試行錯誤を続ける中国外交


元駐中国大使  宮本 雄二

中国の改革は、トップへの権力の集中を必要とする
1978年末に改革開放政策を始めて以来、中国経済はその規模、スピード、期間において人類史上、空前の成長を今も続けている。経済の巨大な変化は、社会を激変させ、人々の考え方を大きく変えている。その急激な変化に、統治の仕組みと人々のものの考え方が追い付いていない。かくして中国共産党の統治は、あらゆる面で大きな挑戦に直面している。習近平が抱えこんだ中国の現実の課題は実にすさまじいほど多数かつ深刻なのだ。
この中国の変化が、2012年の第18回党大会以来、党の基本方針として“改革”が最重要視されてきた根本的な理由である。そして13年秋の三中全会における『改革の全面的深化に関する決定』となり、それこそあらゆる分野の改革を“全面的”に深化させることにしたのだ。「改革」であり、事実を重んじ、結果を出すことを重視する「実事求是」であり、「思想解放」の堅持なのだ。これらのやり方を続ける限り、中国はこれからも変わると見ておいて方が良い。中国共産党の“変わる力”を軽視すると判断を誤る。
改革は、既得権益層との全面戦争となる。江沢民と胡錦濤の時代を経て、既得権益層は肥大した。それ故に総書記就任直後の12年暮れ、習近平は「トラ(大物)でもハエ(小物)でも叩く」と宣言し、反腐敗闘争を鳴り物入りで始めたのだ。王岐山を中央規律検査委員会のトップに据えての覚悟の船出であった。既得権益層は大体腐敗している。そこをたたき、改革に対する抵抗を抑えこむとともに、自派の勢力を拡大しようとした。習近平への権力の集中の始まりである。
4年6月、人民解放軍の大物であった徐才厚が党籍を剥奪され、司法プロセスにかけられた。7月、政治局常務委員までつとめた周永康が中央規律検査委員会の審査にかけられ、12月、党籍剥奪と司法への移管が決定された。習近平の勝利であり、既得権益層の後ろに見え隠れしていた江沢民の敗北でもある。総書記就任からわずか2年でこれだけのことを成し遂げた習近平の力量は、やはり相当のものだ。だが、短期間で物事を処理しようとすると反作用も強くなる。これから揺り戻しが来る可能性は排除できない。

中国の改革の道程は厳しい
私は、かねてより一つの方程式を提起している。それは「経済の発展」+「社会の安定」=「中国共産党の統治に維持」というものだ。経済の持続的成長がなければ、社会の安定もなく、共産党の統治も終わるのだ(もはや高度成長の必要はないが、社会の不安定化を回避するために必要な成長は不可欠)。
中国経済は大転換期にある。経済の構造を転換し、経済の質を向上させないと持続的な経済発展は不可能なのだ。だから今回の『決定』において、資源配分の“決定的”役割を市場に与え、政府の役割を限定することを決める等、多くの改革を盛り込んだ。そしてこれらの改革を成し遂げないと、共産党の中期目標である共産党創立百年の2020年に2010年のGDPと一人当たりの所得を倍増するという公約(一つ目の「百年」)も果たせない。
しかもルイスの転換点を過ぎ、高齢化社会の到来も間もなく来るという条件下で、それをやる必要があるのだ。つまり「人口ボーナス」により達成された高度成長の後、「中進国の罠」に陥ることなく、いかに「先進国経済」に移行するかという巨大な課題をかかえている。しかしそれを実現しないと、建国百年の2050年ごろ先進国の仲間入りをするという、二つ目の「百年」の目標の実現はできないのだ。
ところが今回の『決定』を全部こなしても、中国の真の課題を解決するにはまだ不十分なのだ。中国社会は多様化し複雑になり、高学歴化社会と情報化社会が一気に成立した。それを一党支配で乗り切るのは至難の業だ。今回の『決定』もこの問題に対する本質的な回答を提示できてはいない。
そして最後に政治が来る。国民との関係が緊張し、力関係も国民有利で進む中で、政治改革の足取りは遅い。鄧小平は、「“中国の特色ある”社会主義の堅持」と「共産党の指導」という大きな枠を中国の政治改革にかぶせた。果たしてそのような政治改革で事態を乗りこえることができるのか、という本質的な問題をかかえている。
このように習近平体制には、たとえ今回の改革をある程度実現しても、その後にさらなる厳しい試練が待っているのである。残された時間はあまりないのに、挑戦は実に巨大だ。だがそれに打ち勝つしか共産党の生き残る道はない。
ただわれわれが留意しておくべきことは、『決定』の諸改革がたとえ半分でも実現されれば、そのときの中国はさらに大きく変化しているだろうという点である。中国が今やろうとしているのは、それほどの大改革なのだ。
そして外交は内政の延長であり、特に中国においてはそうである。中国外交は、このような中国という国の大きな変化の中で形成され、実施されているのである。

中国外交は内政そのものである
中国の対外強硬姿勢は、09年から目立ってきた。「核心的利益」という言葉は、それまで台湾、チベット、新疆の問題を指すと理解されてきた。09年に南シナ海も中国の「核心的利益」であるという主張を外交部がしたとき、胡錦濤は「“核心的利益”の範囲を広げることには慎重であるべし」との意見を付したという“街の噂”も耳にした。それと同じころ、鄧小平の「韜光養晦、有所作為」という政策が、「韜光養晦、積極有所作為」に修正され、だから中国は自己主張を強めるのだという“街の噂”もあった。
やはり外交は混乱し始めていたのだ。私自身、最近、外交はかなりの程度、内政の不満の表明や指導部への揺さぶりに使われて来たのではないかとの感を強くしている。もちろん、そのような動きを助長する社会の不満や民族主義的傾向が社会の底流としてある。それは党、軍、政府においても同様だ。だからますます外交の「大義名分」を掲げ、指導部を揺さぶることができるのだ。
いま振り返ると、薄煕来事件は実に重大な出来事であった。薄煕来は党中央、つまり胡錦濤・温家宝と異なる路線を公然と打ちだした。これは重大な紀律違反である。にもかかわらず、それが禁じられるどころか半ば公認された(例えば人民日報系の「人民網」で「薄煕来コーナー」が設けられた)。習近平への政権交代を阻止し、あるいは習近平政権下での影響力を増す動きであった可能性は高い。政治局常務委員会の誰かが、またその後ろにいる長老の誰かが支持するからできたと判じるしかない。その人物が周永康であり、江沢民だったという後知恵も、かなりの信ぴょう性を持つ。
このように党が割れている最中の2010年に尖閣の中国漁船衝突問題が起こり、12年に所謂尖閣「国有化」問題が起きた。とりわけ12年は、第18回党大会の年であり、後継者について、これまでのような政界のドンのお墨付きのない初めての政権交代の年であった。だから党を割りかねないような動きも出てくるのだが、こういう時には指導部は外に対しては強い姿勢をとるしかない。妥協的な姿勢を示すと国内で足をすくわれるからだ。ましてや主権や領土という「核心的利益」にかかわる問題について妥協的な姿勢をとることはできない。
10年、あの温家宝がニューヨークで華僑を相手に厳しい顔で日本を批判し、12年には胡錦濤をはじめ政治局常務委員会の全メンバーが公の場で日本を批判した。そして狂ったような反日キャンペーンが繰り返され、尖閣に公船を何度も送り込み領海侵犯を繰り返した。日中開戦間近の論調が躍った。フィリピンにもベトナムにも、仮借のない批判と行動をとった。
12年11月に党の総書記に就任した習近平は、当面は胡錦濤政権末期の対外強硬路線を踏襲する以外に選択肢はなかった。習近平は地方勤務の長い国内派であり、あの当時、対外路線を修正する知見も力もなかったからだ。まず自分の足場を固めないと何ごとも進まない。そこでほぼすべての精力を党の掌握と国内対策においた。その間、対外強硬姿勢は続いた。これが私の解釈だ。

習近平の対外路線の形成
中国共産党のような統治システムを持つ国では、指導部の政策決定に対する影響力は大きい(もちろん国民の指導部への影響力も急増しているが、他の国との比較において中国指導部の影響力は依然として大きい)。習近平の立場に立てば、対外政策は習近平をトップとする共産党の国内統治をうまくやるために存在する。鄧小平も「外交の任務は『発展』という国内の最重要任務を達成するための外的条件を整えるためにある」という趣旨のことを言っている。
国内の権力基盤を確保した後の習近平にとり、最大の仕事は国内の運営であり、そのカギは経済の持続的発展と社会の安定にある。中国経済が完全にグローバル経済に取り込まれた今日、国際協調なくして中国の経済発展もない。中国が「改革の全面的深化」に取り組むのも、そうしないと持続的な経済発展ができないからだ。それ故に私は、国内改革派は国際協調派であり、日本は中国の改革派と手を組むべしという主張をした(「中国の『真の改革派』と連携を」:2013年12月26日付日本経済新聞「経済教室」)。
この政権運営上の必要からくる対外協調路線に着目すれば、13年の春ごろからその兆候はあった。そして13年10月、周辺外交活動座談会で重要講話を行い、「親(蜜)」、「誠(実)」、「(互)惠」、「(寛)容」の理念を打ちだした。この座談会は、李克強が主宰し、政治局常務委員会の7名の全メンバーがそろい踏みをする格式の高いものであった。だがその後続いた東シナ海や南シナ海における中国の自己中心的な強硬姿勢を前に、色あせて映った。
私は、それでもこれまでの中国共産党のやり方から、これは習近平の外交方針の表明であると判断した。14年11月の外事工作会議における習近平の重要講話において国際協調路線が再度、前面に打ち出された。「協力とウィン・ウィン」を核心とする新しい形の国際関係をつくる「中国の特色ある大国外交」とない、「義利観外交」(『大学』:国は、利を以って利と為さず、義を以って利と為す也)となった。周辺外交の基本方針も、当然堅持された。
同時に中国指導部にとり国をまとめる、つまり「社会の安定」を保つためのナショナリズムの魅力も捨て難い。したがって外事工作会議における習近平の重要講話においても、領土主権、海洋権益、国家の統一はしっかりと守ると言っているし、そもそもこの外交方針自体が、中国を豊かな強国とするためのものである。
したがって、社会の安定のために対外強硬姿勢に転ずる可能性は常にある。現に過去数年間の中国の対外強硬姿勢は、中国社会の幅広い支持を得ている。また現時点での方針が、中国が真の世界大国になったときの姿勢までを保証するものではない。中国は、あらゆる意味で生成途上であり、かなりの部分がこれから決まると見ておいた方がいい。
それにしても習近平政権が、今日の時点で国際協調の方向にかじを切った意味は大きい。とりわけ中国外交に中国の伝統的価値観を導入しようとしている点は、中国をより建設的な責任ある大国に導く一つのきっかけにはなりうる。なぜなら中国の伝統的価値観では「覇道」は強いマイナスイメージの言葉であり、徳の力を重視する「王道」が中国の知識人たちの思考をしばってきたからである。

習近平の対外政策の転換はどうして可能となったのか
習近平の対外政策の転換が可能となったのは、それをやれる国内基盤が整ったからだ。それは再び反腐敗闘争と密接な関係を持つ。大トラをきっちりと処分したことで習近平への求心力は高まった。それを踏まえて習近平の方針が末端まで実行される態勢となってきたのだ。
13年10月の周辺外交座談会で国際協調の路線が打ちだされたにもかかわらず、南シナ海や東シナ海での攻撃的な行動は続いた。11月には防空識別圏を設定した。14年5月と6月には、中国軍戦闘機が自衛隊機に異常接近した。8月には、今度は米軍機に異常接近をした。10月に習近平はインドを公式訪問したが、習近平がインドの地に足を下ろしたころ、インド北西部の中印国境で中国軍部隊が越境して数日間、インド軍とのにらみ合いが続いた。習近平の面子が大きく損なわれる出来事であった。
与えられた権限を利用しながら指導部が困惑するやり方で、指導部の方針に対する不満の気持ちを表そうとするのだ。08年12月の温家宝総理訪日直前に、国家海洋局の公船が初めて公然と尖閣諸島の日本領海を侵犯したのも同じことだ。習近平の場合は、間違いなく反腐敗のきびしい取り締まりに対する不満であり、それを通じる勢力削減に対する抵抗であろう。
だがそれも14年12月の周永康に対する党籍はく奪と司法プロセスへの移管の決定を以って徐々に収束に向かうであろう。習近平独自の対外政策の始まりと言っても良い。もしそれとは異なるおかしな動きが出てくれば、それは習近平の権力の掌握がまだ不十分であることを示唆する。

習近平外交と日中関係
14年11月の対外工作会議における習近平重要講話において、国際協調路線が確認された。もちろん軍事費の増大は続くし、人民解放軍も間断なく増強される。豊かで強い大国をつくる夢も続く。中国が覇権的な動きをしないという保証は何もないが、少なくとも習近平の時代は、「協力とウィン・ウィン」を核心とする新しい形の国際関係の構築を基本とするということだ。
これは当然、日本との関係にも適用される。来年から日中関係を改善することは可能だということになる。だが来年は第二次世界大戦が終わって70年の節目の年である。歴史がもっとも敏感な問題となるであろう。
日本でも新たな談話を出すべきだという意見もある。しかしその内容が少しでも歴史修正主義と見られるようなものを含んでいれば、中国や韓国だけではなく、旧連合国の世界の主要国との関係が大きく傷つく。村山談話と河野談話を堅持し、靖国参拝は控えることが必要にして不可欠だ。歴史問題についてはくれぐれも慎重に行動し、しっかりと脇を固めないと対中外交だけではなく、日本外交全体の基礎が崩されてしまう。
中国も70周年の行事を大々的に取り行う意向を表明している。韓国やロシアとも協同する姿勢を示している。日本の動きが、それをさらに華々しく行う口実を与えてはならない。しかし日本側が慎重に対応しているのに、中国側が敢えて大規模なキャンペーンを行えば、世界の見方も変わるし、日本国民も中国側が本気で対日関係の改善を計るつもりはないと判断する。中国が大キャンペーンを張り、またもやステレオタイプの日本と日本人のイメージを登場させれば、中国人の対日イメージが一層、現実離れをしたゆがんだものとなってしまう。そして日中両国民の相互理解もまた遠のく。この意味で中国側も歴史問題について厳しく自制すべきなのである。

(2014年12月18日記)