ミャンマー政治改革の行方 (第3回)

熊田 徹
熊田 徹 
(元在ミャンマー大使館参事官)

 ミャンマーではここ数年間、国際社会の後押しを得て政治経済改革が進められて来たが、民主化推進の大きな結節点となる今年11月の総選挙を控えて、さまざまの動きがめまぐるしい。
 総選挙の公明性確保のため、内外から批判の多い2008年憲法の改正に向けた国民投票が5月に予定されており、また、独立以来激しい紆余曲折を経てきた少数民族武装反乱勢力のうち16の組織の代表達と中央政府との間の全国統一的停戦協定の草案が3月末にヤット合意できた。 
 だが、いくつかの組織の足並みがそろっておらず、その署名はミャンマー正月明け以降に持ち越されている。一方、東北部の中国系少数民族で、この協議に参加していないコーカン族の武装組織が国境を越えた中国領内の同族グループとの間で行っているヤミ経済活動を取り締る国軍との間で武力衝突が発生して国家非常事態が宣言され、一時は中国との間で外交問題化しかけた。西部のラカイン州でも、イスラム系「ロヒンギャ」の市民権問題解決が宙に浮いているだけでなく、仏教徒との間の暴力沙汰が絶えない。
 
 憲法改正の焦点となっているのは、国軍の特権的な地位と大統領被選挙資格要件に関する諸条項で、スーチー女史が国際社会の世論を背に一貫して非民主的として批判してきた。女史は今年4月上旬、ロイター通信とのインタービューで、自分の大統領就任を妨げている第59条の取り扱い次第では総選挙をボイコットすることをほのめかせた。一昨年末の「ボイコット発言」と同じ戦術らしいが、同女史の一種高圧的な言動には国民の間からだけでなく英米のマスコミからも、「大統領に選ばれた場合にどんな政治を行うのかが不明」など、批判の声も聞こえてきている。昨年11月8日付英国エコノミスト誌は、匿名の米国人官僚によればオバマ大統領が、同月初旬ミャンマー訪問を前にしていた時点で、「選挙の公正さを求めはするが、スーチー女史の大統領選出への道確保にはもはやこだわっていなかった」由を伝えている。
 少数民族問題についていくつかの問題を残しながらも、民主化改革のかなめである国民和解に向けての前進が見られる一方、従来非常に高い期待がかけられてきたスーチー女史の政治的位置に疑念が生じてきた、というのが現時点の状況といえよう。 
 ここで、今後のミャンマーの「開かれた民主主義」にとって重要な役割を担うべき最大野党の指導者としての同女史の動向にも留意しつつ、ミャンマー政治改革に向けての主な課題と思われる二・三の点に触れてみたい。
 

憲法法改正についての目下の注目点


 憲法第59条は大統領の資格要件として、d項で「連邦の行政、政治、経済、軍事などの諸事情に十分通じていること」を挙げ、f項で「配偶者、子供が外国人ではないこと、外国への忠誠を負わされていないこと」などを挙げている。両項とも女史にははなはだ不利だが、テインセイン大統領は昨年初頭の国民向け放送で、「市民の誰でもが大統領になれるようにすべき」とか、「憲法は必要に応じ随時修正すべき」、とのきわめて柔軟な考えを示している。だが、「国益や国家主権は守り、政治危機は回避すべき」と釘をさす一方、本年3月には「国軍は民主化への移行を支えるための役割を維持するが、いずれは文民に政権を譲る」と述べている。現行憲法は、ミャンマーが、内戦状態が続くだけでなく2008年の「サフラン革命」のさなか、外部からの制裁介入にも備える必要をも盛り込んだ「危機管理憲法」として作られたという、特異な性格を持っている。
 外部介入の恐れがほぼなくなった以上、59条f項は不要としても(軍人層には異論があるが)、少数民族反乱組織の問題が残っている以上、d項の廃止には国軍からの強い抵抗がありえよう。この点についてのスーチー女史や議会、諸政党、国民一般の考え方はまだ十分明らかではないが、憲法改正や総選挙に際しては争点の一つとなりえようし、国軍の機能に関する他の諸条項の改正も、若干の条項を除いては、少数民族問題の解決、つまり現行憲法が重視する「国家・国民の分裂」状況の解消を待たざるを得ないだろう。逆に見れば、この点でのスーチー女史の政治的貢献度如何も憲法改正や総選挙の際の争点の一つとなりえよう。
 

歴史認識とイデオロギー:「我々の民主主義」と「真の民主主義」


 少数民族問題は、ミャンマー独立運動以来の難問であり続けてきた。現行憲法の前文は、スーチー女史の亡父アウンサンが知的にも情熱と時間の上でも最大限のエネルギーを注いで制定にこぎつけた1947年憲法について、「急いで起草されたこの憲法下での民主主義は効果的に機能しなかった」と回顧している。
 周知のように、ミャンマーの独立戦争は、日本が支援した「ビルマ族」と連合国側が動員した多数の「(非ビルマの)山岳地少数民族」との間の代理戦争とでも表現し得る側面を有するものでもあった。だから戦後の「ビルマ独立」に際しては、これら多数の民族間の和解協力関係の構築が不可欠だった。にもかかわらず、そのためのパンロン会議参加民族の代表を選んだ英国の「辺境地」担当官僚は、カレン、シャン、カチン、チンの代表を召集したが、アラカン地区からは代表を呼ばなかった。アラカン族は地理的にインドとの関係が深く、インドが英国からの独立に際して、ヒンズー系インドとイスラム系パキスタンとに分離することとなった際、アラカン族中のイスラム教徒がビルマから分離してパキスタンへの帰属を画策していたからである(このアラカン族の問題は改めて、「ロヒンギャ」問題として後述する)。カレン族も、長年の英国の愛顧に依拠してビルマ族からの分離独立を画策する、キリスト教徒系の主要勢力(現在のKNU)がパンロン会議をボイコットし、カレン族は弱小代表が参加したのみであった。
 もう一つの問題が、「ビルマ共産党(BCP)」の反中央闘争である。第二次大戦中、ビルマ族は共産主義者を含め一致団結していたが、戦後はイデオロギー的、政策的亀裂ゆえに他の少数民族まで巻き込んでの武装対決にまで発展し、東西冷戦期には中国共産党軍と国府軍との内戦関係にも巻き込まれた。そのうえ、麻薬産業とその密貿易の要素も加わって、ミャンマーの政治経済を麻のごとくに乱れさせた。このBCPは1988年の民主化運動に際してNLDの中央委員会内部に入りこむだけでなく、当時のミャンマー事情にほとんど通じていないスーチー女史の指南役として、イデオロギー的なレトリック戦術を駆使して彼女を党利のためにフルに利用した。そして、憲法改正により1947年憲法体制に近い複数政党制への転換を志していたネーウィンの軍事政権との対決構造を作り上げ、民主化運動に決定的な影響力を行使した。
 このようなBCPのイデオロギー的工作手法の詳細は、本ホームページの「論壇」での昨年5月12日付拙論「ミャンマー政治とスーチー女史―四半世紀を母国に捧げてきた道徳的政治家―」で触れたのでそれをご参照願うこととし、一つだけ、スーチー女史が1989年以来重視し続け最近でも言及している「真の民主主義」をアウンサンがどう位置づけていたかに触れておきたい。
 アウンサンは独立準備過程において、「我々のビルマに適した民主主義」を模索し、憲法制定に備えて行った演説で「古い(帝国主義的ないしレッセフェール的)民主主義」を退け、「新しい民主主義」を選び、それを「真の民主主義」と表現した。だが、それは、国民経済が外僑支配下に置かれ、しかも民族間対立の問題を抱えていたがために、緩やかな「連邦制=federation」ではなく、諸民族がしっかりと連合した「統一体としての連邦=union」を目指すものだった。ところがその憲法体制は前述のとおり機能しなかった。東西冷戦の荒波が運んできた少数民族問題への外部介入に対する防衛策としてミャンマー政治が軍事化されてしまったがために、1974年の一党独裁制憲法と2008年の「危機管理憲法」体制に導かれ、「我々のビルマに適した民主主義」も「真の民主主義」も先送りされている。問題は、アウンサンのいう「真の民主主義」の本旨が「我々のビルマ(ミャンマー)に適した民主主義」であったということである。テインセイン大統領が「国軍は民主化への移行を支えるための役割を維持するが、いずれは文民に政権を譲る」と言う意味は、アウンサンが果たせなかったこの「ミャンマーに適した民主主義」にいたる過程での政権と国軍の責務を指すものと理解できよう。
 一方で、気にかかるのはスーチー女史の用語法である。
 女史は、民主化運動最中の1989年6月に、ヤンゴン管区で青年達を前にして「不当な軍権力に対しては義務として反抗せよ」と演説して国軍の分裂を計った。その際女史は、「現在は『真の民主主義』という言葉の代わりに『ミャンマー国に見合った民主主義』と言う言葉を使わなければならないのだと、ある集団が言っているのを耳にするが、きわめて危険」といっているのである。そして、「私は『ミャンマーに見合った民主主義』という言葉を全く認めることができません」とも付け加えていている。これは明らかに、BCP系のレトリックと同じである。それから四半世紀の今日、女史が同じ意味で「真の民主主義」という語を用いているとは思えないが、やはり少々気にかかる点である。
 

「ロヒンギャ」問題:市民権か民族権か


 少数民族問題を巡る和解と国民統合(現行憲法のいう「国家・国民間の分裂排除」)の行方について、国内だけでなく、タイにも数十万人の難民を抱えている上記カレン族は2012年に政府との停戦に合意済みである。加えて昨年には、和平プロセスの安定的促進の見地から、2015年以降もテインセイン大統領政権継続を希望するとの立場を明らかにした。つまり憲法第59条維持の立場であり、古い歴史認識に基づく従来の政策を変更した結果だといえよう。カチン、ワなど中国国境をまたぐアヘンや天然資源の密輸で食べている諸民族も、前述のコーカンを除いては何とか停戦にこぎつけかけており、軍事組織の扱いが難航してはいるが、代替経済構築が進めば安定化が期待し得る。こうしてみると、現在最も厄介な民族問題の一つとなっているのが、ラカイン州のイスラム系「ロヒンギャ族」の問題であろう。
 「ロヒンギャ(Rohingya)」を民族的存在として承認のうえ国際標準的処遇を与えるべきことを唱える国際NGOもあるようだが、ミャンマー政府は「ロヒンギャ」を民族としても正規の市民としても認めず、隣国バングラデシュからの不法移民として処遇している。いずれにせよ、仏教徒との対立関係や種々の規制か結果する人権侵害状況が政治的問題となっていることには変わりない。注意すべきは、これらイスラム教徒の相当数がミャンマー独立時に、ミャンマーから分離してインド(後の東パキスタン、バングラデシュ)に帰属することを目的として、「ムジャヒッヅ」という反乱組織を形成していたことで、その経緯は英国外交資料を用いたラカイン州出身研究者の論文で明らかにされている。この計画が東パキスタン側から拒否されたために「ムジャヒッヅ」から「ロヒンギャ」に組織名を変えたのだが、当初この名称を全関係者が受け入れたわけではなかったとの米国人研究者の記述がある。また、あるインド人研究者の1992年の著作によれば、その多くは非定住の季節労働者や、飢饉の際に国境のナフー河を渡って豊かなコメ産地のラカイン州に食料を求めて大量流入を繰り返す一時的避難民で、長年両国間での国境管理問題となっていた。他方、信頼できる資料によってみる限り、「ロヒンギャ(またはロヒンガ=Rohinga)」称する「人間集団」はいるがロヒンギャとかロヒンガという「民族」は存在しないようである。世界各地の民族言語を集めた米国の出版物Ethnologueの比較的最近の版(たとえば2005年の第15版)では、バングラデシュで話されている、インド-イラン~インド-アッサム系語族に属するベンガル語の一方言であるチッタゴン語(ChittagonianBengali。話者数1千4百万。別途ミャンマーにも話者がいる)のうち、チッタゴン出自でラカイン州生まれのベンガル人ムスリム(ethnic muslim)のdialect(つまり「・・・訛り」ないし「・・・弁」)の話者を「ロヒンガ(Rohinga)」としている(Rohingyaは用いていない)。ミャンマーの項のチッタゴン語の箇所でもほぼ同様だが、そこでは、ロヒンガ話者を、バングラデシュからの数世代前からの移民とし、最近の「25万人の難民」にも簡単に触れている。一方、たとえば1992年の第12版にはなんらの記載がない。これらの版のいずれも上述の歴史的、政治的経緯や(言語と宗教以外の文化的・伝統的側面などの)民族学的ないし人類学的要素には触れておらず、十分な判断材料が乏しい。 
 また、第三者的にみるならば、たとえば「欧州少数民族保護枠組条約」や「少数民族言語の保護に関する欧州憲章」が定めているような意味での少数民族に対する法的保護義務を立証することができるのか、疑念がある。とりあえずは難民として保護しつつ、現行市民権法上の市民権資格の確認ないしは帰化手続きによる市民権付与というのが常識的処遇なのであろう。その意味では、テインセイン大統領がこれらの人々に「ホワイトカード(臨時の居住許可証)」を付与したうえで、今度の選挙での投票権もみとめたのは、ずいぶん寛大な措置だった。だが、これにはラカイン州住民が反対し、同州知事が憲法裁判所に提訴して、政府側が敗訴してしまった。
 一方、UNHCR(国連高等弁務官)の1995年度報告書は在ミャンマー「ロヒンギャ」難民25万人中に国外で軍事訓練を受けたムスリムの2つのグループが紛れ込んでいると述べており、ここ2-3年でも、インドやパキスタンを拠点とするイスラム過激派が訓練したグループがミャンマーでテロ支援を行っているとの報道がある。いずれにせよ、「ロヒンギャ」と称される人々の法的身分を含め、処遇の改善が急がれ、日本や国連、国際社会が「人間の安全保障」の対象事業として、必要に応じ帰化や第三国移住促進のための教育プログラムなどに加えて、テロ予防策を含めた幅広い協力を行う余地があるように思える。
 

ミャンマーにおける政治と道徳


 大雑把ながらミャンマーの民主化改革と憲法改正問題の歴史的背景を通覧して強く印象付けられることは、「政治と道徳」の問題である。より正確にいえば、道徳と政治との間に介在する、あるいはその間をつなぐ、事実認識と十分に検証された政策が不可欠ということである。米国のミャンマー近現代史研究者間での歴史認識の差が、道徳的高みからの「人道制裁」を主張するグループとこれに反対するグループとに分かれていたがために、アメリカの世論が長年分裂していたことなどはその例だが、米国政策当局の内部でも同様だった。幸い、現在の米国の対ミャンマー政策ではこのような分裂が解消している。  
 スーチー女史も1980年代の民主化運動初期には、BCP系のイデオロギー的レトリックにしたがって、なんらのまともな政策論を打ち出すことなく、混乱した歴史認識に基づく道徳的判断をしてしまったが、今後についてはこの苦い経験をしっかりと生かしてほしいものである。5月の憲法改正が第59条f項をどう扱うにせよ、より重要なのはd項のはずであるから、今度こそ、亡父アウンサンの悲願を噛みしめたうえで、より確かな歴史認識に基づいた政策論で選挙戦を戦うことを望みたい。それが、最大野党の指導者としてのミャンマーの民主化改革における国民に対する義務でもあろう。たとえ大統領になれなくても、議会で政権与党との知恵比べや、政策の道徳的優劣の論争により政治の質的向上に寄与することは可能のはずである。
 今年2月9日付フィナンシャル・タイムズ紙は、同女史が「勇敢な兵士を探している(Suu Kyi’s search for ’one brave soldier’)」との大きな見出しつきで全1頁を費やしてこの点を批判的に論評している。その結論は、女史は大上段で変革について語るが、政権に就いたら何をなすのかとの質問に対して直接答えず、「選挙で戦うか否かさえ決めていないのだから、どんな政権ができるか答えようがない」との反応だったということである。そのとおりだとすると、1989年の「国軍は誰のものか」と民衆に呼びかけて国軍分裂を図ったBCP戦略と変わらないこととなってしまうだろう。

(2015年4月21日記)