ポスト・ワールドカップのブラジルと安倍総理の訪問

brazil.jpg
元駐ブラジル大使 島内 憲

1.はじめに
2014年FIFAワールドカップでホスト国ブラジルの優勝はならなかった。それどころか、準決勝でドイツに7対1というサッカー史に残る惨敗を喫し、ブラジル人サポーターが涙を流す姿が世界中に流れるという、想定外の結果になってしまった。一部マスコミで、「これでブラジルは大混乱に陥る」とか、「10月の大統領選挙にも影響が出る」とかいった短絡的な報道も見られた。実際はどうだったのか。最近、率直な物言いで知られるブラジル政府高官は、筆者に「ブラジルはW杯の不本意な結果で悲嘆に暮れていると思われているが、実はそうではない。大部分の国民は大会の運営が上手く行ったことを喜んでいる。」と語った。筆者は、同人の発言は、単なる政府の公式説明ではなく、おそらく実態に近いのではないかと思っている。

ブラジルは、実際に住んでみないとよくわからないことが沢山ある国である。例えば、政治と経済が不安定で治安も悪い開発途上国の代表選手といったステレオタイプが今もなお残っているが、現実はだいぶ違う。先進的な部分を持つ文明国であり、意識の上でも先進国に近い。ブラジル政府は政治的思惑から、開発途上国グループのリーダーを標榜するが、他の新興国と一緒にされたくないというのがブラジル人の本音である。従って、ブラジル人の大多数はW杯の結果について、「サッカーの試合で負けた程度のことで、国全体がおかしくなってしまってはたまらない。ブラジルはそんなお粗末な国ではない。」と考えているに違いない。

2.ブラジルの現状
それでは、ブラジルの経済は、今どうなっているのか。ルセーフ現大統領が就任した2011年以来、低成長が続き、精彩を欠いている。新たな経済成長の起爆剤になるはずだったW杯効果も期待外れだった。逆にW杯開催期間中、国全体がお祭り気分になり、その分経済活動が低下した(6月の工業生産は前年同月比でマイナス6.9%)。14年の成長率は、1%或はそれ以下との予想が出始めている。一方、インフレは政府目標(4.5%±2%)の上限値(6.5%)すれすれで推移しており、改めて懸念材料となっている。

ブラジル人は消費意欲が高い人々である。自動車や冷蔵庫、洗濯機などの家電製品の普及率はまだ伸びる余地が大きい。これまで、低成長の下でも、減税等様々なインセンティブにより、消費は堅調に推移してきた。また、事実上の完全雇用の状態が続き、一部分野ではむしろ労働力不足が深刻な問題になっていた。その結果、生産性向上を伴わない賃金上昇が続いていた。低成長が政権にとって致命傷にならなかったのは、こういった賃金上昇と消費拡大のサイクルを何とか維持できていたからである。

しかし、現在、この前提が崩れつつある。消費は頭打ちになっており(14年第14半期の自動車販売は前年同期比で7.6%減少、家電も落ち込んでいる)、新規雇用の創出も鈍化している。雇用に関しては、完全雇用に近づいているので、増加率が鈍化するのは当たり前だとする意見もあるが、W杯の終了により、建設業やサービス業で需要が減るであろうとの悲観論もあり、後者の見方の方が説得力を持っているように思う。
10月の大統領選挙はどうなるのか。結果を予測するのは時期尚早であるが、W杯準決勝での敗退が選挙結果を大きく左右する要因になると見るべきではない。現にルセーフ大統領の支持率は大会後も大きく変わっていない。しかし、昨年までは、再選確実との見方が支配的であったのに対し、本年に入ってから野党候補が追い上げており、接戦になるとの観測も一部で出はじめている。10月5日の選挙から目が離せなくなっている。

3.ブラジルで政権交代があっても変わらないこと
 選挙結果如何にかかわらず、現在のブラジルの安定成長の基礎をなす次の3つのことは変わらない。
1つは、ブラジルでは、民主主義が完全に定着しており、政権党の交代があってもこれが民主体制そのものに影響を及ぼすことはないという点である。一部中南米の国では、民主的手続きのより選ばれた政権が強権政治に傾斜し、民主主義が形骸化している例が見られるが、ブラジルがこのような道を歩むことは考えられない。三権分立が確立しており、元気のよいマスコミの監視も極めて厳しい。行政権が暴走できない仕組みができている。次の政権も、その次の政権も公正な民主的選挙で選ばれるであろう、と確信できる国である。それでは、昨年6月の全国規模の抗議デモをどのように見るべきか。市民的権利に目覚めた中産階級が民主主義のルールの下で、都市交通インフラ、医療、教育等劣悪な公共サービスの改善や政治家の腐敗防止等を求めて立ち上がったものである。民主主義の欠如ではなく、むしろ、その成熟の表れである。

2番目は、健全経済運営である。ブラジルの政治家にとって最も怖いのはインフレである。ブラジル国民の間では、同じ商品の値段が午前より午後の方が高くなっていた時代の記憶が今もなお鮮明に残っており、インフレが再燃すれば、最大級の政治問題になることは必至である。何れの党が政権をとっても、インフレの回避を最優先する健全経済運営路線を堅持することは至上命題である。ブラジル政府はこの数年間、成長率低下の中でインフレ再燃すれすれの景気刺激策を打ってきたが、インフレ抑止か経済成長かの二者択一を迫られた場合、確実に前者を選ぶであろう。

 3番目は、格差の是正を目指す所得再分配政策である。ブラジルはかつて、世界で最も貧富に差が大きい国の一つであった。今でも、格差解消は大きな課題として残っている。しかし、現在はBRICSの中で唯一、格差が縮小(ジニ係数が低下)傾向にある国となっている。貧困家庭に対する給付金支給、最低賃金引き上げ等からなる社会政策が中間層を育成し、経済社会を安定化させ、更には内需を拡大する上で大きな役割を果たした。「ブラジル・モデル」ともいうべきこの基本路線の直接の受益者は全人口の4分の1に相当する5千万人と言われ、仮に政権党が交替しても大きく変わることはないであろう。かつて、貧困家庭給付金をばら撒き政策として目の敵にしていた保守層の間でも、長期的には国民の教育水準向上につながるものとして積極的に評価する意見が出はじめている。

4.次期政権が変えなければならないこと 
 しかし、現在ブラジル経済が、低迷していることは、先に述べたとおり紛れもない事実である。特に、消費の冷え込みが目立ってきており、耐久消費財の税率引き下げなどの消費刺激策だけでは、成長率を押し上げることが難しくなっている。最早、構造問題を覆い隠すことができなくなっている。政治家が支持率低下を覚悟の上で、長年解決を先送りにしてきた諸課題に取り組まなければ、ブラジルの経済成長が巡航速度を大きく下回る状況が続くことは避けられないであろう。

それでは、具体的に何が問題なのか。一言で言えば、経済の国際競争力の低さである。国産の工業製品の多くは、高額の輸入関税を支払って入ってくる輸入品より値段が高い。日本の自動車メーカーの現地生産車の価格は、日本国内で販売されている同じグレードのモデルの約2倍である。工業生産の20%を占め、基幹産業である自動車ついては、輸入車に対する差別的課税により何とか国内生産を守っているのが実情である。

競争力不足の原因としては、ブラジル特有の高コスト要因が指摘されている。内外の有識者の間では、常識になっていることばかりであり(詳細は後述)、問題は、為政者に改革を実施する意思と能力があるかどうかである。筆者の在任中(2006年~2010年)は専ら、為替レート(レアル通貨高)が国内製造業苦戦の元凶とされた。政府は、時には劇薬や禁じ手まで使ってレアル安誘導をしようとした(資本の流入規制など)。ところが、ギリシャ危機を契機とする欧州経済の悪化により、あっという間にレアル高がレアル安に転じ、輸入インフレが懸念される状況になった。

ブラジルとして苦しいところは、国際競争力を回復するために必要な為替レート(1ドル=2.6~2.8レアルとされる)がインフレ防止の観点から許容限度を大きく超えていることである。この矛盾を解決するには、先延ばしにされてきた改革を断行する必要がある。具体的には、道路、鉄道、港湾等インフラ整備の立ち遅れ、高くて複雑な税金・税制、前近代的で硬直的な労働制度、複雑で不合理な官僚手続きなど(いわゆる「ブラジル・コスト」と呼ばれるもの)の改善が急務となっている。また、エネルギーをはじめ一部分野における政府の過剰介入が民間の投資意欲を削いでいるとの指摘が内外からなされているほか、メルコスール(南米南部共同市場)中心の保護主義的な通商政策の見直しを求める声も強まっている。これまで、インフラ整備に関しては一定の進展があったが、それ以外の課題はほとんど手つかずのままである。次の大統領は、これらの課題にスピード感をもって取り組まなければならない。

5.それでも、ブラジルは自然条件に恵まれた正真正銘の大国である
 現在のブラジルは多くに課題を抱えているが、昔のブラジルではないことを忘れてはならない。かつての軍政下のブラジルは、国内で政治的正統性を欠き、国際社会でも孤立気味であった。経済面では、慢性インフレと借金漬けがトレードマークであった。しかし、85年に民政復帰を果たし、95年に発足したカルドーゾ政権が健全財政政策を定着させてから、安定成長路線を歩んでいる。今や、約3700億ドルの外貨準備を保有する純債権国であり、80年代の危機の原因となった石油の輸入依存も解消している。石油の自給を達成しているのみならず、そう遠くない将来、主要産油国入りすることが確実視されている。現在のブラジルは、正真正銘の大国である。経済規模は単独でASEAN10の合計を上回り、GDP世界ランキングで英国と第6位を争っている。

 ブラジルは、もともと自然条件・環境に恵まれた国である。程よい人口規模(2億人)、広大で山岳地帯が少ない国土(日本の23倍)、温暖な気候、豊富な鉱物資源・エネルギー源など人間の経済社会活動に必要な手段と条件をすべて備えている。農牧業の潜在力は世界一である。電力の90%は水力発電であり、自動車用燃料の約半分をバイオ燃料で賄うクリーン・エネルギー大国でもある。風力発電、太陽光発電のポテンシャルも世界でトップクラスである。もう一つ特筆に値するのは、ブラジルが地球上の利用可能な淡水の20%を保有することである。

 いずれにせよ、2016年にリオ夏季五輪開催や深海底油田開発(現在同分野で世界最大のプロジェクト)その他のメガプロジェクトの実施、豊富な鉱物資、世界最大の農業生産ポテンシャルなどにより、今後も世界から熱い視線を集め続けるであろう。このような有利な条件がどの程度実際の経済成長につながるかは、前述のインフラ整備と構造改革の進展次第であるが、ブラジルに丸4年在勤してわかったことは、ブラジルという国は、殆ど気づかないほど緩やかなペースではあるが、着実に前に進んでいることである。在勤中、交通インフラ改善から汚職対策まで、様々な面で一定の進展があった。今後も民主的な手続きの下、「ブラジル時間」で政治経済改革やインフラ整備が進むであろう。現在のブラジルは、20年前に比べれば、見違えるほど豊かで良い国になっている。10年には今より良い国になり、その10年後は、更に良い国になっているであろうと筆者は確信している。

6.日本・ブラジル二国間関係と安倍総理のブラジル訪問
 7月31日から8月2日まで安倍総理が50人のCEOクラスを含む大型財界ミッションとともにブラジルを訪問した。日本の総理の訪問として実に10年振りのことであった。遅きに失したとは言わないが、あまりにも長い空白であった。しかし、今回の訪問が多大の成果を上げたことにより、10年間の失われた時間をある程度取り戻すことができたと考える。訪問の概要や評価については外務省ホームページで詳しく紹介されているので、ここでは立ち入らないが、筆者はとりわけ次の点に注目している。

  • ①我が国としては、長年の経済低迷により国としての存在感が低下してしまっていたが、最近の経済回復により、再び国際社会の注目を浴びるようになっている。こうした中で、今回の訪問により、無類の親日国であり、新興国で第二位の経済力(インドの1.3倍、ASEANの1.1倍)を持つブラジルとの協力関係を戦略的グローバルパートナーシップと新たに定義したことの意味は大きい。今後は、しっかりとした中身を持つようハイレベルでの不断のアテンションが不可欠である。この点両国外相間の定期会合が合意されたことは画期的なことであった。
  • ②一方、ブラジルから見れば、今回の総理訪問は我々が考える以上に実り多く、時宜に適ったものであったのではないか。現在ブラジル経済は袋小路に入り込んでしまっており、現状を打開するために、構造改革とともに、様々な分野での技術力向上と人材育成が喫緊の課題となっている。今回、首脳間で造船、インフラ整備、石油ガス開発、医療等の具体的分野の経済関係の拡大深化について話し合われ、また、日本側から人材育成面の協力が表明されたことは、ブラジルの最優先分野と日本の得意分野のマッチングをトップレベルで行ったことを意味し、中長期的に大きなインパクトが期待される。
  • ③このほか、日本に入国するブラジル人の一般査証が数次化されたことの意義は非常に大きい。ブラジルは日本に対する関心が高いのみならず、親日家の層が厚いのが特徴である。また、2億の人口を擁し、富裕層人口も世界有数である。これまで、就労目的で我が国にやってくるブラジル人は多かったが、今回の数次査証の導入は、2020年の東京夏季五輪に向けて、観光目的等で日本を訪れるブラジル人の数を飛躍的に拡大させる上で重要な一歩となることは間違いないであろう。

日本とブラジルの間には、160万人の日系社会の存在と長年の協力実績にしっかり裏打ちされた絶大なる信頼関係が存在するが、日ブラジル二国間関係は、新興国の台頭、欧州の停滞等などにより国際社会の力学が大きく変化する中で、以前にも増して、双方にとって重要なものとなっている。「相互補完関係」を卒業し、いよいよ「相乗効果ある関係」の段階に入った。今回の総理訪問により、新しい動きに弾みがつき、両国関係は本来あるべき姿に近づいたといえよう。これからが楽しみである。

(2014年8月21日寄稿)