私とイラクとの長~い関わり

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元駐イラク大使 小川 正二

私は駐イラク大使を最後に平成22年に退官しましたが、外務省勤務の終わりの期間、イラクと深く関わってきました。そして退職した今もコンサルタントとして日本企業のイラク関連ビジネスのお手伝いをしており、もう10年以上もイラクに関わる仕事をしていることになります。アラビストでもない私がこのように特定のアラブの国に長く関わってきたことも何かの縁でしょうか?今回はこの欄をお借りして、この10年ほどを振り返りながら私とイラクとの関わりの中で印象に残っていることを述べてみたいと思います。言うなれば「我が心のイラク」へのセンチメンタル・ジャーニーです。

私の最初のイラクとの関わりは1990年に起こったイラクのクェート侵攻でした。90年8月、国連代表部での勤務を終えて帰国すると本省はイラクのクェート侵攻(のちに第2次湾岸戦争)への対応に緊張感を高めていました。私は国連代表部の直前にはサウジアラビア在勤だったこともカウントされたのか、直ちに湾岸戦争貢献対策チームに配属されました。政府は湾岸貢献策として物資、輸送、資金、医療貢献の4分野での多国籍軍
及び国際機関への協力案を策定、私は主に資金協力を担当し、省内の調整、大蔵省との折衝に約3か月間は毎日午前様の勤務でした。勿論当時は自衛隊の派遣法等はなく自衛隊の参加は全く不可能な状況であり、この経験が後の派遣法の制定、PKO参加に繋がっていくわけです。私の担当した資金協力については多国籍軍への資金的支援をどのような形で行うかに苦労しましたが、私が勤務していて土地勘があったリヤドに本部を置く湾岸協力会議(GCC)に基金を設け、そこに資金を拠出する形で行うことになりました。

その構想への支持と基金のメカニズムの決定の交渉のためにワシントン、リヤドに急遽出張したことが懐かしく思い出されます。実際にこのような仕組みが関係国に受け入れられ機能するかについては省内でも懐疑的な見方もありましたが、この出張でどうにか目的を果たして帰るときはホットしました。行く前には上司や大蔵省の関係者から「交渉がうまく決着するまで帰れませんね」と言われ、自分でも大げさに言えば「砂漠の土」になる覚悟で出張に出たことを思い出します。なお、ご承知の通り湾岸戦争は翌年3月に多国籍軍の勝利に終わりクェートが解放されて終了しましたが、日本の貢献が必ずしも国際的に認識されなかったことが政府関係者に深刻な衝撃を与え、後の自衛隊の国際貢献のための法制整備に繋がっていくことは上に述べた通りです。

次にイラクに関係した仕事は2004年7月から翌年2月まで約8か月間のイラク・サマーワ勤務でした。イラク戦争後我が国はイラク派遣法を制定、2004年1月から陸上自衛隊約550名がイラク南部ムサンナ県の首都サマーワに派遣されました。国連の平和維持軍ではなく米国を始めとする多国籍軍の一員としての参加であり、また未だ治安が安定していない準戦乱地への派遣であったこともあり、当時国内においても激しい議論を巻き起こした派遣であったことはご承知の通りです。自衛隊の派遣と同時に外務省も自衛隊駐屯地(キャンプ)内に連絡事務所を設置し自衛隊との調整、協力による戦後復興、人道援助の実施に当たった訳です。所員は所長以下5名、2組のチームがローテーションで勤務していました。事務所と宿泊棟はキャンプ内の外れに位置したプレハブの建物でしたが、宿泊棟は対弾設備が十分なものでないものであったため、迫撃砲による攻撃が増えたあとは周囲と屋根に土嚢を積んだコンテナ(船に積んでいるコンテナと同じ)内に寝泊まりすることになりました。このコンテナの住み心地、寝心地は極めて悪く(ベッドは折り畳みの簡易ベッドでドアの密閉度が悪いため砂が入りやすく、常にザラザラしていた)、私はルール違反覚悟で時々はもとのプレハブ棟で寝泊まりしていたことを思い出します。 迫撃砲の攻撃は通常夜間、それも真夜中1時、2時頃に行われることが多く、2、3発続けて発射されるので、1発目のあとに直ぐ避難、眠い目を擦りながら避難していました。避難と言っても警護用の防弾車に飛び乗り、その中に伏せているのですが。

キャンプ内での生活は朝6時前に自衛隊の起床ラッパで起床、毎朝6時半からの全員の朝礼に参加、7時より朝食、そのあとは実施中や計画中のプロジェクトについての打ち合わせ、現地視察、県知事との折衝・協議、連絡所長としての現地プレス対応、そして毎晩9時ごろよりの陸自幹部との連絡調整のための協議等、早朝から夜遅くまでびっしりと予定の詰まった長い1日でした。勤務の1サイクルは約4週間、このサイクルを終えてサマーワを一時離れるときは流石にクタクタになっていたことを思い出します。このキャンプにおける生活の中で一番というか唯一の楽しみだったのは3度の食事でした。3食とも隊員用の食堂で隊員の人たちと一緒に食べるのですが、食事の中身はなかなか充実していて冷房の効いた広い食堂での時間は殺風景で楽しみのないキャンプ生活の中においてオアシスのような心休まるひと時でした。

サマーワは首都バグダッドと南部の港湾都市バスラとのちょうど中間点にありますが、この地域は世界でも最も暑い地域であり、私の体験した最高気温は初回のローテーション勤務の期間中、2004年7月7日に記録した摂氏57度、これはちょっと想像を絶する暑さでした。敢えて例えれば溶鉱炉の中に居るような感覚でしょうか(と言っても私は溶鉱炉の中に入ったことはありませんが)。通常の気候では風が吹くと涼しく感じるものですが、真夏のサマーワで風が吹くは、まさにヘアドライアーに当たるような感覚でした。

サマーワでの仕事は復興、人道援助の実施、計画業務それに現地情勢に関する情報収集がメインでしたが、自衛隊が地元で築いたネットワークを通じて上がってくる情報や地元の要望をプロジェクトに仕上げていくのが基本で本省の強力なサポートを得て実にやりがいのあるものでした。自衛隊の幹部、隊員も皆モチベーションの高い素晴らしい人たちで、我々外務省連絡事務所との関係も良好であり極めて密接な協力体制を築くことが出来たと思います。また連絡事務所で一緒に寝食を共にして仕事した同僚の諸兄も皆自ら手を挙げて勤務を申し出た連中であり、厳しい勤務・生活環境の中で士気も高く気持ち良く仕事をすることが出来ました。サマーワでの勤務は僅か8カ月という短い期間でしたが、私の外交官生活の中でも最も記憶に残る勤務体験として強く記憶の中に残っています。
イラクとの関わりの最後は2008年から10年にかけて2年4カ月にわたるイラク大使としてのバグダッド在勤でした。赴任当時のバグダッドは漸く内戦状況から状況が改善しつつありましたが、それでも未だ準戦時下のような環境であり、赴任の際もクェートから航空自衛隊のC-130輸送機でバグダッド入り(写真。この飛行機はサマーワ勤務の際にもよく利用した)、バグダッドの空港、市街も全て米軍の警備管轄下にあり米軍の兵士、民間コントラクター要員で溢れていました(近年の米国の軍事作戦における民営化を実感した)。グリーンゾーンにある現在の新しい我が大使館は改築工事中で、私が着任した時は大使、次席と政務担当官等の数人の館員がグリーンゾーン内にある出張所のような小さな別館に、他の館員はレッドゾーンにあった従来からの大使館本館に勤務、宿泊するという体制でした。信任状捧呈が比較的早く出来たため直ちにイラク政府要人、主要国の大使、米軍幹部等への表敬を行いましたが、米国大使館は現在の新しく建設されたものではなく、サダムフセインが使っていた巨大な宮殿を使用しており、迷路のような回廊や階段を辿って当時のライアン・クロッカー大使を訪問したことが思い出されます。私の大使としての仕事で重要なものとして特に時間と精力を注いだのは日本企業に対する支援と米軍幹部との関係構築でした。戦後の混乱から立ち上がりつつあり、インフラ復興、石油開発の再開について外資の導入に積極的であったこともあり、石油、電力、商社等の日本企業がイラク進出に強い関心を示していましたが、未だ準戦地であり、全く体制の変わった戦後のイラクへの足掛かりのない日本企業への支援は大使館として最も重要な仕事であり、日本からの経済ミッションの受け入れ、経済フォーラムの開催した他、個別の企業の案件についても最大限のサポートを行いました。

また、当時は治安や現地情勢に関する情報は米国大使館よりもむしろ米軍が持っていたこともあり、米軍幹部との人脈形成に努めました。当時の多国籍軍司令官は最初は後にCIA長官になった有名なペトロイアス将軍、その後任は副官から昇格したオディエルノ将軍でした。ペトロイアス将軍はアメリカ人としては小柄な学研肌、オディエルノ将軍はアメリカン・フットボールのプレーヤーのような堂々たる体躯で全く対照的な風貌でしたが、どちらも極めてシャープな頭脳の持ち主で非常に勉強になりました。米軍には治安情勢等の情報提供の他に、国内移動において全面的にお世話になりました。当時は国内の移動は治安が安定しコマーシャル便があったクルド地域への移動を除き、その他の地方へは米軍機或いはヘリを利用せざるを得ず、地方視察の際には常に米軍に依頼していましたが、先方は我が国が多国籍軍の一員として自衛隊を派遣していたことで友軍の大使として我々の要望を最大限叶えてくれました。スンニー派の最大県であり最も反政府勢力の抵抗が激しかったファルージャを含むアンバール県を視察した時はバグダッドよりヘリによる約45分ほどのフライトで、常に高度200~300mの低空飛行で窓は開けたまま、機関銃を地上に向けて構えた女性兵士が直ぐ前に座った移動でしたが、高所恐怖症の私は生きた心地がしない45分間の恐ろしいフライトでした。何れにせよペトロイアス将軍を始め一流の米軍人と交流を持てたことはイラク大使時代の貴重な経験として心に残るものでした。バグダッド勤務ではこの他にもバグダッド大学で度々学生相手に講演を行ったこと等思い出は尽きませんが、私の外交官生活のフィナーレがイラクの首都であったことは何かの縁を感じざるを得ません。

ご存じの通り、イラクはチグリス・ユーフラテス河流域に栄えた古代メソポタミア文明発祥の地であり、BC3500年以来の5500年に亘る悠久の歴史を誇る国ですが、近年は愚かな指導者の悪政により、そして国際政治の激流や大国の思惑に翻弄され、イラクの人たちは幾多の戦争や内乱の苦難にずっと耐えてきました。私はサマーワ在勤時代はユーフラテス河、バグダッド在勤時はチグリス河を日々眺めながら過ごしてきましたが、このような歴史の流れと人間の文明、叡智の進化というものの関係について複雑な想いを強くしたものでした。米国の侵攻によって上から与えられたものとは言え、やっと民主的な政治体制の下に新しい国造りのチャンスに挑戦している現在のイラクの指導者、国民が直面している試練や困難を乗り越え、安定への道を進んでいくことを願いつつ筆を置きたいと思います。(2013年12月16日寄稿)