エボラとモブツ

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フォーリンプレスセンター理事長、元国連事務次長 赤阪 清隆

エボラ熱が西アフリカで猛威を振るっている。世界保健機関(WHO)によると、 9月10日現在、すでに感染者数が約4,300人、死者数は約2,300人に達している。リベリア、ギニア、シエラレオネなどでの死者が多いが、感染者が西アフリカの他の国々にも拡大している。

エボラ熱というのは、世にも恐ろしい感染症である。人類が発見したウイルスの中でも最も危険なウイルスの一つだと言われ、感染者の死亡率は50から90パーセントにも達する。感染原因は、サルやコウモリなど諸説があるが、感染した患者の血液や汗、唾液などの飛沫が感染源となる。感染すると短期間(早ければ数日内)に発病し、口や、歯、鼻、皮膚、消化管などから出血し、多くは死に至る。まだ有効なワクチンや治療法は確立されておらず、WHOは今年11月から2種類のワクチンを試験的に投与すると発表した。 

このエボラ熱がアフリカを襲うのは今回が初めてではない。私が外務省からWHOに出向していた1995年にも、その4月から6月にかけて、ザイール(現コンゴ民主共和国)の首都キンシャサから約400キロ離れた人口約40万人のキクウットという町で、エボラ熱が発生した。発生から数週間が過ぎたころから、死亡者が増え始め、その中には、熱を出した患者を病院に運んだタクシーの運転手が、タクシー代金をもらう際の患者の手との接触で感染し、数日と経たない間に死んだという例もあった。

エボラ熱がザイールの首都キンシャサに近いところで発生したということに、WHOは危機感を高めた。キンシャサからは欧州の各首都などへ国際線航空便が数多く飛び交っている。だから、万が一エボラ熱がキクウイットからキンシャサに飛び火すれば、世界中に感染者が広がるかもしれないと懸念された。

WHOの対応ぶりは、素早かった。WHOは、5月初旬にザイール政府の要請を受けて、米国の疾病予防管理センター(CDC)と緊密な連絡を取り、国際医療チームを結成して、彼らを即刻現場に派遣した。WHOでは、イタリア人のバサーニ部長をヘッドとする緊急対策部が、昼夜を分かたず現地との連絡を取り続けた。現地では、感染者を町の人々から隔離し、病院で懸命の治療が行われた。このために、現場の医者や看護婦で感染し死亡した人も、死者全体の3割に当たるほど多かった。5月中旬から下旬にかけての時期に感染・死亡のピークを迎えたが、関係者の懸命の努力の甲斐あって、その後死者数は急速に減少した。

そして、6月後半に至って、ようやくエボラ熱の伝染が止まった。結局、感染者数は315人で、そのうち死者は244人であった。死亡率は77パーセントにも及んだことになる。エボラ熱が征圧されたのを受けて、WHO本部では、中嶋事務局に現地に飛んでもらうことを決めた。

6月29日、中嶋事務局長、バサーニ緊急対策部長などの一行は、ザイールの首都キンシャサに着いた。中嶋事務局長の顧問をしていた私も同行した。キンシャサは緑豊かな大きな都会だ。WHOのザイール駐在代表による歓迎の宴が、宿泊先のインター・コンチネンタル・ホテルの緑の絨毯を敷き詰めたような広大な庭で開かれた。
誰が言い出したのか覚えていないが、ザイールを国連専門機関のトップが訪問するからには、独裁者といえどもまだ元首のモブツ大統領にまず挨拶に行かねばまずいだろうということになって、その手配が行われていた。しかし、当時ザイールの政情は悪化の一方をたどっており、身に危険の迫ったモブツ大統領は、首都キンシャサを逃げ出して、中央アフリカとの国境に近いバドリテという町に避難していた。キンシャサから直線距離で測っても約1200キロも離れたところである。鉄道も高速道路もないところだから、小型飛行機をチャーターして行くしかない。バドリテまで飛んで、さっと大統領に会って、それからエボラ熱発生の地キクウットへ出来るだけ早く飛んでいく計画が作られた。

ザイールのモブツ・セセ・セコ大統領は、ウガンダのイデイ・アミン大統領、中央アフリカの皇帝ジャン・ベデル・ボカサ、ルーマニアのニコラエ・チャウシェスク大統領などと比べても、一歩も引けを取らない正真正銘の独裁者であった。1965年11月に2回目のクーデターで政権を掌握し大統領に就任したモブツは、国名を「コンゴ」から「ザイール」に変更し、強烈な独裁制を敷いて、1997年までの32年間もの長期にわたり大統領職にあった。冷戦時代は、西側先進国から多額の援助を受け、その多くを着服した。

キンシャサで一泊した中嶋事務局長一行は、翌30日早朝、小型チャーター機に乗り込んでバドリテに向かった。本当に小さな飛行機で、体格の良いバサーニ部長などは体を小さく丸めて窮屈そうに座った。ザイールの国土は広く、日本の全面積の6倍以上もある。飛行機の窓から地上を垣間見ても、森また森が続くばかりであった。
バドリテというところは、中央アフリカとの国境をなすウバンギ川の近くで、モブツの母イエモの生まれたところといわれる。モブツ自身は、そこから250キロほど南に行ったリサラで生まれた。5千人ぐらいしか住んでいなかった森の中の小さな村バドリテに、「ジャングルのヴェルサイユ宮殿」と呼ばれた豪華な宮殿を建てた。ベルギー国王のラーケン王宮をまねて作らせたという。そしてこの村には、大型のボーイングやコンコルドも乗り入れできる国際空港が建設された。モブツは当時世界最速の飛行機コンコルドに乗るのが好きで、1989年のフランス革命200年祭に招待されたあと、その帰りにパリとバドリテ間を飛ぶのに、コンコルドを借り上げた。

中嶋事務局長一行は、数時間の飛行の後、午前10時半にバドリテに到着した。その日もまた中部アフリカの蒸し暑い一日が始まろうとしていた。我々がバドリテに着いた時点では、ザイールの内紛がもうその空港を使うことも困難にしていたのだろうか、広い空港には他の飛行機は一機も見えず、閑散としていた。空港に降りついたというより、一面コンクリートのだだっ広い広場にたどり着いたような感じであった。

間もなく、迎えの車と軍用車が来て、我々を宮殿まで運んでくれた。まずは、大統領官邸から少し離れたゲストハウスに案内され、そこでしばらく待つようにとの指示があった。しばらくすると儀典長がやってきて、慇懃に歓迎の意を述べた後、大統領は目下外出中であるが、もうすぐ戻ってくるので少し待っていただきたいという。我々は、指示されるままに、そこにあったソファーに座って待つことにした。

それから1時間ぐらいすぎたころに、儀典長が再びゲストハウスに顔を出して、「まもなく大統領は戻ってくるでしょうから、もう少し待ってください」と言ったあと、そそくさと姿を消した。この儀典長は背が低い男であったが、低姿勢で、慇懃無礼で、しかもなかなか親切そうに見えた。
当時、独裁者に会うのに数時間ぐらい待たされるのは当たり前であった。中嶋事務局長に同行してシリアを訪問したときは、事務局長がアサド大統領(現シリア大統領の父親)と会うのに、ホテルで何時間も待機させられたあと、突然お呼びがかかったことがあった。だから、こちらも、独裁者モブツに会うのに2,3時間の待機がありうることは覚悟していた。

午後3時が過ぎたころ、儀典長がまたやってきて、「もうすぐ大統領に会っていただけますが、皆さんはおなかがすいたでしょうから、まずはどうぞ昼食を召し上がってください」といって、昼食を提供してくれた。昼食は、確かサンドイッチと果物だったと記憶する。我々は、「ああ、これはありがたい」と感謝して食物を口に入れた。
昼食を済ませたあと、私は夜までの残り時間がだんだんと少なくなりつつあることに気がついて心配になりだした。すでに4時間以上も待たされていた。私は、「中嶋先生、もう帰りましょうか。これ以上待つと飛行機を飛ばせなくなりますよ」と出発を促した。飛行機の残りの燃料からして、そこからキクウィットまで直行して、そのあとキンシャサに戻るのは無理であったので、まずは一旦キンシャサに戻り、翌日出直してキクウットに行くしかないと考えた。中嶋事務局長も、そうするしかないかということで私の提案を受け入れた。

それで儀典長を呼び出してもらって、「大変残念ですが、大統領との会談をこれ以上は待てません。明日は大勢の人たちが我々を待つキクウットに飛ばなくてはならないのです。そのために、今日は夜になる前にキンシャサに戻らなくてはなりません」と伝えた。そうしたら、儀典長は、みるみる血相を変えて、「それは困ります。頼みますから、夕刻まで待ってください。大統領には必ず会っていただけますから」と言う。こちらが「夜になると飛行は危ないのではないですか」と言うと、儀典長は、「いや、いや、夜でも飛行は大丈夫ですよ。夜に飛行機が飛ぶことはしょっちゅうありますから」と応じた。

それでは、と不満を抑えて再びソファーに座りなおして待つことにした。「夜でも飛べるなら、そんなに慌てることもないでしょう」と中嶋事務局長に伝えた。事務局長は、私などと違って、全然あせる風でもないし、長時間待たされたのに怒るわけでもない。いつものように、随員をつかまえては雑談に興じていた。

だんだんと時間は過ぎて、午後7時を回ったころになっても、まだ大統領には会えない。私はしびれを切らして、儀典長を呼んで、「もうこれ以上は待てない。今晩キンシャサに帰らないと、明日キクウットにも行けなくなる。キクウットでは、たくさんの重要人物や医師たちが我々を待っているのだ。どうしてもこれから帰る」と伝えた。そうしたら、儀典長は、「そうは言っても、もう夜です。夜の飛行は危なくて、無理です。皆さんを危険な目に会わせることはできません」と先刻言ったこととは全然違うことを言う。

「あなたは夜でも飛行は大丈夫だと言ったではないか」と相手をなじると、横からサンバ・WHOアフリカ地域事務局長が、「ミスター・アカサカ、ここはアフリカだ。アフリカではアフリカの流儀に従うのがルールだ。大統領に会わないで帰るのは非常にまずい。もう少し待てというなら待つしかない」と言い出した。私は、頭にきて、「何を抜かすか。お前のボスは国連機関のヘッドではないか。国連機関のヘッドがこんなひどい扱いをされてたまるか」と怒り声を上げたら、先方も怒り出して、二人して大声でわめき合いとなった。儀典長は、おろおろとしながら、「もうすぐ大統領に会えるでしょうから、もうちょっと待ってください」と言うばかりで、そそくさと何処かへいなくなった。
アフリカの夜はつるべ落としで暗くなる。マラリアのウイルスを持った蚊がやってくるのではないかと心配しながら、そのまま夜遅くまで待ち続けた。夜11時過ぎに、ばたばたと人の足音がして、小テーブルに載せた夕食が持ち込まれた。チキンと野菜を煮たものをご飯にかけたようなものだったと記憶する。おなかがすいていたので、やけにおいしかった。

やがて儀典長の部下がやってきて、「この時間になると、今晩は大統領に会うのは無理と思うので、どうぞ今晩は寝てください」と言う。中嶋事務局長には個室があてがわれたが、そのほかの随員はソファーで寝るしかない。こんな風に泊まることは想定していなかったから、着替えも、歯磨きも持ってきてはいない。着の身着のままでソファーに身を横たえるしかなかった。
深夜、ぷーんと蚊が近づいてくる音がする。メスのハマダラカは夜に産卵のために人の血を吸って、マラリア原虫を人体に侵入させる。赤ちゃん蚊を育てるために夜にだけ人を刺すというのだから、健気なやつだという気もしないではないが、マラリアにかかったら発熱して大変だ。アフリカでは、毎年数十万人もの人や子供がマラリアで亡くなっている。
だから、眠るどころではない。近づいてきた蚊をたたき、手を振り回すうちにいつの間にかまどろんだのか、朝が白々と明けてきた。午前6時前に起き上がったが、すでに私の堪忍袋の緒は切れていた。もうこれ以上は1分も我慢できないと、固い決意で儀典長にこちらから一方的に別れを告げた。そして荷物をまとめて、みんなして空港へ車で直行した。

がらんとした空港には、我らの小型飛行機だけが待機していた。そこにも蚊がいたが、マラリアをうつすメスのハマダラカは日が昇ったら人を刺さないと聞いていたので、もう怖くはなかった。アフリカの朝の空気は冷たくさわやかで気持ちがいい。その空気をいっぱい吸い込んで、昨日のひどい出来事を忘れようとした。
我々のパイロットが乗り込んで、飛行の準備をはじめたころ、空港の隅からジープが近づいてくる音がした。そして、それが我々に近づいて、兵士数人がどやどやとジープから降りたかと思うと、機関銃を我々に向けた。そのうちの一人が、「元のゲストハウスへ戻れ」と我々に命令した。大統領に会うまでは出発させないというのだ。
私は、驚くやら腹が立つやら、「なにー、それではあなたたちは我々を人質にするというのか。国連機関のヘッドを人質にして、どのような結果が待っているか分かっているのか」と大声を上げてみたが、兵士たちにはまるで蛙の顔に小便、何の効果もなかった。所詮、武器を持った兵士たちを相手に喧嘩を始めても勝ち目はない。すごすごと元のゲストハウスに引き返すしかなかった。

ゲストハウスに戻ってまもなく、儀典長が息せき切ってやってきて、「大統領が会います。これから皆さんは宮殿に向かってください」と大声で告げた。そして、ようやく午前10時過ぎに、中嶋事務局長一行は宮殿の中の大統領官邸に導き入れられた。
大統領官邸は、聞きしに勝る豪華な建物であった。そこで待つこと数分、あのモブツ大統領が部下を引き連れて顔を出した。さすがは天下の独裁者、惚れ惚れするほど堂々としていた。そして、中嶋事務局長と私の顔を見るなり、大統領は太い声のフランス語で、「あなたがた日本人は、パシアント(忍耐強い)」とのたもうた。
私は「馬鹿にするのもいい加減にしろ」と叫びたかったが、中嶋事務局長はニコニコと笑っていた。大統領は、「親戚の不幸があって、昨日はその葬式に行ってきたのだ」と付け加えた。私は、なぜそうならそうと言わなかったのだと顔で示して、そばにいた儀典長を睨みつけた。

中嶋事務局長は、忍耐強いといわれて気を良くしたのか、開口一番、23時間も待たされたことへの不満を一言も発せずに、「大統領、飛行機の燃料をください」と切り出した。「燃料のケロシンが足りないのです」と付け加えた。これが中嶋事務局長の非凡というか、常人と違うところだ。大上段に構えて大所高所の話から始めるのではなく、目の前の個別の問題のデイテールから始めるのだ。モブツ大統領は笑みを浮かべながら、「もちろんお安い御用だ」と機嫌よく応じた。そして、大統領は我々一行を別室での朝食へと誘った。そこには、ボン・ママンのイチゴジャムが瓶のままでフランスふうの朝食が我々を待ち受けていた(写真)。
朝食が終わるや否や、我々一行は急いでキクウイットに直行することを決めた。燃料の補給が出来たので、まずキクウイットに飛び、それからキンシャサに戻ることが可能になったのだ。パイロットが飛行機の翼によじ登って急いでケロシンを注いだ。

 それから一路キクウットへ向けて飛んだ。キクウイットの空港では、大勢の人々やお偉方が待ち構えていた。加えて、半分裸の踊り手たちがドラムをたたいたり、踊ったりして派手に歓迎してくれた。それから町の中央まで自動車やバンに分散して向かったが、道中はまるで凱旋将軍が群集にもみくちゃにされるような騒ぎであった。大人も子供も、走り、飛びながら我々の車を追いかけてくる。エボラという悪魔が町から消えた安堵と喜びとがどの顔にも表れていた。そして、それを可能にしてくれたのがWHOであり、そのトップの中嶋事務局長は、人々にとっては命の恩人なのだった。

今から振り返ると、中嶋さんは事務局長時代に色々と批判も浴びたが、ことこのような感染症にまつわる非常事態となると確かな指導力を発揮したと思う。後の狂牛病の発生のときもそうだった。彼を支えた部長連中やスタッフにも飛び切り優秀で仕事熱心な人たちがいた。だから、1995年のエボラ熱の流行の際は、緊急対応策が迅速にとられ、国際的な医療チームが遅滞なく現地に飛んで、死者を2百数十人出しただけでこの恐ろしい感染症の拡大を防いだ。
あれから20年たった2014年の現在、予算が削られ、担当の職員が少なくなったWHOが、再び発生した西アフリカのエボラ熱の拡大を必死で防ごうと努力している様子を見るにつけ、大変だろうが頑張れとエールを送りたくなる。予測では、死者数は近いうちに1万人を超えるだろうという。この史上最大のエボラ熱の蔓延が、一日も早く終焉を迎えることを祈りたい。その際には、アフリカ全土の人々は、あの中嶋事務局長一行を迎えたキクウイットの人々のように、WHOのドクターたちを命の恩人として再び英雄のように迎えることだろう。 (了)
(2014年9月11日寄稿)