ペルーのロマンと魅力

写真.jpg
嘉悦大学学長 元ドミニカ共和国大使  赤澤 正人

外務省を退職した後、海外勤務地でどこが一番楽しかったか、としばしば聞かれる。それぞれの勤務地の楽しみがあり、一概には答えられないというのが私の外交的な定番の答えである。それでもどこが一番魅力があったかとの更問に対しては、「ペルー」と答えることが多い。
私は1986年から88年まで、リマの大使館に勤務した。スペイン語圏での勤務は初めてだったので、緊張してリマ空港に降り立った。治安が悪いとのことだったので、緊張感は一層強かったのを覚えている。南米でブラジルに次ぐ大きな日系人社会を抱えるペルーは、私にとって、テロ事件が多発することを除き全くの未知の国であった。
今振り返るとやはりペルー勤務は、潜水艦沈没事故、東銀支店長襲撃事件、日産工場襲撃事件等、領事関係事件の多い2年間であった。同時に、この国のロマンを満喫した2年間でもあったといえる。

遠く離れた中国で起こった文化大革命の影響は、リマにも及んでいた。四面を道路で囲まれていた中国大使館は、「修正主義」の象徴として、ペルーのテロリスト集団から頻繁に中庭に手榴弾を投げ込まれていた。歴史のあるリマの旧市街は治安が悪くて気軽には近づけなかった。逆に、郊外に出るとリラックスして砂丘地帯やゴルフ場を楽しむことができた。太平洋に面する南北アメリカ大陸の海岸線の地形は、米国のカリフォルニア州からチリに至るまで乾燥地帯であり、砂丘が連なっている。太平洋に面するリマもその砂丘地帯の一角にある。従って、リマでは全く雨が降らず、いかなる行事にも雨天順延がない。当然ながらリマの埃ぽさに慣れるには相当の月日が必要だ。このリマで2,3年に一度霧雨のような雨が降ることがあるといわれた。現地の人々はこの雨を「インカの涙」と呼んでいた。スペイン人に征服されたインカの恨みだという訳である。アンデス山脈に入り込むとこうしたインカの恨みを実感する光景にしばしば出くわす。クスコの朽ち果てた建物の壁にもたれて、ぶつぶつと独り言を言っているインカの末裔の老人を見ると、こうした恨みを体中で表しているようだ。日本でも有名な「コンドルは飛んでいる」はこうしたアンデスの山間で作られた歌である。クスコの町でこの歌を聞くと、まさに心の琴線に触れる。我々と同じようにお尻に蒙古斑点があるというインカの末裔とは、共通したDNAを持っているのだろうか。今でこそ日本人にも人気のあるマチュピチュの遺跡も、治安情勢の悪化で、テロリストによりクスコ・マチュピチュ間の鉄道線路が破壊され、長期間観光ができなくなっていた時期もあった。

マチュピチュやクスコ等の遺跡の他にも、ペルーには神秘的な現象が数々ある。米国を中心とした世界の社会科学関係の学者にとって、研究材料の宝庫ともいえそうだ。その一つがリマの郊外に広がる砂漠や砂丘地帯だ。途上国の常として、ペルーにおいても首都リマへの人口集中はすさまじい。特に、治安状況が極めて悪かった時期には、多くの山間部や地方の農民がテロの危険を逃れて、リマに移り住んできた。当然リマ市のインフラは、こうした大量の移住者を支える余力はない。地方からの人々はリマの郊外へ郊外へと広がって定住していく。周囲の砂漠に、テントや粗末なバラックが突然出現し始める。そうして、いつの間にか、どんどんしっかりした家々が建っていく。そうこうする内に電柱が出現する。主電線には無数の盗電用の電線が巻きつき始める。その内に、バスの停留所の如き物があちこちに立ち始め、リマの中心街に向かう定期バスが運行し始める。バスには鈴なりの通勤客の出現となる。こうした一連の社会現象には、全くリマ市行政当局は関与していない。全くの住民の自発的な活動の結果なのである。誰が主体となって、どのようにしてこうした共同体が出来上がっていくのか、は社会科学者にとって、極めて魅力的な研究対象となっていたのだ。

外務省員にとってペルーというと、大使公邸占拠事件が真っ先に思い浮かぶことだろう。日本外交においても最悪のテロの被害となったので、ペルー政府の対応とともに、極めてショッキングな事件であったといえよう。しかもその対応に当たったのが日系人として最初の外国の元首となったフジモリ大統領というのも、歴史の皮肉である。ペルー日系人社会も複雑な歴史を背負って日系人初の大統領を輩出したのであるから、あのようなテロ事件には、一層複雑な思いを抱いていたことであろう。
私が赴任していた80年代の後半では、フジモリ氏は日系人社会の中でさえ、それほど目立った存在ではなかった。国立農科大学の学長として教育界においては重鎮であったが、政治的には全く無名であった。私は在リマ総領事として度々フジモリ学長を訪問し、お話を聞く機会があったが、いかにも学者らしい沈着な言動に強く印象付けられた。ある時「学長は政治に興味がおありですか」と質問したことがあったが、「全くありません」との答であった。当時の日系人としては、ペルー社会において際立った活動をすること自体が極めて難しいこととされ、できるだけ控えめな存在とするよう心がけていたといえる。主としてサトウキビや綿花関連の農業に従事することを目的として移住した日系人は、本当に厳しい労働と生活を強いられた。そして、その後の第2次世界大戦時の敵国民(ペルーは米国と同盟)としての苦しい体験(米国の強制収容所への護送を含む)を経て、その勤勉振りによってようやくペルー社会で評価され始めたところであった。
ペルー社会に溶け込み、できるだけ日本人としてのアイデンティティーを誇示しないことに主眼を置いていた日系人社会としては、大統領に日系人が立候補することには大きな不安とためらいがあったに違いない。そうした葛藤を乗り越えて誕生した大統領であるからこそ、その後の反フジモリ運動も日系人社会には、極めて複雑な影響を及ぼしているものと想像される。日系人大統領の光と影は、今後も長く日系人社会を覆っていくであろう。
外国に移住した日系人の多くは、はるか離れた母国に対し、私たちの想像以上に強い郷愁と愛国心を抱き続けている。ほとんど日本語を話せない3世や4世でも、すばらしいコブシのきいた日本の演歌をカラオケボックスで楽しんでいた。大晦日には、リマの中心街の映画館を借り切って、自薦他薦の「プロ歌手」が出演する紅白歌合戦に熱狂していた。秋の日系人大運動会では、赤組、白組に代わって、明治、大正、昭和組とのグループ名に分かれた激しい対抗戦が繰り広げられていた。古き良き日本にタイムスリップできるのが、移住者の社会かも知れない。

こうした移住者の社会においても、日本人や日本企業を狙ったテロ事件は大きなショックであった。第2次世界大戦時の厳しい経験を踏まえて、現地社会に融合していくことに最大の目標を置き、その意味からはできるだけ目立ったり際立った存在を避けてきた日系社会にとって、日本というだけでテロの対象となったことは、日本の存在が大きくなってきたことを意味すると同時に、長年の融合努力に反する事件とみなされた訳である。中南米諸国においては、多かれ少なかれ反米意識があり、あまりにも巨大な存在としての米国に対しては、強い憧れと強烈な反米感情が複雑に同居している。小国になればなるほどこの感情は複雑なものとなる。
私は、1990年代の後半にカリブ海の島国ドミニカ共和国に勤務した。ドミニカ共和国も米国に地理的にも近いこともあり、対米感情は複雑だ。ニューヨークのタクシー運転手の多くはドミニカ共和国出身だ。米国のプロ野球メジャーリーグにも多くもドミニカ共和国出身者が活躍している。フェルナンデス前大統領も出稼ぎ家族の一員として幼少期をニューヨークで過ごした。しかし、歴史を振り返ると、ドミニカ共和国は何度も国内の混乱を経験し、3回ほど米海兵隊による軍事侵攻を受けている。その度に国民の中には、いっそ米国に併合された方が経済的にも豊かになるとして、併合を希望する人々も出てきたといわれている。20世紀の初頭米軍の侵攻を受け、国民の多くは反米運動を展開した。プラカードとシュプレヒコールで激しい街頭活動を行った。その多くのプラカードには、お決まりの「Yankee Go Home!!」の文字が躍っていた。そして、こうした多くのプラカードに混じってあるプラカードには、お決まりの大きな文字の下に、少し小さな文字で、少々遠慮がちに「Take me with you !」と書かれていたそうだ。この国の国民の米国に対する感情をよく表している。

ペルーにおいても米国の存在は圧倒的なので、日系人にとって米国と同様に左翼テロの標的となるとは、以前なら予想さえできなかった出来事であっただろう。ペルーのテロ活動はある意味では貧困層の支持を受けることもあり、その根絶は極めて難しかった。ペルー国民の生活レベルの向上に伴って、治安が一層改善され、日系人社会が更に発展していくことを心から願って、このロマンに満ちた国についての一随想としたい。
(2014年10月20日寄稿)