MENU
 

第16弾 チャベス大統領鎮魂歌

下荒地修二.jpg
元駐ベネズエラ大使  下荒地 修二

外務省に入省して以来、在外任地としては中国、台湾、韓国と近隣諸国が中心であったので、最終段階でパナマ、ベネズエラの在勤となったのは、自分でも驚いた。他方、それまで全く土地勘のない地域で最後の仕事ができたことは、チャレンジングであり、得難い経験となった。しかも、両地の在勤がそれぞれ3年半をこえ、7年以上どっぷりとラテンの生活に浸ることができた。

大使としての最初の任地パナマはいうまでもなく運河の国である。1903年11月に米国の後押しでコロンビアから分離独立したので、私が赴任した時はちょうど独立100周年という記念すべき時期にあたった。パナマの独立の経緯について書き始めると、それこそ本が一冊書けるほどのドラマであるので別の機会に譲ることとして、ここでは日本が新生パナマの独立を承認し外交関係を樹立したのが翌1904年1月と極めて早く、すでに100年の歴史を有しているということを指摘しておきたい。その1か月後には日露戦争が開始されるのであるが、このように承認を急いだ理由として、運河を作るためにパナマを相当強引に独立させた米国との友好協力関係を強化しておかないといけないいう配慮が働いていたということは容易に想像される。

パナマ運河は、1914年に米国により完成し、明年2014年で開通100周年を迎える。それに合わせたわけではないが、私の在勤中に運河拡張計画が策定され、その受注をめぐって激しい競争が展開されることになった。パナマ運河最大の利用国は当然のことながら米国であるが、あとは日本と中国の存在感が大きい。この拡張計画については1970年代から日本が主導してきた経緯もあり、なんとかして日本の手でと思い自分なりに努力したが、最終的には残念ながら欧州勢に敗北したのは今でも残念でならない。

さて本稿の主題であるベネズエラであるが、石油の国というのが一般のイメージである。確かにその通りであるが、石油以外にもないものはないくらいに資源に恵まれた国であることを、赴任して初めて知ることとなった。ベネズエラ人も自分の国を恵まれた国と自認している。よく聞かされた冗談に、ある時神様の前で、各国人が自分の国の説明をした。ベネズエラには、豊かな土地があり、その上に石油資源に恵まれ、他の鉱物資源もなんでもある国であると話したところ、他の人が「ベネズエラ人だけがいい目にあって不公平だ」と言ったという。そこから先はいろんな説があり、それほどベネズエラが恵まれた国だという話で終わるかと思えば、神様が「いやいや不公平ではない、あそこにはベネズエラ人を置いておいた」というオチにする話もある。いずれにしても、それほど恵まれた国であるのに、それをまだ十分に活用していないという話である。

確かにベネズエラは資源に恵まれている。もともとは農業国であったが、20世紀に入ってから豊富な石油資源が発見され、第2次世界大戦前は世界最大の石油輸出国であった。戦後は中東に首位の座を譲ったが、それでも日産200万バレルから300万バレルの生産がある中南米最大の産油国である。特に、近年いわゆるオリノコ川北岸に産出される超重質油が技術的、経済的に採掘可能になり、確認埋蔵量が3000億バレル近くになっており、今やサウジアラビアを抜いて世界最大の石油埋蔵量となった。可採年数300年というまさに石油大国である。

石油資源だけではなく、天然ガスの確認埋蔵量も192.5兆立方フィートで世界第8位とされている。他の鉱物資源も鉄鉱石、ボーキサイト、金をはじめ、それこそなんでもありという状況である。日本からも、豊富な電力を利用したアルミ産業が進出しており、世界有数の良質な鉄鉱石を利用した還元鉄生産工場が進出している(もっとも私の在任時にはこの撤退問題が大きな仕事になった)。加えてベネズエラの東部には広大な、全くの手つかずの広大な土地があるとなれば、資源に乏しい我々日本人だけでなく、だれから見ても、神様は本当に不公平だと言いたくなる国である。

このように恵まれた国であるので、中南米諸国の中では豊かな国であることは間違いない。一人当たり国民所得も1万ドルを優に超えており、首都カラカスに林立する高層ビル、世界遺産として登録されている大学都市をはじめとする建造物、整備された高速道路網などを見ると、一見すると先進国と言われてもおかしくない状況である。ただよく見ると、こうした「先進国」風は、少し古びてきており、1970年代までの石油ブームの遺産が多く、ベネズエラの発展が近年少し停滞気味になりつつあることが分かる。特に、経済発展が著しい中南米諸国にあって、その停滞ぶりは目立つ感じがする。ということで、在任中、日本との経済関係を強化することで、この国をもっと発展させることができるのではないかと一度ならず思ったものである。

加えて、ベネズエラ経済は近年、少なからず問題を抱えている。毎年20%から30%にもなるインフレ率(本年2013年は40%を超えると言われている)、貧富の格差の固定化、実勢と乖離した為替の固定相場制から来る種々の矛盾などがすぐに指摘できる。加えて、中南米でも1、2を争うとされる殺人率の高さなど治安の悪化も指摘されている。ベネズエラの重要産業国有化という急進的ともいえる社会主義路線もあって、外国からの投資も停滞気味である。

こうした諸事情を背景に、べネズエラと日本との経済関係は以前よりも低調に推移している。2011年の統計でも、日本への輸出はアルミ地金、鉄鉱石、カカオなどで31.7憶円、日本からの輸入も自動車を含む機械機器を中心に683億円である。世界最大の埋蔵量を誇る石油大国であるにもかかわらず、石油の対日輸出は、80年代には2、3億ドル程度の輸出が記録されているが、その後は全くなく、私が赴任した2007年に200万バレルの輸出があり、ここ1、2年ま100万バレル単位で日本に達しているだけである。ベネズエラの油種が、重質油がほとんどであり、日本の業界が必要としていないこと、また大西洋側にしか積み出し港がないので、輸送の問題があることなどが理由であるが、今や世界最大の石油埋蔵量を誇るベネズエラとのエネルギー面での協力関係は、もっと重視すべきではないかと思っている。

ベネズエラ側も、石油の輸出先多角化が悲願であり、近年は中国への輸出を増加させており、ベネズエラ側統計では日量60万バレルに達しているとされる。日本も乗り遅れてはいけないのではと考えてしまう。たまたま、前任地のパナマには、1980年代に建設されたパイプラインがあり、これを利用すればベネズエラからの輸送距離も半分以下に短縮される。とすれば、日本、中国、韓国など東アジアの石油輸入大国が協力することにより、ベネズエラから北東アジアのオイルチャネルができるのではと考えてしまう。
このパイプラインは、もともとアラスカ原油をアメリカ東海岸に輸送するために、パナマとコスタリカ国境地帯に建設されたものであり、1981年から93年まで使用されていた。アラスカ原油の開発が終わるとともに、ほとんど使用されなくなっているが、その後もメインテナンスもされている。しかも、もともとは太平洋側からカリブ側に輸送されていたものであるが、2009年には逆送プロジェクトが完成し、現在はベネズエラ原油の輸送にも使用が可能になっている。

日本の輸入石油の対中東依存度が90%近くになっている現在、エネルギー安全保障の観点からも、中東以外の地域からの輸入ルートの確保は重要と考えるが、どうしてベネズエラからの輸入が、もっと真剣に考慮されないのか、個人的には不思議でならない。
もちろん日本もベネズエラの石油を全く無視しているわけではもちろんなく、私の在任中にエネルギー当局間の協力取り決めが結ばれ、日本もベネズエラ石油の開発に参加できることになった。この取り決めに基づき、毎年民間の参加のもと当局間協議が行われている。また、2009年のチャベス大統領の訪日時には、ベネズエラからオリノコ川北部にある4つの産油地帯のひとつであるフニン11という鉱区を日本が獲得することになり、初めて上流部門に参加するという進展はあった。同時に、同地域のカラボボ鉱区の開発が国際入札にかけられ、日本も米国メジャーと組んで開発権を獲得することに成功している。ということで、徐々にではあるが、日本とのエネルギー関係も進展しているのであるが、在勤者としてはもっと早くという焦りの気持を抱いている。

ベネズエラ在勤中の大統領は、ウーゴ・チャベス大統領であった。1999年に初めて大統領に就任し、赴任した時にはすでに在任9年目、まさに権力の頂点にあるという感じの時期であった。92年に陸軍中佐時代にクーデターを主導して失敗、その後短期間の服役のあと98年の大統領選挙に出馬、選挙前の予想に反して当選したという経歴からもわかるように、大衆に人気のある政治家であった。信任状奉呈までに4カ月以上も待つことになったことに象徴されるように、在任中大統領との接触の機会は多くはなかったが、会ってみると非常に魅力的なオーラのある大統領であった。
チャベス大統領と言うと、反米の民族主義的社会主義者で、国連総会でアメリカ大統領のことを悪魔の匂いがすると発言するなど傍若無人な言動で、なんとなく「暴れん坊」で異端児という印象である。確かにそういう面があることは否定できないが、実際に会うと、なかなか繊細で、きめ細かい気配りのできる大衆政治家という印象であった。

2009年4月にチャベス大統領は8年ぶりに日本を訪問することになった。その背景を分析するとこれまた論文が一本書けるくらいであるが、要は日本との経済協力関係強化を求めてのものであった。駐在国大使として接遇にあたったが、そのポピュリスト政治家としての見事なまでの動き方に感心させられた。

帝国ホテルが宿泊先であったが、その出入りには日本側警備当局、ホテル側が要求したVIP用の出入り口は使用しない。正面玄関から入って、出迎えの外交団、一般宿泊客のあいさつを受けつつ、エレベーターまでの50メートルほどの距離を行くのに1時間くらいかける。予定されている日本側民間人との面会予定は全く無視される。そんなことが繰り返された。

そうした大衆政治家の一面を示しながら、同時にセキュリティへの配慮は大変なもので、4、50人に及ぶ警備陣を各所に配置し、さらに食事はすべて同行した調理担当者がホテルの厨房を借りて作ったもの(食材の買い出しもこれらの調理人が行ったと聞く)を自室で食べるという徹底ぶりであった。

とにかく時間を無視するというのも、悩みの種であった。突然の訪日であったので総理との首脳会談は当初45分という短時間しかとれなかった。ホテルの出入りに1時間もかかると言うので、さてどうなるかと心配したが、その時は時間通りに出発、それもきちんとVIP出入り口を利用してくれた。少し余裕をもって時間設定をしていたので、途中でちょうど満開の桜を見つつ総理官邸に到着したということであった。さすがのチャベス大統領も事の重要性はよく理解している、というより、時間を守らないのもきちんと計算してのことと言うことが分かる思いであった。

どうもわれわれとは時間の感覚が違うということなのであろうか、演説の長さにも驚かされた。毎年1月に国会での施政方針演説に外交団も招かれる。指定された時間に行くと閣僚、議員などはすでに来ているが、肝心の大統領はなかなか現れない。2時間以上待ってようやく大統領が到着するが、これまた入口からいろんな人に挨拶をしつつ入ってくるので、また時間がかかる。そして演説が始まると、原稿もなしに7時間、8時間と演説する。それもチャベス大統領は立ったまま、一度も中座することなく滔々としゃべるのである。外交団も半分以上が途中で退席するが、それはお構いなしである。大統領の体力には本当に感心させられたものである。

他方、このように傍若無人ともいえる態度を示されると、反感をもたれるのではないかと思うが、そこがチャベス大統領の天才的な大衆政治家としての人を引き付ける能力が発揮される。来日時も、記者会見に3時間以上も遅れて現れたが、その間記者は辛抱強く待ち続けていた。そして突然現れると、遅れたことを弁解もせず、まずカメラ記者に向かって愛想をふるまき、女性記者を抱きしめて親しく話をし、そして登壇する。待ち続けていた記者たちもチャベスマジックにかかったかのごとく、何もなかったかのように、記者会見が行われた。こういう場面を見せつけられると、チャベス大統領の人気がその天性の資質によるもと感じたものである。

このチャベス大統領は、長期政権を目指し、就任以来2回の憲法改正を行って大統領の再選制限を撤廃し、2021年の独立200年を自分の手で迎えることができるようにした。プロ野球選手を目指したこともあるという立派な体格、圧倒的な人気から見て、この夢の実現はそれほど問題ないのではないかと思われた。しかし、今年の3月に亡くなった。私の在任中にはすでに病魔に侵されていたようで、離任直後には自身が癌治療を受けていることが公表された。今から思いだすと、赴任1年目の2008年には10キロの減量に成功したということで、見るからに精悍な感じがあったが、その後また太り始めていた。キューバでの病気治療は順調ということであり、昨年10月の大統領選挙前後には元気な姿を見せ圧勝したが、本年1月の大統領就任式にも帰国がかなわず、結局58歳の若さで亡くなるとは、全く予想外の出来事であった。

憲法の規定により、大統領の再選挙が行われたが、チャベス大統領が後継者に指名したマドゥーロ副大統領が勝利した。この再選挙では当初の楽勝予想を覆し、公式発表では  1.59%という僅差の勝利であったため、選挙の有効性をめぐって紛糾が続いている。敗れたカプリレス候補は開票再集計を求めて選挙結果を認めていないが、新大統領は頻繁に外遊を行うなど、政権基盤の確立を着々と進めている。今後についてはなかなか予想しがたい。はっきりしていることは、チャベス大統領と言うカリスマ性のある指導者が亡くなったことは、チャベス主義路線をめぐり与野党の対立が激化せざるをえないということであろう。特に大きな困難に直面している経済では、主要産業の国有化推進に象徴的に見られるような急進的ともいえる社会主義路線にも何らかの政策変更がありうるであろう。外交的にも、これまで同様の対米強硬路線が貫かれるか、またいわゆるアルバ諸国と呼ばれるベネズエラとの関係が深い諸国との関係にも少なからず影響が出てくることも避けられないであろう。ベネズエラ離任以来、中南米情勢にはあまり注意を払ってはこなかったが、改めて注目している次第である。 (2013年7月20日記)