タイ社会の分裂はどこに向かうのか

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前駐ラオス大使 横田 順子

1.  2007年4月、タイのチェンマイに総領事として勤務した。これが最後のタイでの勤務であった。1973年7月、最初にタイに赴任して以来34年が経過していた。この間、タイとシンガポールと日本で勤務した。シンガポールでの勤務ではタイと直接関わりの無い仕事に就いていたが、どこでどんな仕事をしていてもタイのことが気になる。結婚して他家に嫁いでもやはり実家が気になるのと同じだろう。外務省にあってタイ語を現地で研修し、多くのタイ人に助けられ、交流を続けた者として当然の事でもあろう。そんな私がタイに最後の機会として赴任したのが2007年4月、3度目のタイ勤務であった。チェンマイには3年4ヶ月在勤したが、その間最も強く感じたことが、本稿の表題「タイ社会の分裂はどこに向かうのか」という点であった。というのもタクシン首相が2006年に国外に出て以来、タイ政治はタクシン氏を巡る意見対立で現在に至るまで大きく揺れているが、その対立が当時すでにかってないほど国民の間にまで広く浸透していたからである。ご存知の通り、タイは政権交代の手段として軍部によるクーデターが頻繁に行われてきた国だが、広く国民一般がその権力闘争に参加することはほとんどなかった。

政治が誰の手に移ろうと家庭や職場でそれが言い争いの種になるようなこともなかった。しかしチェンマイで観察した限りこれまでとどうも様子が違う。タクシンを賞賛する親となじる息子、タクシンを糾弾する上司と擁護する部下。階層、職種、性別に関わりなく各々のタクシンへの評価が分かれ、それが時に互いへの憎しみにまで沸騰する。タイ社会はそもそも寛容な社会であり、軍部のクーデターでさえ、追い落とした相手を処刑するようなことは滅多になく、対立した者同士がしばらくすれば談笑しあう国である。そんな国で何故ここまで意見対立が続き先鋭化するのか。出口の見えない不安を感じざるを得なかった。この3度目のタイ勤務で感じた違和感を述べる前にまず最初(1970年代)と二回目(1980年代後半~1990年代前半)の勤務の頃の政治状況を振り返りたい。

2. 今から約40年前の1973年の最初の勤務(チェラロンコーン大学での研修)の折、着任3ヶ月後に「10月14日事件」と呼ばれる学生革命に遭遇した。当時長期化する軍事政権に対する批判の声は一般市民の中にもあったものの、行動したのは大学生達だった。タイ全国学生連盟書記長ティラユット・ブンミーの名前を今でも鮮明に憶えている。あの当時、戒厳令や夜間外出禁止令で国民にさまざまな制約を課す一方、全ての権限を手中に収め私腹を肥やす軍事政権への嫌悪感は国民の間に広がっており、その先鋒役である大学生達が街頭デモを呼びかけていた。大規模な集会、どこからか飛んでくる銃弾、混乱そして鎮圧しようとする軍部。だが、時のクリット陸軍司令官は首相からの出動命令を拒否、中立の立場を表明した。この司令官の動きがなかったら、タノーム首相一派の国外逃亡と長期軍事政権の崩壊をもたらした1973年の10月政変も起き得なかっただろう。タイの民主化の始まりであった。

3.  1987年10月から1993年1月までの5年3ヶ月、2度目のタイ勤務となった。丁度1987年が日タイ修交100周年の年に当たり、オペラ「夕鶴」公演、中曽根首相のタイ訪問、ワチラロンコーン皇太子殿下の御訪日、常陸宮同妃両殿下のタイ御訪問など様々な記念祝賀行事が実施された。「日タイ交流600年史」が刊行され、日本とタイの伝統的なつながりが改めて認識された節目であったが、同時に日タイ関係はその頃新たなステージに入りつつあった。1985年のプラザ合意による円高で海外に目を向けた日系企業の進出ラッシュがタイに向かい、1990年前後には日系企業の工場オープンがほぼ毎日どこかで行われるほどの対タイ投資ブームが巻き起こっていた時期だった。

4.  当時のタイ首相はプレム・ティンスラノン陸軍司令官(現在枢密顧問団議長)。1973年の学生革命で軍事政権が崩壊した後も、軍部によるクーデターそして政権交代が何度も繰り返され、その度毎に民主化の動きは3歩前進、2歩後退のような状況だった。そんな中でプレム政権はプレム首相が軍人で軍部を掌握していることに加え、王室から深い信頼を得ていること、身辺がクリーンで汚職腐敗の疑いをもたれなかったことなど国民からも信任を得て安定した政権運営だった。そんなタイでは珍しい8年に亘る政治安定期を経ていよいよ政党政治家が選挙で競い合う時代が始まろうとしていた。1988年の総選挙で誕生したチャチャイ政権である。チャチャイ首相は外相や工業相も歴任した政党政治家であると同時に実業家でもあり、経済に明るい実業政治家の登場である。「インドシナを戦場から市場へ」のスローガンを掲げベトナムやカンボジアとの接近を図った。しかしそのチャチャイ首相も自分の息子や側近を政策ブレーンとして重用する一方、軍との関係を次第に悪化させ、1991年2月再び軍のクーデターによって退場を余儀なくされた。


5.  しかし、これまでタイ政治において大きな役割を果たしてきた軍も1990年代になるとさすがに軍人では政権運営はできないという認識が定着し、クーデターは起こしてもその後の政権担当は文民政治家に任せる方向を打ち出さざるを得なかった。そうした状況を背景に暫定首相を任されたのが外交官出身のアナン首相だった。アナン首相はその高潔性と識見に加え、高い行政能力を示し、1年後の総選挙実施までに多くの業績を残して退いた。アナン氏への評価は現在においても高く、国が混乱に陥った時の切り札的な存在感を示している。クーデター後初の総選挙は無事行われたが、軍に政治権力を手放す準備がまだ出来ていなかった。首相にはならないと公言していたスチンダー陸軍司令官が軍を退役した上ではあるが首相に就任すると、民選議員でない首相の就任は民主化の後退であるとしてこれを批判する野党議員のハンガーストライキが始まった。さらに清廉の人として人気のあったチャムロン前バンコク都知事の断食まで加わると一般市民の関心が一気に高まり、王宮前広場でのチャムロンのスチンダー批判演説を聞く群集は万単位にふくれあがった。

私自身もその王宮前広場にいた。週末であったので、9歳の息子を連れて集会現場を訪れていた。広場に整然と座ってチャムロンの演説に聞き入る群集。地方の農民ではなく、都会の市民層らしき人々であった。日が暮れかかっても群集の数は減るどころかさらに増えていた。私の脳裏にこのまま現場にいると息子を危険にさらすことになるかもしれないという不安がよぎり、急いで息子を自宅に連れ戻った。自宅に戻って2~3時間後、チャムロンが率いる群集と制圧しようとする軍・警察との間で衝突があり発砲が始まった。すぐに息子を知人に預け、大使館に駆けつけ情報収集に当たった。1992年5月17日の騒擾事件である。死傷者が多数出たほか、市内の治安が悪化、商店への破壊活動をするグループまで現れた。そんな混乱を鎮めたのがプーミポン国王陛下の裁定であった。対立するチャムロン氏とスチンダー首相を宮殿に呼び、両者の争いをやめるよう諭す国王と頭を垂れる両者の姿は全世界に放映され、タイ人の持つ柔軟性と寛容性が改めて認識される出来事であった。スチンダー首相は混乱の責任を取って辞任し、暫定首相としてアナン氏が再び任命された。4ヶ月後の9月、出直し選挙が実施され、リベラルな民主党のチュアン党首が首相に選ばれた。以後現在に至るまで選挙の洗礼を受けていない首相は2006年9月の軍事クーデターにより暫定首相に任命されたスラユット枢密顧問官(元陸軍司令官)のみである。

6.  翌年の1993年1月、シンガポールに転勤となり、冒頭に述べた通り、3度目のタイ勤務になるのは14年後の2007年4月である。この間、タイは1997年に通貨危機に直面、事業が一夜にして倒産し路上でサンドイッチを売って生計をたてる元社長など資産を失う人が続出した。自殺をしないと言われるほど楽天的なタイ人が自信を喪失した時期だった。そんな喪失感の漂う中で現れたのが「タイを愛するタイ」(タイラックタイ)を掲げ、タイ人のプライドを呼び覚ましたタクシン首相だった。タクシン首相への評価が人によって大きな差があることはすでに述べた通りであるが、彼が提唱した幾つかの構想が従来のタイ国一国に留まらない地域的な視座を持つヴィジョンであったことを否定する人はいないと思う。タクシン政権下でタイの国威は再浮上し、インドネシアと並ぶアセアンの盟主としての立場を取り戻したかに見えた。そのタクシン首相が2006年9月、15年ぶりの軍のクーデターで失脚、現在に至るまで外国での生活を続けているものの、サマック首相、ソムチャイ首相(義兄)、インラック首相(実妹)とタクシン派の首相の就任を実現している。

7. 2007年4月にチェンマイに赴任以来、最も神経を使わざるを得なかったのは管轄地域である北部9県、特にチェンマイ県知事、チェンマイ市長などの行政機関トップや第3軍管区司令官、第5警察管区司令官など治安部隊トップのめまぐるしい人事交代だった。中央でのタクシン陣営と民主党による政権交代がある度にこうしたポストには政権についた陣営から人が送り込まれるため、長い付き合いをしようにもできない状況だった。さらにどちらかに加担しているとみられることは避けざるをえず、話をしている相手がどちらの陣営に組しているかを見極めないうちは率直な政治談議など出来ない相談だった。しかし私にとってそれ以上に深刻に感じたのがこうした対立が政治家や行政責任者の間に留まらず、ビジネス関係者、商店主、労働者、農民など広範囲に浸透しつつあることであった。タクシンを支持するか、糾弾するかで参加するデモが違い、着るシャツの色も違った。ここまで国内を分断したつけを誰が払うのか。結局はタイ社会全体でその結末を受け止める以外にないが、願わくはタイ人の持つ寛容性をもう一度発揮してほしいと祈っている。 (2014年4月9日寄稿)