ミャンマーの変貌
前駐ミャンマー大使 齋藤 隆志
先日、初対面の人(30代のサラリーマン)と何となく、自分はつい最近までミャンマーに住んでいたという話をしたら、「それはたいへんでしたね、大丈夫だったですか」と言われて返す言葉がなかった。外国と関わりのない生活をしている一般の人にとっては、ミャンマーへの関心、あるいは、情報の受け取り具合はそんなものかと思ったし、一度確立した悪名を変えるのは容易なことではないと思った。また、同時に、夜も寝ずにと言ってもいいくらいハードな日程をこなしつつ、民主化への努力を重ねて来ているテインセイン大統領に気の毒な感じがした。
(民主化)
ミャンマーの民主化は、2010年の総選挙、直後のアウンサンスーチー女史の解放、翌2011年3月の民政移管により始まった。しかし、当初、ミャンマーの一般国民の間では、どうせ何も変わらないだろうという気分が支配的だったように感じられた。また、国際社会も懐疑的であった。文民による新政府ができたといっても閣僚は軍籍を離脱したというだけで旧軍事政権とあまり顔ぶれは変わらないし、20年以上に亘る軍政の記憶がまだ新しい上、議会もアウンサンスーチー女史が選挙に出ないことを決めたために民主勢力はいない。 また、憲法上、上下両院各々の議席の4分の1は軍人議員であること等がその理由であった。これに対し、テインセイン大統領率いる新政府は、国民生活の向上と民主化の進展を政策目標として掲げ、改革開放路線を鮮明にするが、新政府は、この改革開放政策を軌道に乗せるために、まず最初に取り組まなくてはならない難題を抱えていた。つまり国際社会が長年に亘って要求してきた、政治犯の釈放、少数民族問題の解決、アウンサンスーチー女史との和解といった課題である。
民主化にせよ経済改革にせよ国際社会の支持がなければ実現は難しいわけで、そのためにはこれらの課題を解決して国際社会の理解を得ることがまず必要であった。テインセイン大統領は実に真剣にこれらの課題に対処した。まず、政治犯については、数回に分けて政治犯の釈放を実施し、2012年1月までには殆どの政治犯を釈放した。当初は、恩赦を行い、その対象にたまたま政治犯といわれる者が含まれるという形をとったが、これは政治犯はそもそもいないという旧軍事政権の立場と平仄をあわせる必要があったからであるが、最後には、あからさまに政治犯だから釈放すると言明して釈放するに至っている。ふたことめには政治犯の釈放と言っていた国際社会も最早この問題を大きな論点とすることはなくなった。
少数民族問題は、一朝一夕に解決できるような問題ではないことは誰でも理解していることではあるが、粘り強く武装勢力との話し合いを進め、カレン族武装勢力との停戦合意に至る等の進展を実現し、最後に残ったカチン族勢力との停戦も実現した。また、アウンサンスーチー女史との間では、最初は担当大臣との会談という旧軍事政権下での対応と同じことを始めたが、2011年8月に大統領が同女史を首都ネーピードーに招くという形で、会談を実現した。会談後女史はテインセイン大統領は信頼できる人であると延べ、両者間にある種の信頼関係ができたことが明らかとなった。また、二人がアウンサン将軍の写真の前で並び立つ姿が新聞に出たが、これは極めて印象的であったし、女史と旧軍事政権との関係を考えれば、まさしく歴史的な出来事であったということができる。その後も、大統領は、相互の信頼関係の樹立に努め、政党登録法の改正等同女史の要求を可能な限り受け入れ、2012年4月の補欠選挙への同女史の参加が実現した。こうした動きが米国の経済制裁解除へとつながっていったのである。
また、新政府は、上記の主要課題への取り組みと同時並行的に、検閲の緩和から廃止、集会デモ法の制定、労働関係法の改正などを行い、表現の自由、政治活動の自由、労働者の権利擁護など、民主化自由化の根幹に関わる制度の改革を進めた。国際社会も、こうしたミャンマーの動きを踏まえ、まずかなり早い時期にアセアンが新政府の強い要望に応え、2014年のミャンマー議長国就任を承認した。その後も、テインセイン大統領の諸外国訪問また各国首脳等のミャンマー訪問など通じて国際社会の一員として受け入れられただけでなく、むしろ諸外国の方が経済的関心を背景にミャンマーとの関係正常化に向けて動いて行った。このように現在ではテインセイン大統領の新政府が進める民主化について疑いを持つ者はいないし、制度的にも、議員の4分の1が軍人であるという憲法上の規定を除けば、ミャンマーが他のアセアンの国は勿論普通の民主的な国とは異なると考える理由はない。
(経済改革)
2010年のミャンマーの一人当たりGDP(IMF)は741ドルであり、カンボジアの752ドル以下で、現在もアセアンの最貧国である。大雑把にいえば、社会主義経済の失敗とその後の軍事政権での半鎖国政策が主要な原因といえよう。軍事政権下でのミャンマー経済は、前近代的な農業と天然ガスの輸出、近隣諸国との貿易、投資は、ほとんどが中国からという構造であった。このような偏った経済構造を多様化し、外資を導入することによって産業振興を図ろうというのが新政府の経済政策の眼目である。民主化は、それ自体新政府の政治的使命であり目標であるが、同時に対ミャンマー投資に政治的なリスクはないことを外国投資家にわかってもらうためにも必要であった。外資導入の最大の障害は、米国の経済制裁であったが、前述のように民主化の進展により2012年夏に制裁解除が実現した。これにより世界中の投資家は、米国政府の意向を気にすることなくミャンマーへの投資が可能となり、また、それまでできなかったドルでの決済も可能となった。しかしそれだけでは不十分であり、様々な制度を変える必要があった。
まずそれまで3種類あった為替レートの統一であるが、これは非常に難しいと思われていたが、結果的には混乱なく実現した。続いて、外資導入の要となる外国投資法の改正である。この法律は、20年以上前に制定されたものが、不透明な運用に委ねられていたものである。新政府は、早くからその改正に向けて検討を進めてきたが、議会の承認を得て、細則を含めて新法ができたのは、今年初めであった。この改正の過程で、議会は国内産業の保護という方向に向かったが、テインセイン大統領は、一度議会が承認したものを不十分であるとして署名を拒否し、再審議修正させた上で最終的な承認を与えた。同大統領が外資導入政策を如何に重視しているかを示したものといえる。また、金融機関の近代化、証券市場の整備、不動産所有制度の改革など様々な制度改革に投資環境の改善という観点から取り組んできている。インフラの未整備は大きな問題であるが、主要なドナーが援助を再開し、世銀等の国際機関も資金供与できるようになったので、今後の改善が見込まれる。
(少数民族問題)
少数民族問題は、長い歴史をもった複雑な問題である。中央政府は、武力による征圧、或は、時に平和的な話し合いにより問題の解決を図ろうとしたことはあったが、成功したためしがなかった。国際社会や人権団体からは、少数民族弾圧と人権蹂躙だとして様々な非難を浴びせられてきた問題であり、新政府としては、真剣に取り組まなければならない課題であり、武装勢力との間で停戦合意を達成したことは前述した通りである。但し、最終的な解決を図るには、少数民族の自治権と経済的利益をどの程度認めるかという本質的な問題があり、簡単なことであるとは思えない。要は、武力闘争が行われていないという状況を維持することである。戦闘の過程で、殺人や人権蹂躙が起これば、国際社会からの批判の対象となってしまうわけで、そうした事態を避けつつ本質的な問題の解決策を模索して行くということになると思われる。
また、カレン族の問題だけをとっても、タイ側に難民とし避難している十数万の人達を帰還させ国内に定住させる必要があるという実際的な問題がある。和平交渉そのものに国際社会が関与することはできないが、定住問題などの周辺的な事柄で支援を行い交渉の進展を助けることは国際社会の果たすべき役割である。なお、西部ラカイン州で起こっているロヒンジャの問題は、上記の伝統的な少数民族問題とは異なる問題である。ミャンマー人にとってカレンやカチン等は自分たちの同胞であるが、ロヒンジャはそうではない。そこに問題の根幹があるが、この問題も、テインセイン大統領は、ロヒンジャにもいずれ市民権を認めるとの立場を表明する等国際社会から非難されないよう柔軟な対応をみせている。
(日本との関係)
一度ビルマに勤務するとまた勤務したくなるという話を昔よくきいた。そういう国は他にもいろいろあると思うが、確かにミャンマーの人達は社交性に富み、気持ちのいい人達である。
1988年に軍事政権が成立するまで日本はミャンマーにとって最大の援助国であり続けたが、その後は欧米諸国と協調して抑制的な援助にとどめた。それでも日本は、人道支援や人材育成などの形で可能な範囲で支援を続けたが、他のアジアの国に対するような大きな経済援助はできない状況であったし、民間の経済活動も低調であった。
新政府が成立し、民主化が進展するのにあわせて、日本は早い段階から経済協力の再開を表明し、今年に入って、少数民族支援等を含めて200億円以上の無償資金、また、インフラ整備等のため500億円以上の円借款の供与に合意し、対ミャンマー支援の強化の姿勢を具体的に示した。また、これに先立ち過去の延滞債務の解消も合意し、他の債権国や国際機関の延滞債務問題の解決に指針を与え、ミャンマーがこれらのドナーから資金供与を受けることが可能となるよう側面的な支援も行った。実際、今年1月ADBが5億ドル以上、世銀が4億ドル以上の融資を決定している。民間レベルでは、個々の企業のトップや経団連他の経済団体のミッションなどが多数訪問し、かつてない活況を呈し続けているものの大きな投資はまだ実現していない。
こうした日本のミャンマー支援の強化は、経済発展のための資金源を多様化したいという新政府の希望に応えるものであるし、民主化を進める新政府を力づけるものでもある。即ち、民主化が単に政治制度の変更というだけでなく、一般国民の日常生活の改善という形で恩恵をもたらすものであればある程、新政府としては一層強力に民主化と改革を進めて行くことができる。テインセイン大統領としても、急激な民主化を好まない一部の人々に対抗するためにも民主化の実益を示すことが求められており、そのためには国際社会からのいわば物心両面の支援が必要であるということである。
(今後の展望)
2015年の総選挙が大きな節目となることは間違いないが、そこに至るまでの過程で現政権が国民の不興を買うような大きな失策を冒すようなことはないだろうし、引き続き民主化と改革が進められて行くと思われる。また、今年秋のアセアン競技大会と来年のアセアンサミットの主催は、国民の気持ちをひとつの方向にまとめるとともに新生ミャンマーの姿を諸外国に示すよい機会となるであろう。
2015年に起こるべきシナリオはいろいろあろうが、最悪のシナリオ、即ち、再び軍事クーデターというシナリオはない。それは、これまでの努力と成果を無にし、世界からの完全な孤立を招き、政治的にも経済的にもミャンマーは生きて行けなくなる。教養があり誇り高いミャンマーの軍人がそのような大義名分がない愚行に走るとは考えられない。
従って現政権が継続するか、アウンサンスーチー女史が政権を担うかのどちらかであると思われる。ミャンマーでは、世論調査が行われないから、国民の支持率を数字で知ることは難しい。昨年4月の補欠選挙では、上下両院664議席中45議席を争ったが、アウンサンスーチー女史のNLDは、得票率70%以上で43議席を獲得し、圧勝した。同女史に対する支持がどういうものであるかをこの数字は示している。しかしこの選挙は1年以上前のことであるし、総選挙までまだ2年あるということと政権側は軍人議席25%を保証されているので、この補欠選挙の結果だけみて、NLDが総選挙の結果過半数を獲得すると予想することは適切ではないように思われる。軍事政権下で抑圧された国民にとって、アウンサンスーチー女史は唯一の希望の星であったが、これだけ民主化と自由化が進展してしまうと、星の輝きがいつまでも続くと考えるのは楽観的にすぎる。これまである種絶対的な存在であった同女史も議会での宣誓の問題など国民の不評を買うようなこともあり、議員として、また、大統領候補として、さまざまな問題に注意深く対応する必要があろう。
また、仮にNLDが過半数を占めたとしても、憲法上外国籍をもった子供のいる人は大統領になれないので、同女史が直ぐに大統領になれるわけではない。同女史が憲法改正を求める理由のひとつであるが、憲法改正は両院の4分の3以上の賛成(その後国民投票)を必要とするので、憲法上4分の1を占める軍人議員の一部の支持がなければならない。この点に関しては、アウンサンスーチー女史が、国民特に軍人のゆるぎない尊敬の対象であるアウンサン将軍の娘であるということが意味をもってくる。また、議会で指導的な立場にあり、軍に対しても影響力を持つシュエマン下院議長と同女史が最近急速に接近しているというのも興味深い点である。なお、同議長は、自身次期大統領候補として名乗りをあげているが、憲法改正については国民が望むならば検討しようという柔軟な立場を表明している。
現政権側としては、引き続き民主化と改革を進めていくが、それだけでは総選挙で勝つことはできないであろう。前述したように国民生活が改善されることが必要である。例えば、電力供給の改善により停電がなくなるとか、工業団地の造成により雇用が創出されるとか、農業補助政策により、農民が農耕機具を買えるようになるとか、といった目に見える状況の改善を、今後2年間で実現しなければならないであろう。またテインセイン大統領は、就任後自分は1期限りであると述べていたが、昨年10月に続投の可能性に言及した。これまでの民主化と改革が同大統領の強力な指導力により実現してきたものであることを考えると、同大統領の去就は国民の投票行動に大きく影響すると思われる。アウンサンスーチー女史の圧倒的な人気に対抗できる人がいるとすれば、それはテインセイン大統領だけであるからである。
2年後の総選挙の結果を予測することはできないが、現政権であれば、テインセイン大統領であれ、シュエマン議長であれ、当然これまでの政策を継続することになるし、アウンサンスーチー女史になれば、それは一層加速されるであろう。同女史は経済政策については未知数であるが、ミャンマー経済の発展にとって外資が必要であることは認めており、この点でも基本的には大きな変更があるとは考えられない。2015年は大きな節目となるであろうが、ミャンマーが進む方向、即ち、民主化と改革という大きな流れは変わらないと思われる。(2013年7月29日寄稿)
(民主化)
ミャンマーの民主化は、2010年の総選挙、直後のアウンサンスーチー女史の解放、翌2011年3月の民政移管により始まった。しかし、当初、ミャンマーの一般国民の間では、どうせ何も変わらないだろうという気分が支配的だったように感じられた。また、国際社会も懐疑的であった。文民による新政府ができたといっても閣僚は軍籍を離脱したというだけで旧軍事政権とあまり顔ぶれは変わらないし、20年以上に亘る軍政の記憶がまだ新しい上、議会もアウンサンスーチー女史が選挙に出ないことを決めたために民主勢力はいない。 また、憲法上、上下両院各々の議席の4分の1は軍人議員であること等がその理由であった。これに対し、テインセイン大統領率いる新政府は、国民生活の向上と民主化の進展を政策目標として掲げ、改革開放路線を鮮明にするが、新政府は、この改革開放政策を軌道に乗せるために、まず最初に取り組まなくてはならない難題を抱えていた。つまり国際社会が長年に亘って要求してきた、政治犯の釈放、少数民族問題の解決、アウンサンスーチー女史との和解といった課題である。
民主化にせよ経済改革にせよ国際社会の支持がなければ実現は難しいわけで、そのためにはこれらの課題を解決して国際社会の理解を得ることがまず必要であった。テインセイン大統領は実に真剣にこれらの課題に対処した。まず、政治犯については、数回に分けて政治犯の釈放を実施し、2012年1月までには殆どの政治犯を釈放した。当初は、恩赦を行い、その対象にたまたま政治犯といわれる者が含まれるという形をとったが、これは政治犯はそもそもいないという旧軍事政権の立場と平仄をあわせる必要があったからであるが、最後には、あからさまに政治犯だから釈放すると言明して釈放するに至っている。ふたことめには政治犯の釈放と言っていた国際社会も最早この問題を大きな論点とすることはなくなった。
少数民族問題は、一朝一夕に解決できるような問題ではないことは誰でも理解していることではあるが、粘り強く武装勢力との話し合いを進め、カレン族武装勢力との停戦合意に至る等の進展を実現し、最後に残ったカチン族勢力との停戦も実現した。また、アウンサンスーチー女史との間では、最初は担当大臣との会談という旧軍事政権下での対応と同じことを始めたが、2011年8月に大統領が同女史を首都ネーピードーに招くという形で、会談を実現した。会談後女史はテインセイン大統領は信頼できる人であると延べ、両者間にある種の信頼関係ができたことが明らかとなった。また、二人がアウンサン将軍の写真の前で並び立つ姿が新聞に出たが、これは極めて印象的であったし、女史と旧軍事政権との関係を考えれば、まさしく歴史的な出来事であったということができる。その後も、大統領は、相互の信頼関係の樹立に努め、政党登録法の改正等同女史の要求を可能な限り受け入れ、2012年4月の補欠選挙への同女史の参加が実現した。こうした動きが米国の経済制裁解除へとつながっていったのである。
また、新政府は、上記の主要課題への取り組みと同時並行的に、検閲の緩和から廃止、集会デモ法の制定、労働関係法の改正などを行い、表現の自由、政治活動の自由、労働者の権利擁護など、民主化自由化の根幹に関わる制度の改革を進めた。国際社会も、こうしたミャンマーの動きを踏まえ、まずかなり早い時期にアセアンが新政府の強い要望に応え、2014年のミャンマー議長国就任を承認した。その後も、テインセイン大統領の諸外国訪問また各国首脳等のミャンマー訪問など通じて国際社会の一員として受け入れられただけでなく、むしろ諸外国の方が経済的関心を背景にミャンマーとの関係正常化に向けて動いて行った。このように現在ではテインセイン大統領の新政府が進める民主化について疑いを持つ者はいないし、制度的にも、議員の4分の1が軍人であるという憲法上の規定を除けば、ミャンマーが他のアセアンの国は勿論普通の民主的な国とは異なると考える理由はない。
(経済改革)
2010年のミャンマーの一人当たりGDP(IMF)は741ドルであり、カンボジアの752ドル以下で、現在もアセアンの最貧国である。大雑把にいえば、社会主義経済の失敗とその後の軍事政権での半鎖国政策が主要な原因といえよう。軍事政権下でのミャンマー経済は、前近代的な農業と天然ガスの輸出、近隣諸国との貿易、投資は、ほとんどが中国からという構造であった。このような偏った経済構造を多様化し、外資を導入することによって産業振興を図ろうというのが新政府の経済政策の眼目である。民主化は、それ自体新政府の政治的使命であり目標であるが、同時に対ミャンマー投資に政治的なリスクはないことを外国投資家にわかってもらうためにも必要であった。外資導入の最大の障害は、米国の経済制裁であったが、前述のように民主化の進展により2012年夏に制裁解除が実現した。これにより世界中の投資家は、米国政府の意向を気にすることなくミャンマーへの投資が可能となり、また、それまでできなかったドルでの決済も可能となった。しかしそれだけでは不十分であり、様々な制度を変える必要があった。
まずそれまで3種類あった為替レートの統一であるが、これは非常に難しいと思われていたが、結果的には混乱なく実現した。続いて、外資導入の要となる外国投資法の改正である。この法律は、20年以上前に制定されたものが、不透明な運用に委ねられていたものである。新政府は、早くからその改正に向けて検討を進めてきたが、議会の承認を得て、細則を含めて新法ができたのは、今年初めであった。この改正の過程で、議会は国内産業の保護という方向に向かったが、テインセイン大統領は、一度議会が承認したものを不十分であるとして署名を拒否し、再審議修正させた上で最終的な承認を与えた。同大統領が外資導入政策を如何に重視しているかを示したものといえる。また、金融機関の近代化、証券市場の整備、不動産所有制度の改革など様々な制度改革に投資環境の改善という観点から取り組んできている。インフラの未整備は大きな問題であるが、主要なドナーが援助を再開し、世銀等の国際機関も資金供与できるようになったので、今後の改善が見込まれる。
(少数民族問題)
少数民族問題は、長い歴史をもった複雑な問題である。中央政府は、武力による征圧、或は、時に平和的な話し合いにより問題の解決を図ろうとしたことはあったが、成功したためしがなかった。国際社会や人権団体からは、少数民族弾圧と人権蹂躙だとして様々な非難を浴びせられてきた問題であり、新政府としては、真剣に取り組まなければならない課題であり、武装勢力との間で停戦合意を達成したことは前述した通りである。但し、最終的な解決を図るには、少数民族の自治権と経済的利益をどの程度認めるかという本質的な問題があり、簡単なことであるとは思えない。要は、武力闘争が行われていないという状況を維持することである。戦闘の過程で、殺人や人権蹂躙が起これば、国際社会からの批判の対象となってしまうわけで、そうした事態を避けつつ本質的な問題の解決策を模索して行くということになると思われる。
また、カレン族の問題だけをとっても、タイ側に難民とし避難している十数万の人達を帰還させ国内に定住させる必要があるという実際的な問題がある。和平交渉そのものに国際社会が関与することはできないが、定住問題などの周辺的な事柄で支援を行い交渉の進展を助けることは国際社会の果たすべき役割である。なお、西部ラカイン州で起こっているロヒンジャの問題は、上記の伝統的な少数民族問題とは異なる問題である。ミャンマー人にとってカレンやカチン等は自分たちの同胞であるが、ロヒンジャはそうではない。そこに問題の根幹があるが、この問題も、テインセイン大統領は、ロヒンジャにもいずれ市民権を認めるとの立場を表明する等国際社会から非難されないよう柔軟な対応をみせている。
(日本との関係)
一度ビルマに勤務するとまた勤務したくなるという話を昔よくきいた。そういう国は他にもいろいろあると思うが、確かにミャンマーの人達は社交性に富み、気持ちのいい人達である。
1988年に軍事政権が成立するまで日本はミャンマーにとって最大の援助国であり続けたが、その後は欧米諸国と協調して抑制的な援助にとどめた。それでも日本は、人道支援や人材育成などの形で可能な範囲で支援を続けたが、他のアジアの国に対するような大きな経済援助はできない状況であったし、民間の経済活動も低調であった。
新政府が成立し、民主化が進展するのにあわせて、日本は早い段階から経済協力の再開を表明し、今年に入って、少数民族支援等を含めて200億円以上の無償資金、また、インフラ整備等のため500億円以上の円借款の供与に合意し、対ミャンマー支援の強化の姿勢を具体的に示した。また、これに先立ち過去の延滞債務の解消も合意し、他の債権国や国際機関の延滞債務問題の解決に指針を与え、ミャンマーがこれらのドナーから資金供与を受けることが可能となるよう側面的な支援も行った。実際、今年1月ADBが5億ドル以上、世銀が4億ドル以上の融資を決定している。民間レベルでは、個々の企業のトップや経団連他の経済団体のミッションなどが多数訪問し、かつてない活況を呈し続けているものの大きな投資はまだ実現していない。
こうした日本のミャンマー支援の強化は、経済発展のための資金源を多様化したいという新政府の希望に応えるものであるし、民主化を進める新政府を力づけるものでもある。即ち、民主化が単に政治制度の変更というだけでなく、一般国民の日常生活の改善という形で恩恵をもたらすものであればある程、新政府としては一層強力に民主化と改革を進めて行くことができる。テインセイン大統領としても、急激な民主化を好まない一部の人々に対抗するためにも民主化の実益を示すことが求められており、そのためには国際社会からのいわば物心両面の支援が必要であるということである。
(今後の展望)
2015年の総選挙が大きな節目となることは間違いないが、そこに至るまでの過程で現政権が国民の不興を買うような大きな失策を冒すようなことはないだろうし、引き続き民主化と改革が進められて行くと思われる。また、今年秋のアセアン競技大会と来年のアセアンサミットの主催は、国民の気持ちをひとつの方向にまとめるとともに新生ミャンマーの姿を諸外国に示すよい機会となるであろう。
2015年に起こるべきシナリオはいろいろあろうが、最悪のシナリオ、即ち、再び軍事クーデターというシナリオはない。それは、これまでの努力と成果を無にし、世界からの完全な孤立を招き、政治的にも経済的にもミャンマーは生きて行けなくなる。教養があり誇り高いミャンマーの軍人がそのような大義名分がない愚行に走るとは考えられない。
従って現政権が継続するか、アウンサンスーチー女史が政権を担うかのどちらかであると思われる。ミャンマーでは、世論調査が行われないから、国民の支持率を数字で知ることは難しい。昨年4月の補欠選挙では、上下両院664議席中45議席を争ったが、アウンサンスーチー女史のNLDは、得票率70%以上で43議席を獲得し、圧勝した。同女史に対する支持がどういうものであるかをこの数字は示している。しかしこの選挙は1年以上前のことであるし、総選挙までまだ2年あるということと政権側は軍人議席25%を保証されているので、この補欠選挙の結果だけみて、NLDが総選挙の結果過半数を獲得すると予想することは適切ではないように思われる。軍事政権下で抑圧された国民にとって、アウンサンスーチー女史は唯一の希望の星であったが、これだけ民主化と自由化が進展してしまうと、星の輝きがいつまでも続くと考えるのは楽観的にすぎる。これまである種絶対的な存在であった同女史も議会での宣誓の問題など国民の不評を買うようなこともあり、議員として、また、大統領候補として、さまざまな問題に注意深く対応する必要があろう。
また、仮にNLDが過半数を占めたとしても、憲法上外国籍をもった子供のいる人は大統領になれないので、同女史が直ぐに大統領になれるわけではない。同女史が憲法改正を求める理由のひとつであるが、憲法改正は両院の4分の3以上の賛成(その後国民投票)を必要とするので、憲法上4分の1を占める軍人議員の一部の支持がなければならない。この点に関しては、アウンサンスーチー女史が、国民特に軍人のゆるぎない尊敬の対象であるアウンサン将軍の娘であるということが意味をもってくる。また、議会で指導的な立場にあり、軍に対しても影響力を持つシュエマン下院議長と同女史が最近急速に接近しているというのも興味深い点である。なお、同議長は、自身次期大統領候補として名乗りをあげているが、憲法改正については国民が望むならば検討しようという柔軟な立場を表明している。
現政権側としては、引き続き民主化と改革を進めていくが、それだけでは総選挙で勝つことはできないであろう。前述したように国民生活が改善されることが必要である。例えば、電力供給の改善により停電がなくなるとか、工業団地の造成により雇用が創出されるとか、農業補助政策により、農民が農耕機具を買えるようになるとか、といった目に見える状況の改善を、今後2年間で実現しなければならないであろう。またテインセイン大統領は、就任後自分は1期限りであると述べていたが、昨年10月に続投の可能性に言及した。これまでの民主化と改革が同大統領の強力な指導力により実現してきたものであることを考えると、同大統領の去就は国民の投票行動に大きく影響すると思われる。アウンサンスーチー女史の圧倒的な人気に対抗できる人がいるとすれば、それはテインセイン大統領だけであるからである。
2年後の総選挙の結果を予測することはできないが、現政権であれば、テインセイン大統領であれ、シュエマン議長であれ、当然これまでの政策を継続することになるし、アウンサンスーチー女史になれば、それは一層加速されるであろう。同女史は経済政策については未知数であるが、ミャンマー経済の発展にとって外資が必要であることは認めており、この点でも基本的には大きな変更があるとは考えられない。2015年は大きな節目となるであろうが、ミャンマーが進む方向、即ち、民主化と改革という大きな流れは変わらないと思われる。(2013年7月29日寄稿)