ベルギーから見えるヨーロッパ

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前駐ベルギー大使  坂場 三男

去る9月、私は2年弱という短いベルギー在勤を終えて帰国し、その後、さほど間を置かずに退官した。41年半に及ぶ外務省勤務の概ね半分を本省で、残りの半分を在外で過ごしたことになるが、フランスでの語学研修期間を除けば、私の外交官としての生活はベルギーで始まり、ベルギーで終わったことになる。私が日本を11分の1に縮小したような小国ベルギーに魅力を感じるのは、この国が独、仏、英といった欧州の大国の狭間で独立を保ってきた「生き様」と、首都ブリュッセルにEUやNATOの本部を抱えヨーロッパにおける1つのパワー・センターとしての「空気」を持っていることにあるように思われる。正に、ベルギーからはヨーロッパが見えるし、時には世界も見えるのである。

<ベルギーの国内状況はヨーロッパの縮図>
近年、特にリーマン・ショック以降、ヨーロッパは豊かな北部と貧しい南部に分化しつつあるように見える。EUの統合が深化する中で巨大市場のメリットを最大限に享受する独や北欧諸国に対して、イタリア、スペイン、ギリシャといった南欧諸国は経済発展が遅れ、巨額の対外債務に苦しんでいる。フランスの影響力にも大きな陰りが見える。ユーロ圏の中での「勝ち組」と「負け組」の関係は固定化されつつあるのではないか。こうした状況にあって、オランダやベルギーといった小国はドイツ経済に寄り添うことで生き延びようとしているし、中・東欧の国々も同様であろう。私が、ベルギー人の友人とこうした問題を話題にすると、ベルギー国内の政治経済状況がヨーロッパのそれと(縮尺の違いこそあれ)酷似していると指摘する人が多い。ご承知のように、ベルギーは北部がオランダ語圏(フランドル地域)、南部がフランス語圏(ワロン地域)であるが、過去四半世紀の間に、この両地域間の経済格差が拡大しており、豊かな北部地域にとって貧しい南部地域はお荷物になりつつある。このため、北部ではアントワープを拠点に南部からの分離を主張する政党が急速に勢力を拡大し、内政の混乱を招いている。北部の人々の間には、かつて、19世紀後半から20世紀前半にかけて産業革命に成功し重厚長大産業が隆盛を極めた南部地域の富裕層から虐げられたという怨念が今なお残っており、感情的要素が事態を更に複雑にしているようである。こうした南北分断状況はベルギー内政にも暗い影を落とし、連立政権の成立を一段と難しくしている。2010年の総選挙の後は新政府発足まで541日を要するというギネス記録を打ち立て、今年5月の総選挙でも(ベルギー人の目には極めて順調に映ったようだが)4党間の連立合意が成立するまでに5ヵ月近くを要しているのは異常というしかない。新たな連立政権は南部地域の中心政党である社会党をはずし、経済再建を優先する中道右派勢力を結集したものになったが、ベルギー内政はしばらくの間混乱を免れないだろう。

<カトリック離れする若者たち>
ベルギーは永らくカトリック信仰の篤い国の1つと考えられて来た。中世期において全欧州が十字軍で熱狂した時代にはベルギーから参加した王侯貴族がその中心勢力となり、第一次十字軍の指導者の一人、ゴドフロワ・ド・ブイヨンなどはベルギーの遙か彼方の地に「エルサレム国」を建国し、王の座におさまったと伝えられる。更に近世になって宗教戦争がヨーロッパ大陸を燎原の火の如く覆うと、ベルギーは新教徒と対峙し、スペイン側に付いてオランダと決別している。多くの若者がイエズス会士となってローマに赴き、遙か中南米や極東まで遠路布教の旅に出たベルギー青年の名前が今日数々残されている。16世紀末に日本に来た最初のベルギー人もイエズス会士である。ベルギー各地には世界遺産クラスの立派な教会(大聖堂)が多々残存し、堂々たる姿を見せている。しかし、近年、こうした歴史や建造物とは裏腹にベルギー人、特に若者たちの宗教離れは著しく、日曜日のミサは閑散とし、経営難に陥る教会も多いようである。週末はレンタルのディスコになっている教会もあると聞く。かつてベルギーの主要政党であったキリスト教民主党は第一党の座を追われ、南部地域ではほぼ消滅しかかっている。
その一方で、イスラム教徒の数が着実に増えている。モロッコやトルコなど中東アラブ諸国からの移民が激増した結果であり、ブリュッセルの北西街の一角は広大なアラブ人居住区になっている。最近では、「イスラム国」などの過激派に身を投じるアラブ系ベルギー人の数が増え、治安上も大きな問題になっている。また、EU域内に人の移動の自由を定めたシェンゲン協定の影響で、東欧諸国から移住してくる者も多い。ブリュッセルの街角に立つ物乞いの半数がルーマニア人やブルガリア人で、彼らの失業率の高さが社会問題化しつつある。こうした状況は独、仏などの西ヨーロッパ諸国に共通して見られ、今や「悩める欧州」の象徴的な風景になっている。 <内向する貴族社会>
ベルギーは王国であり、貴族制度が現存する。国民人口の0.2%、約2万人が貴族としての爵位を持っているようである。彼らは「貴族名簿」を通じてお互いを認知し、特権的な会員制クラブの場で交流を深めている。先祖代々の城に住み、婚姻関係も貴族どうしの間で結ばれることが多い。言語は、昔ほどではないにしても、オランダ語圏においてすらフランス語が好まれる傾向は残っている。国王は各界で活躍したり社会貢献の顕著な者の中から毎年10名ほどを対象に新たな貴族として爵位を授与している。ビジネスの世界で成功した者は、排他的なゴルフ・クラブや美食会のメンバーとなってお互いに親交を深めている。一流の音楽会やガラ・ディナーなどに着飾って出席するのも彼らである。ベルギーに在住しているとこうした「上流社会」と貧民街に居住する多くのアラブ系や東欧系の人々(半数近い若者が失業している)とのコントラストに驚かざるを得ない。この2つの世界の間にはほとんど接点はなく、むしろますます遠ざかっているように見える。ベルギーの「上流社会」は一般の人々と住む世界を異にしており、「居心地の良い空間」を守るために一段と閉鎖的になっている。勿論、いずこの国においても程度の差こそあれこれに似た状況が生まれていると思われるが、いわゆる「貧富の格差」とは非なる世界であり、長い貴族制度の伝統を持つ西欧諸国特有の「人格の格差」のようなものを感じるのは私だけだろうか。

<「欧州統合」こそベルギーの生きる道>
去る5月の欧州議会選挙では欧州統合に対する懐疑主義的な思潮が拡がり、多くの国でナショナリズムを煽る政党が勢力を伸ばした。経済低迷の責任をEU共通政策の不手際に押し付け、いわゆる「EU官僚」に対する批判も噴出した。しかし、ベルギーではこうした政治主張は全く見られず、むしろEU統合のプロセスが不十分なところに諸悪の根源があり、財政金融政策や産業政策におけるEUの権限を一層拡大すべきであるとの論調が主流である。「国の将来を欧州統合に託する」という点でベルギーの人々の間には確固たるコンセンサスがあるように見える。では、その理由は何か?
その答えは20世紀前半の歴史にある。勿論、ベルギーのような小国にとって統合された巨大市場の魅力は大きい。19世紀にヨーロッパ大陸で最初に産業革命に成功したベルギーは、常に大きな市場を求めて経済を発展させて来た。アントワープやゼーブリュージュといった主要な港湾都市は欧州のハブ港となることで最大限のメリットを享受している。しかし、ベルギーの人々が欧州統合の推進に寄せる想いはこうした経済的理由にあるのではない。それは2度の世界大戦で国家を蹂躙された苦い経験にこそ深く根付いている。隣国の独と仏が干戈を交えれば最初の被害者は両国の中間に位置するベルギーである。この両国が二度と戦争をしない仕組みを作ることが第二次世界大戦の焦土から立ち上がったベルギーの悲願であり、その願いを託されたのが後に「欧州統合の父」と言われるポール=アンリ・スパーク(ベルギーの元首相・外相)であった。EUの初代大統領がベルギー人のファンロンパイ元首相であるのも偶然ではない。EU本部は首都ブリュッセルにある。欧州統合はベルギーの国家安全保障政策の根幹を占めるのである。そう言えば、ベルギーの初代国王であるレオポルド一世はドイツのサックス・コブール家から招かれ、その王妃はフランス王家の出身であった。この国は建国の当初から独仏融和に心血を注ぎ、狭隘な民族主義的プライドを捨てていたのだと思わざるを得ない。