「混沌の時代」に思う

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         杏林大学客員教授・文明論考家
               元駐バチカン大使  上野 景文

イスラム国(IS)の登場やウクライナ情勢が示すように、今日の国際社会は、20-30年前までの時代、特に冷戦期に比し、不透明感を増し、先を展望することが格段に難しくなっている。それだけに、これからの外交官の仕事は、私の時代に比しより厳しいものになると見込まれる。というのは、世界の多くの地域で宗教、ナショナリズムなどの「正義」を巡る対立や、そうした対立に起因する緊張や暴力が常態化する過程で、国際社会の秩序に揺らぎが生じているからだ。この国際社会の混沌化、不透明化を考究すると、国際社会が4つの「歴史的挑戦」にさらされていることが、その底流にあるように思えてならない。そこで、本稿では「4つの挑戦」につき、文明論的観点から拙見を提示する。

4つの挑戦

挑戦1:「個別的カミ」の台頭と「大きなカミ」の後退

かねてより筆者は、「宗教」抜きに現在の世界を語ることは出来ない、と考えている。それも、イスラムなどの「伝統的な意味の宗教」だけでなく、「広義の宗教」、すなわち、「カミ抜きの宗教」をも含めてのことだ。筆者はまた、「カミ」と言う補助線を使うと、世界の実情理解が容易になる、とも考えている。この補助線を持ち込むと、近年の国際社会では、実に多様な「カミ」が跋扈している――「宗教的カミ」に加えて、「世俗的カミ」が―――姿が浮き彫りになる。なお、「世俗的カミ」なる用語に抵抗感のある方は、「正義」もしくは「原理」と読み替えた上で、本論に目をお通し願いたい。

そこで、先ず「宗教的なカミ」について言えば、多くの宗教が近年復権を遂げている――イスラムから(スラブ系)正教、ヒンズーに至るまで。特に、イスラムの復権は、文明論の観点から見ても、国際政治論や地政学的観点から見ても、歴史的な大転換と言えよう(拙論、「『宗教復権』潮流直視を―外交力強化の条件」、読売新聞「論点」、2011年1月25日)。

同時に、「世俗的カミ」も、健在ないし重みを増している。大雑把に言えば、2つの流れがある。ひとつは、西洋モダニズムの申し子とも言うべき「民主主義教」や「自由教」の系譜、もう一つは、ナショナリズムの台頭に伴う「民族教」の系譜だ。

前者(「民主主義教」など)について言えば、啓蒙思想の所産といえる自由、人権、民主主義への西洋社会のこだわりや、自由市場主義への(米国での)あくなきこだわり(注1)は、共に「信仰の次元」に達している。加えて、西洋世界では、「動物にも可能な限り人権を与えるべきだ」、「動物を殺傷することは正義に反する」といういわゆる「動物権」擁護(注2)を標榜する人が増えているが、その言動にも宗教的パッションが看取される。西洋が標榜するこれらの「世俗的カミ」は、どれも、「普遍的文法」を志向している「大きなカミ」であるところに、特色がある。

次に、「民族教」の台頭について一言。ソ連崩壊(1991年)以降国際社会でナショナリズムの台頭が顕著になっていることは周知のことであるが、これは、冷戦の終焉を迎えた多くの国が、イデオロギーに代えて「民族(という価値)」をベースに自国のアイデンティティーの再定義を進めるようになったことに由来する。その結果、自分たちの「民族」そのものを「カミ」として神聖視し、崇める「民族教」が目立つようになって来ている。この「民族教」が奉る「カミ」は、特定の民族や地域を対象にした「個別的カミ」――個別性、地域性が高い――であり、西洋が広めて来た普遍志向の「大きなカミ」とは、好対称をなす。

以上のように、冷戦崩壊後の国際社会では、「大きなカミ」だけでなく、「個別的カミ」を奉る信仰が繚乱している。しかるに、イスラム、「民族教」のような「個別的カミ」を奉る信仰が元気をつけて来た結果、「大きなカミ」は押され気味だ。特に、「民主主義教」など「大きなカミ」の存在感は低下し、もって、国際社会の風通しは悪くなりつつある。

挑戦2、3: イスラムからの挑戦 + 「民族教」からの挑戦(中国、ロシア)

つまり、西洋的な「大きなカミ」は、2つのグループからの「ダブルの挑戦」にさらされている。

まずイスラム圏からの挑戦。近年、イスラムの復権が進む中、イスラムは民衆レベルでの影響力を強め、(イスラム圏では総じて)イスラムに対する自覚が格段に高まって来ている。ところが、イスラムには本来、西洋的なリベラリズム、モダニズムと相容れないものがある(注3)ため、イスラム社会では、イスラムとしての自己主張が強まるにつれ、「民主主義教」のような西洋的な「大きなカミ」とは距離を置く、或いは、これに公然と挑戦するような事態が起きつつある(注4)。

特に、シリア内戦を通じて実力を蓄えた「イスラム国(IS)」の登場は、その暴力性には眉を潜めるものの、英仏が百年前に勝手に引いた国境線に異を唱えるなど、肯ける面もある。もっとも、かれらの主張は、既存の文明観、国際秩序観では把握し難いものが少なくなく、西洋的モダニズムを旨とする国だけでなく、伝統型のイスラム国家にも、大いなる戸惑いを与えているにもかかわらず、ISは、テロ団体であることを超えて既に社会的に根を張っているものの如くであり、かれらを壊滅させることは困難、むしろ、何らかの形で生き残る可能性があると見てよかろう。

次いで「民族教」からの挑戦。特に経済で自信をつけた中国、ロシアは、近年、独自の「民族教」を前面に押し出すことにより、「民主主義教」をはじめとする西洋的な「大きなカミ」に挑戦し、もって、国際的緊張を高めている。ウクライナを巡るロシアの強硬姿勢や、海洋法への中国の挑戦的姿勢が好例だ。しかも、その底流に西洋への積年の怨念があることを見逃してはならない。

両国だけではない。第三世界の多くの国が、経済力に裏打ちされた自信をベースに、西洋に対し強気に転じている。すなわち、「民族教」(個別的カミ)をこれまた前面に押し出す中で、西洋的な「大きなカミ」から距離を置く事例が増えつつある(注5)。もっとも、まだ未整備なカミ、無理矢理創ったカミが少なくないが。なお、特に日本との関係で強気に転じつつある韓国であるが、「民族教」が原理主義に陥っていることは、要注意だ。

挑戦4:正義の乱立、暴力の横行

同様に悩ましいのは、ISをはじめ世界各処で、民族や宗教を巡る緊張が物理的抗争に発展し、多大の犠牲者を出していることだ。多くの殺戮が、宗教、宗派、民族、国家などの「正義」の名のもとに行われている。そこに、「正義の乱立が過剰な暴力を招く」という逆説を見る。多民族、多宗教が矛盾を抱えながら混在している地域が多いからと言う面もある。この多民族、多宗教の混在を解消する(注6)ために、或いは、正義と正義がぶつかり合って、かつては欧州で、現在は中東などの第三世界で、「過剰暴力」がまかり通り、国際秩序を揺さぶっている訳だ―――20年前にはバルカン半島で、現在はシリア、イラク、パレスチナ、ウクライナなどで。

思うに、「正義」については誰もが論ずるが、「暴力の文化」、或いは、「暴力に寛容な文化」の問題性につき指摘する人は少ない。先ずは、深刻さを増す「暴力の問題」に国際社会の関心を向ける必要がある。

結び――2つの提言

では、「4つの挑戦」にどう向き合ったらよいのか。本稿では、最も緊急性の高い「暴力の問題」に絞って提言する。この暴力の問題については、ただダラダラと議論していたのでは駄目で、理屈は棚上げしてでも直ちに行動しなくてはならない。その際の眼目は2点だ。先ずは、「正義を相対化」すること、そして、もうひとつは、「暴力を管理」することだ。以下、具体策を提示する。

(1)正義の相対化
今日における「過剰な暴力」は、「小さな正義」、「個別的正義」が乱立していることに加え、個別の「正義」を唱えている人達が、自己の「正義」にこだわるあまり、妥協を拒み、100%主張を貫こうとする結果として、他の「正義」との相克を深めているところから来るものだ。「過剰な暴力」を絶つためには、各プレーヤーに夫々の主張を3-4割抑えて貰うほかない。

ところで、この「主張の相対化」、「正義の相対化」をはかるとなると、仏教的な知恵から学べるところが多いはずである。しかも、この「相対主義的アプローチ」は日本人が最も得意とする「技」である。私の手許に、「仏教、本当の教え」(植木雅俊著、中公新書)なる本がある。原始仏典に戻って仏教の教えを見直すべきと説いた好著であるが、その中に次のようなくだりがある(p.43)。

(原始仏典では)神様は出てこない。・・・神様・・・を介在させるならば、「神様のために人を殺す」と言うことは正義・・・と考える人が出て来ないとも限らない・・・神様が目的で、人間が手段化される・・・人間が目的だ・・・・。

そう、現在必要なことは、原始仏典が説くかような精神を、世界標準に発展させることであり、そのために、「相対主義に強い」日本人がなし得ることは決して小さくない、と確信する。甚だ茫漠とした提言であるが、仏教関係者をはじめ、相対主義に強い人たちの知恵を結集して欲しいものだ。

(2)暴力の管理

そうは言っても、「正義の相対化」がたやすく進む筈がない。そうである以上、「暴力を管理」することも死活的に重要だ。言うまでもなく、実践的課題は、国連常任安保理事国(P5)を中心に取り組まれることが期待される。他方、文明論の観点からは、特に宗教者の役割が重要だと考え、2点提言する。

最も重要なことは、暴力に馴れっ子になった国際社会に対し、宗教者から「暴力の文化」追放の緊急性を大声で訴えて貰うことだ。宗教は紛争の源になることもあるが、本来は「暴力の文化」を排することにこそ、宗教者の大きな役割があるだけに。

より具体的に言おう。宗教界のスーパーリーダーが世界に向けて「暴力(戦闘、殺戮)の即時停止」を共同宣言することを強く期待したい。その際、既に共同で声明を発出した経験を有するグローバル自由ネットワーク(GFN)を通じることが実際的であろう(注7)。キーワードは「即時」だ。既にローマ法王は、たとえばシリアとの関係で、「戦闘の無条件、即時停止」を累次にわたり訴えて来ている。紛争各当事者の言い分を聞いている間にも、多くの犠牲者が出ると言う痛ましい現実に思いを致せば、「即時」というのは当然の主張だ。そのような危機感を持つ宗教者によるイニシアチブが待たれる。更に、宣言には、「残虐な殺戮を続ける限り、それは宗教の名前に値しない」との視点が盛り込まれることが望まれる。ローマ法王やスン二派の高位聖職者は、「宗教の名を語った殺戮」を夙に非難しているが、この点は何度繰り返しても、やり過ぎと言うことにはならない。

宗教者の役割はまだある。宗教のスーパーリーダーには、世界的規模での「刀狩」実現を提唱して貰いたい。「刀狩」には、国際レベルのもの(国際的軍縮)と、各国レベルのものがあるところ、私は、「暴力の文化」をグローバルに後退させるためには、(前者に加えて)後者が不可欠と考える。その意味からは、4世紀前に「刀狩」を秀吉により実現した日本の知恵――世界歴史遺産に認定されても良い(実現性は低いが)程の先見性があった――が役に立つ、と考える。

(注1)30年前NYにあって経済問題を担当していた時に感じたことだが、多くの米国人は「自由(市場)主義」という絶対的な「カミ」を信じ、奉っている。日本人が「自由のカミ」を受け入れる一方で、「農業のカミ」、「中小企業のカミ」、「地域振興のカミ」なども大切にするのを目の当たりにした時のかれらの反応は、「自由のカミ」を信奉すると言いつつ、他のカミも大切に扱う(日本人の)多神教的アプローチは、不愉快だ」と言うものだ、と直感した。その意味で、日米経済摩擦は、文明摩擦、端的に言えば宗教摩擦であった。

(注2)特にEUでは、「動物権」に基づく新しいEU指令が次々と生み出されている。かれらは、この「正義」に反する営為に強く反発する(反捕鯨論もその一環)。

(注3)イスラムはキリスト教より6世紀ほど後に出てきた宗教であるが、類似の構造を持っている。この6百年の差を考えれば、現在のイスラムは、キリスト教になぞらえれば、西暦1300年頃、すなわち中世の終わり頃に相当すると見ることができる。と考えると、イスラム世界が西洋的モダニズムに馴染むことはまずない、と考えるのが自然だ。一例を言おう。一昔前には、まともな国家では政治と宗教は分離するもの、との「常識」があった。この常識は、イスラム圏の国々には当てはまらない。これら諸国では、政教未分離、或いは、密着している場合が多いだけに。そして、近年イスラムの復権が進む中で、イスラム世界では「非世俗化(de-secularization)」が進行している。

(注4)「アラブの春」には、大きな欠陥が2点あった。ひとつは、性急な「民主化」によって、結果的に大きな混乱が引き起こされたこと。国内全体を抑えてきた強権を倒して「民主化」が行わたのだが、結果的に「権力の空白」が生じた。強権と言う「重石」がなくなったことで、異なる民族間、宗派間の抗争を招来し、過剰暴力を通じて多くの犠牲者が出た。特にシリア、イラクの現在の大混乱は悲劇的であるが、実は、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチアなど旧ユーゴスラビア諸国で1990年代初めに同様のことが既に起きており、予見性は皆無ではなかった。もうひとつの問題は、「民主化」を「煽った」西洋の人達の姿勢だ。かれらの中には、「民主化(大きなカミ)」の実現という宗教的パッションに引きずられて、犠牲の規模を冷静に見つめる視野と冷静さを持ち併せなかった向きが少なくないようだ。大きな犠牲が予見されるような場合、「民主化」プロセスを一時サスペンドするくらいの覚めた視点が必要であるにもかかわらず。以上の2つの理由から、近年アラブ圏では、民主主義の信用は低下した(拙論、「『覚めた目』で民主化を捉えよ―――『アラブの春』が宗教対立を再燃させるジレンマ」、毎日新聞、2012年5月17日)。

(注5)第三世界の諸国は、従来であれば、西洋から、「『民主主義教』に帰依するなら、援助するよ」と言われれば、資金がなかったこともあり、従わざるを得ない時代が続いた。ところが、今日においては、中国が援助外交を活発化させており、西洋に頼らなくても、「ひも付き」でない援助が得られるため、強気に転じたと言う面もある。

(注6)イラク、シリアなどに関わる国境線の再定義、或いは、(宗派の違いをベースとした)分離、分割統治は不可避との見方が、米国を含め、出て来つつある。

(注7)この12月2日にローマ法王フランシスコをはじめイスラム、ユダヤ教、仏教など世界の12人の宗教指導者が、「グローバル自由ネットワーク(GFN)」を通じて、「現代の奴隷制撲滅」を求める宣言を出したことにより、このGFNはにわかに脚光を浴びるようになった。