1865年4月、もう一つの「敗戦」

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大島正太郎  
(霞関会理事長) 

 今から150年前の1865年4月9日、南軍のロバート・E・リー将軍は北軍総司令官ユリシーズ・S・グラント将軍にヴァージニア州アポマトックスにおいて降伏し〝南北戦争〟が終結した。
 四年間にわたるこの戦争は「アメリカ合衆国(the United States of America)」を正統に代表しているとする立場の北部諸州から見れば一部国内勢力の「叛乱」であった。これに対し、南部諸州からすれば、「アメリカ合衆国」と言う連邦国家から分離独立して樹立した国家連合としての「アメリカ諸国連合(the Confederate States of America)」の独立戦争であったが、結果は南部の敗北に終わった。
 敗戦後の南部諸州の辿った軌跡は、その郷土の人々から見れば、国家間の戦争に敗れた「敗戦国」の「国民」がその敗戦をどう受け止めたか、と言う問題であった。屈辱的な全面降伏により、「戦勝国」たる「連邦」軍隊による「国」土の占領、「改憲」の強行による「体制変革」の試みを経験した南部諸州の人々が、今日までの150年の間に、どのようにこの「歴史」と立ち向かってきたか、そしてそれが米国全体の歴史をどう規定してきたかを見ることは、今日の米国を歴史的文脈の全体像の中で理解する上で大事であると考える。
 
 南部諸州の敗戦から66年後に同じ相手(「アメリカ合衆国」)を「敵」として戦い、同じく四年後の1945年に降伏した日本の戦後70年の歳月を振り返り、将来を見据えるに当たって、米国の南部の「国民」がその後今日までの間に辿った歴史には、時には反面教師として、学ぶべきものであると思う。以下はその歴史を大枠で把握しようとする試みである。
 
「敗戦」とは敗北を受け入れ降伏すること
 
 『1865年4月~アメリカを救った一か月(April 1865: The Month That Saved America –Jay Winik, 2001)』と言う南北戦争の歴史書の存在をアメリカの親友から教わったのは、偶々、自分が角田房子著『一死、大罪を謝す』を読んでいる最中であった。早速入手しこの本の論旨に接し、タイミングのみならず、二つの本の内容における偶然の一致に驚かされた。
 
 いずれも、それぞれの戦争の幕引きに軍の最高責任者が戦(いくさ)の敗北を受け入れる際に、毅然とした負け方をすることによって、戦後の民族の再起の可能性を残すことに貢献したとの一点に絞り込んだものである。リー将軍と阿南陸軍大臣がそれぞれ、何を考えどういう決断をしたかはここで取り上げるものではないが、戦争に於いては、開戦の決断もさることながら、敗北の認め方、自国が敗戦を受け入れられるように国内を纏める方途が、和平後の帰趨を左右することから、開戦時と同じ程度あるいはそれ以上に困難な決断であることを改めて認識させられた。
 
 此処で言う決断とは、日本については「ポツダム宣言」を拒否し本土決戦で最後の一人まで戦い続けようとする立場が聖断で拒否されたことで最終的には「宣言」受諾の閣議決定に署名した決断である。また、南軍については、投降することなく軍隊を事実上解散し、各地でゲリラとなって北軍を泥沼に引き込み、北側から和平を求めてくるのを待つべしとの提言を受け入れずグラント将軍に降伏すると言う決断である。それぞれ最終的には、降伏を受け入れることで国民の将来を確保しようとしたものであった。
 
占領と占領下の改憲
 
 日本の占領は、9月2日の降伏文書署名で敗戦が法的に確定したときから始まり、1952年にサンフランシスコ講和条約が発効して終わった。これに対し、南部諸州に対する『連邦軍』の占領と占領行政は「1877年の妥協」と言われる前年の大統領選挙結果の混乱収拾の一環として最後まで駐屯していた2州からの撤退をもって最終的に幕引きが行われた。結局最長で見て十二年も続いたことになる。
 
 この間の期間を米国史上では「(南部)再建reconstruction」の時代と言われる。「再建」と言う表現に一般的には肯定的な意味合いがあるが、戦勝国から見れば肯定的な事態の推移であるからである。他方、その対象とされた当時の南部諸州の人々にとって見ればこの時期は敗戦と一体となった受け入れがたい歴史上の一齣である。彼らから見れば言わば「南部の根性をたたきなおす」と言わんばかりの「上から目線」の響きがあり、忌々しさが伴って理解されている感がある。占領も終わり、「再建」と言う時代も終わると、南部は戦前の時代への逆戻りを志向することになる。
 
 それは、南部諸州の戦争理由が、北部諸州の一部の政治勢力が進めた奴隷制度廃止に反対すると言う単純なものではなく、各「州state」には連邦に参加する裁量があったと同様に連邦から離脱する自由が権利としてあると言うことを基本とする、「ステーツ・ライツState’s Rights」を根源的権利とみなす理念にあったこととも関連する。(上記『1865年4月』では、戦争の末期、「(南部)国家連合(Confederacy)」でも奴隷解放法が成立したことを詳述し奴隷制度維持が必ずしも南部の戦争目的ではなかったことの傍証としている。)
 
 南部にとって枢要な「ステーツ・ライツ」の概念を「州権」と訳した途端に「ステート」と言う主権国家を表す用語を埋没させてしまい、南部連合の戦争目的が奴隷制度堅持ということに矮小化されてしまうので本来の政治的意義を奪う誤訳であると言えよう。もちろんこの理念の本質は、奴隷制度と表裏一体をなす経済社会のあり方に関わる国家理念であるので,短絡的に言えば奴隷制度維持のために戦ったと言わざるを得ない。さりながら、南部の人達が奉じた戦争目的(the Cause)を彼らの意識、認識において正しく理解しないと、その後の南部諸州の人々の生き様が理解しにくくなる。
 
 南部では、この戦争のことを「内戦」と規定した北部と異なり、自らの歴史認識を反映し「複数の国家間の戦争(the War between the States)」との定義にこだわり続けた理由もここにある。北部から見れば「叛乱の鎮圧」であった武力行使は、南部から見れば自らの独立を侵す侵略であったことを忘れまいとする気概がこもっている。(この関連で、映画にもなり日本でも良く知られている米国のマーガレット・ミッチェルの小説『風と共に去りぬ』も描いている様に、北軍は南部において焦土作戦を敢行した結果、長い間南部の記憶から消すことのできない怨嗟の念を人々に植え付けたと言える。)
 
 南北戦戦争後、「連邦」(当時は「ユニオン(Union)」と言うことが多かった)、つまり合衆国中央政府、は「叛乱rebellion」を起こした南部諸州(ここは「州」と訳するべきであろう)の主権的権限を事実上停止し、これら敗戦「州」を自らの軍政下におき、奴隷解放、黒人差別撤廃を中核とする「国家」改造に相当する政治・社会の「体制変革」を押し付けた。そして、連邦憲法修正第14条と第15条を南部諸州が批准するよう強行し、連邦憲法の下で、黒人も法の下で平等に扱い市民権を与え(修正14条)市民権を持った黒人が代表制民主主義の基本である投票権を確保できるようにした(修正15条)。
 その際、占領下の軍政で、叛乱に加担した南部諸州の上層部は「公職追放」とも言える手段で投票権を停止され、あらたに投票権を与えられた黒人と北部に忠誠を誓う白人のみを有権者として州議会を選出、その占領下の州議会が連邦憲法の規定に従い、憲法修正条項の批准に必要な各州の承諾を採択した。
 
 従って憲法修正第14条、15条は南部諸州から見れば、占領・軍政下の「改憲」であった。しかし、軍政下では、秘密結社KKKによる黒人迫害等非合法の抵抗はあったものの、公の抵抗は敗戦者のなしうることではなかった。
 なお、戦後処理政策として、リンカーン大統領は寛大な、融和的な方針を以て南部の連邦への再統合を図ろうとしていたと言われる。彼の1864年3月の二期目の大統領就任演説で、戦勝を確信しつつ、戦後の方針として、「何人にも悪意を抱かず、すべての人に善意で接しよう。」云々と語ったことは有名である。それが、1865年4月14日に起こった大統領暗殺事件(狙撃が14日夜、死亡確認は15日朝)により、以後の北部の政治指導が、連邦議会の共和党急進派に握られ、南部にとり一層厳しいものとなった結果が上記のような「体制変革」の強行に繋がったと言われている。
 
占領の終結と憲法修正条項のその後の行方
 
 1877年に南部に基盤を持つ民主党(注、当時の南部の民主党保守派は、1970年代に転向し今日では共和党支持者である)が北部に基盤を持つ共和党との大統領選挙結果を巡る政治的取引の結果、『連邦軍』の占領が終了し、南部は、北部の軍政下から最終的に解放された。
 
 軍政から「解放」された南部諸州は、その後体制変化の試みをはねのけ、憲法修正条項の骨抜き化を進めた。そして、奴隷から解放され自由人なった黒人を差別し、二級市民としての地位に押しとどめる後戻りが進められ、修正第14条、第15条は骨抜きにされてゆく。所謂「ジム・クロウ “Jim Crow”」と呼称される、法令上にも直接間接に規定されもした制度としての黒人差別である。
 
 その結果、「再建期」には南部からも黒人の連邦上院議員、下院議員が選出されたにもかかわらず、軍政終了後は実際上白人優位社会が復活し、多くの黒人は文盲等様々な理由で投票権を失い、以後長い間黒人議員をワシントンに送り出すことはなかった。(因みに、オバマ現大統領が2005年にイリノイ州選出の連邦上院議員として登院した際、100人中唯一のアフリカ系議員、かつ、「再建期」後から数えて(つまり120年余りの間に)三人目のアフリカ系上院議員であった。)
 
 南部でのアフリカ系市民を差別し、投票権も事実上はく奪する「ジム・クロウ」の仕組みは、1896年に連邦最高裁が、公共施設における黒人を隔離し差別する制度を合憲としたプレッシー対ファーガソン事件の判決で、「隔離すれども平等(separate but equal)」の原則が確立する。この原則は1954年の「ブラウン対トペカ教育委員会事件」の最高裁判決で「(黒人児童のための)別途の教育施設は、そもそも平等とは言えない」との理由で覆されるまで、長年にわたり南部諸州における公共施設における「隔離すれども平等」を容認することとなった。
 
差別撤廃を百年遅延させた「隔離すれども平等」原則
 
 十九世紀最後の二十年間、南部が北部主導の差別撤廃を覆し、古き良き時代の「南部精神」に拘り続けている間に、米国の北部・中西部・西部地域は目覚ましい経済発展が実現した。その間、南部は自らの自己満足の中でまどろむような時代を過ごして行った。
 その間、「隔離すれども平等」原則により南部で人種差別が公然と行われたことは、北部等での「建前」としての平等の維持を可能とした側面があり、一種の地域間の隔離と差別にも繋がっていたと言える。他方、「本音」の世界では、南部以外でも白人優位思想が広く受け入れられており、アフリカ系を中心に有色人種に対する潜在的差別が現実として行われていた。その様な北部等における建前と本音の二重基準は、南部における公然とした差別に裏から支えられていたと言える。
 
 二十世紀の初頭、西部諸州における日本人移民排斥運動が激しくなり、日米間で大きな外交問題となったことは良く知られている。その発端は、1906年にサンフランシスコ市教育委員会による日本人学童隔離事件に見出される。この日米間の深刻な対立は1924年の移民法で事実上日本人移民の受け入れ拒否が法律上規定されると言う最悪の結果により、一つの時代が画された。
 戦前の日米関係悪化の一端となったこの事件を、米国全体を視野に入れて見てみると、サンフランシスコ教育委員会が、日本人の学童を白人学童から「隔離」し、別の施設に通学させようとしたものであり、「隔離すれども平等」原則に背馳していないことが分かる。つまり、当時の米国社会では、1896年の最高裁判決で示された原則に照らせば、憲法上合憲となる措置であった。
 対日関係への深刻な影響を懸念した当時の連邦政府は積極的に関与しようとするが、教育は州権に属することによる制約に加え、「隔離すれども平等」原則が隠然と効力を有していたので、ワシントンからの働きかけは容易に奏功しなかった。当面は日本側が移民を自主的に規制したこともあり、サンフランシスコ市の当初の動きが撤回され収束するが、日本人排斥運動はその後も続くのみならず、波状的に深刻化した。日本側は、人種の平等を法制上明示的にすること、少なくとも不平等を法律的に規定されることを回避すること、に努力を傾注するが、徒労に終わり、1924年移民法でアジア人の移民が法的に排斥され差別されることを阻止することは出来なかった。問題の核心が西部諸州のアジア人差別に留まらない、米国全土に関わる、人種差別を巡る二重基準に係るものであったからである。
 
 この様な歴史の流れの中に、1954年にカンサス州トペカ市「教育委員会」の差別的措置が最高裁で違憲とされ「隔離すれど平等」原則が否定されたことを位置づけると、世紀の変わり目から1920年代にかけて西部諸州で導入された日本人差別措置は、これ以後は連邦憲法によって正当化されることはありえないと言うことを意味している。そしてこの判決はその後、日本人を含むアジア人に対する「法の下の平等」が確保されていくきっかけであり、実際に1965年の新移民法によって1924年法に規定されていた日本人を含むアジア人に対する差別も撤廃された。
 
 第二次大戦までの歴史はさておき、その後の米国社会全体を概観すると、まず第二次大戦戦時下において戦争遂行上の必要による人種差別撤廃(例えば軍隊における人種統合)などの動きがみられるようになって来る。その後、戦後1950年代の後半にもなると、前述の最高裁判決にも勇気づけられ、人種差別撤廃に正面から取り組む政治的社会的運動が盛り上がりはじめた。そして、マーチン・ルーサー・キング牧師の活動等アフリカ系市民の運動が、白人進歩主義者に支えられ、「公民権運動」として徐々に政治的な勢いを持つようになり、やがて1964年の公民権法、1965年の投票権法の成立という成果を上げることに成功した。
 
 つまり、南北戦争終結からちょうど100年を経て初めて、憲法修正第14条、第15条それぞれが改めて法律として定められ、憲政史上の大きな転換点を画することになった。60万人の犠牲者を出したと言われる南北戦争を以てしても、実現しえなかった人種差別撤廃が100年の歳月を経てようやく現実化の第一歩を踏み出し、まさに、米国史上の地殻変動が起こったわけである。
 勿論、憲法修正条項の理念が連邦議会によって改めて実定法として効力を与えられただけでは政治社会が変わるわけではないが、この分岐点を境に、米国政治社会が白人優位社会から多民族多文化社会を志向することになった。前述の1965年の新移民法も人種・民族による移民排斥、数量制限を廃止することで時代の精神に対応していることも併せ理解することが重要である。それから40年余りを経て2008年の大統領選挙で史上初めてアフリカ系が大統領に選出されるまでに至り、そのオバマ大統領の下で南北戦終結とリンカーン大統領暗殺の150周年を迎えたことは、米国が既に一種の「歴史の終わり」を経験していることを示すものと言えよう。
 
戦争理由(the Cause)へのこだわり
 
 アメリカの南部において、さらに、建前はともかく本音においては全国的にも、実態上甘受されていた人種差別が、何故徐々に崩れて来ているのかの歴史を辿ることはこの論の範囲を超える。しかし、何故南部においては100年も人種の平等と言う建前の体制に正面から挑戦する事態が続けられたか、また米国の他の地域の発展から取り残されたかについては、彼らが、「戦争理由(the Cause)」を「抱きしめて」生きていたことにその鍵があると理解している。従って、この150年間の米国社会の歴史的変遷を理解するためには、敗戦後の南部の人々の心中を察しようとすることが必要であると思われる。
 
 南部の輩出した小説家ウィリアム・フォークナーの小説に『征服されざる人々(The Unvanquished)』と言うのがある。その昔米国で公民権運動が盛り上がっていた当時読んだのであるが、細部はともかく読後感と小説題名の持つ意義は、今でも心に残っている。「アンヴァンックウィッシュドthe Unvanquished」とは、平たく言えば、「敗けてはいません」と言う心の叫びを表現していると言える。敗戦を事実としてはともかく、心の中での受け入れを拒否して、南部魂を維持した人たちの話である。その様な南部の人たちの孤高の姿に一種の誇りに近いノスタルジアを持ちつつ同時に慈しみをもって書かれていた。
 
 米国南部の人たちが150年前の「叛乱」の失敗・「敗戦」と言う歴史をどのように受け止めて来たか、誇り高く「戦争理由」を堅持した人々がその後どの様な未来を持ったか、南部を巻き込む地殻変動が始まるまでに100年も待たざるを得なかったのは何故か、その時点からさらに50年を経た今なお現実として米国社会に存在する黒人差別・有色人差別を初のアフリカ系大統領はどう見ているのか、等今日の米国社会を理解するための課題は枚挙にいとまがない。
 そして、同じ「敵」と戦い、同様に敗戦、占領、憲法の改訂、を辿った我々日本人として、米国南部の敗戦後の歴史から学ぶべきものがあるのではないかと考える。
 2015年4月、リー将軍降伏・リンカーン大統領暗殺から150年目の今月はその様な事を考える良い切掛けであると思う。
 (4月14日記。~150年前にリンカーンが狙撃された日~)