、自国民保護のため、旅券法による制限があり、2015年3月時点で6カ国(イラク、ソマリア、アフガニスタン、シリア、イエメン、リビア)への渡航が禁止され、禁固1年以下または1千万ウォン以下の罰金刑があることがわかりました。韓国の危険情報には、「赤」の上に「黒」(渡航禁止)があって、渡航禁止国へ渡航しようとする者(取材・報道・緊急な人道的事由等)は別途外務省の許可がいることになっているようです。2008年には同国の憲法裁判所において、渡航禁止国を設定することは可能である(韓国の場合、大韓民国憲法第二条に「国は、法律が定めるところにより、在外国民を保護する義務を負う」との規定があります。)との判決が出されています。
危険地域に渡航した自国民の救出費用の負担についても各国の例を調べてみました。わが国においては、在外邦人輸送にあたり、チャーター機を利用する場合には、当該区間のノーマルエコノミー片道料金を撤収しています(外務省内規定による)が、ドイツにおいても、2000年のフィリピンにおけるドイツ人拘束事件以降、危険地域に立入って被害に遭ったドイツ人の救出については、輸送方法によらず、ビジネスクラス片道料金を請求しているようです。唯一、法定しているのは、仏で2010年制定された、「クシュネール法」であり仏国民が危険地域への渡航を希望し、注意を無視して同地域に渡航したために救出オペレーションが必要になった場合、その救出に要した費用は、すべて当該人物に支払いを求めることができると規定されています。但し、実際には、「救出対象者が特に職業上の任務を遂行しなければならない、又は緊急を要する状況にあった等の正当な理由がある場合」に解釈される事例が多く、現在まで適用前例はない由です。
日本国内においても山岳遭難救助やドクターヘリで、民間会社や民間の救助隊員による救助活動の場合は、費用がかかりますが、警察・消防・自衛隊は、通常業務の範囲内との位置づけで無償で救助活動を行っています。
今後の展望
以上見てきたとおり、危険地域へ渡航を企図する邦人に対して渡航を制限することについてはかなり高いハードルがあると思われますが、今後類似のケースが相次いだり、情勢に変化が見られれば、状況は変わり得、不断の検討が必要と考えられます。また、今回の議論を通じて、危険情報は一カ国のみではなく周辺国と併せて見る必要があることや、どこも「無色の安全地帯」ではなく、一定の注意は絶えず必要であることを改めて広報すべし、といったことが同僚の領事たちから指摘されました。さらに、渡航情報を見やすく、わかりやすくすることについても今後一層の改善を図っていく所存です。
最後に、今回初めて旅券法第19条第1項第4号(「…旅券の名義人の身体、生命又は財産の保護のために…」)に基づく旅券の返納命令を出したことに言及したいと思います。欧米諸国においてこのような法制を有する国は珍しいのですが、今回はISILが活動する地域の特殊事情、すなわちISILが邦人2名を拘束・殺害し、さらに今後日本人を対象として殺害する旨予告しているという特異な事情があること、そして今回返納命令の対象となったご本人はシリアに入国することを明言されており、度重なる説得にも応じて頂けなかったこと等から苦渋の決断をして返納命令の執行に踏み切ったものです(その後ご本人からの申請に基づき、渡航先からシリアとイラクを除いた限定旅券を発給)。もちろん、憲法に認められている渡航の自由や表現・報道の自由にも関わる問題ですので、個別具体的な事案により慎重な検討が必要ですがその一方で、海外に渡航・在留する邦人の安全を確保することも政府の極めて重要な役割であることから、邦人の危険地域への渡航をいかに抑制するか、という観点からは、旅券の返納命令も、注意喚起や要請と並んで重要な選択肢となり得ると考えています。
(平成27年5月27日記)
(本稿は筆者の個人的見解に基づくものです)