ウマ年の話題・「白馬ハ馬ニアラズ」

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元駐フィリピン大使 荒 義尚

1.  始めに
「白馬ハ馬ニアラズ」といったのは、諸子百家時代の公孫竜という人で、時代としては、荀子の少し後、韓非子の少し前、西洋ではアリストテレスの死後間もない頃に活躍した思想家である。世上、詭弁の典型的な例とされている「白馬ハ馬ニアラズ」を何故公孫竜が言い出したのか、その理由を私なりに説明すれば次のようになる。

 理想とする堯舜時代が過ぎるに従って世の中が乱れたことを憂いた孔子は、「礼」をもって世の中の秩序を回復しようとした。孔子は論語の中で、「必ズヤ名ヲ正サン」ともいっている。この「名実一致」の考え方が、実は、その後延々と続く論争の底流となっているといわれている。

何が問題かといえば、名実を一致させるためには、名を実より優先させるか、それとも実を名よりも優先させるか、のいずれか(もっとも、名と実を対等に考えるという折衷案もありうるが、論理的ではない)になるが、基本的な考え方の相違は容易には解決しないからである。名を優先する考え方は、西洋哲学では「実念論」または「実在論」(リアリズム)、実を重んじる考え方を「唯名論」(ノミナリズム)と呼んでいるが、未だにどちらかに軍配が上がったという話は聞いたことはない。なお、実念論と唯名論という用語法は、名と実の優先度の観点から見ると、漢字の使い方が丁度逆になっているので、頭がすこし混乱するが、哲学字典ではそうなっているので我慢することにしたい。


2. 「白馬ハ馬ニアラズ」の論理
 公孫竜のこの命題は、唯名論であるが、その論理は、私の理解では次のようになる。
馬には白い馬、黒い馬、栗毛の馬など色々な馬がいるが、公孫竜が何故白い馬をとりあげたかは、良く分からない。これは推測であるが、白い馬は稀少な上にその姿が優美であるので、例示として選んだのであろう。ともあれ、そこに一頭の白馬がいる。私達は、それを見る時、そこに「白」(白さ)があるとは考えない。何故ならば、白は物の属性であるから、それ自体として独立に存在するわけではない。今日「白」に出会った、というようことはありえないのだから。

 では、馬のほうはどうか?確かに馬である。ただ良く考えてみると、馬には色、形、性質、年令(馬齢?)などによって云わば、無限の種類があるが、その全てに共通するものとして、馬という「属」を認識することは出来る。しかし、と公孫竜は云う。馬という属を認識するに吝かではないが、その属は一体「実在」するのだろうか?答えは否である。何故なら、抽象概念としての馬は実在せず、実在するのはそこにいる白馬だけである。よって、その白馬は「馬」ではない。

 この議論は、形式論理学上、「排他的選言」の問題とされている。つまり、A又はBの時はAかBのどちらかに限って真であるとするわけで、公孫竜は、この命題で、白馬は馬か、どうか、と二者択一を迫っているわけである。このように、白や馬という概念を使って議論をすると、現代の意味論、更には記号論にまで続いて行く可能性が出て来ていたが、その反面、論理の罠にはまり、現実からますます乖離して、「名実一致」という本来の理想を忘れたことが公孫竜の後、墨家が次第に勢力を失っていった原因とされている。

3. 「白馬」論争に関する蛇足
 公孫竜の命題は、白い馬を見る時に、云い方を変えれば、それが色の認識であるのか、それとも形の認識であるのか、を問うものであるが、形式論理上、どちらか一方のみが真であって、両方ともに真ということはありえないという二元論ないし二項対立の考え方に基ずいている。正直なところ、私は、白と馬とが同時に認識され、かつ、同時に実在すると考えればそれでよいのではないか、とも思うが、そこが日本人たる私と中国人、更には欧米人との思考方法の違いなのだろう。私達は、家庭でも職場でも白黒をはっきりさせることを避ける傾向が強いが、彼等の頭の中には、善悪、大小、遠近、生死などの二項対立がぎっしりと詰まっているに違いない。

 日本と中国の双方を良く知っているヨーロッパの友人達が、中国人の話は(日本人より)はっきりしていて分かりやすい、と言っているのも思考回路が似通っているためではなかろうか。実際、フランス語の会話では、しばしば「De deux choses l’une」(どちらか一方)というのを聞いた方は多いだろう。ちなみに、私がかつて中国に在勤していた当時、日本からやってきた人達が挨拶の中で日中は一衣帯水、同文同種だから一緒に友好親善を促進しましょう、というのを聞いて、一衣帯水はともかく、「同種」には何となく違和感を覚えたのを思い出す。顔形は確かに似ているが、心の中は全然違うのでは、と考え始めていたからである。(なお、この小文を書くに際しては、貝塚茂樹著「中国の歴史」、加地伸行著「中国人の論理学」、講談社現代新書「現代哲学辞典」、山川 出版社「世界史人名事典」などを参照した)
              (了)