スー・チー女史の新たな挑戦=ミャンマーの国づくりと大統領選挙

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元在ミャンマー大使館参事官 熊田 徹

二重のハードル
ミャンマーの最大野党党首スー・チー女史は、27年ぶりに来日滞在中の4月17日、東京での記者会見で2015年の総選挙と関連させつつ、「現行ミャンマー憲法規定には私が大統領になれないようにしている部分がある」と語った。昨年の議員就任以前から現行憲法の非民主性を理由に主張していたその改正を、自らの願望達成の政治的手段としても位置づけたのである。

テイン・セイン大統領は既に憲法改正についても同女史の大統領就任希望についても、それぞれ別の機会に民意次第として容認していたから、この発言自体は予期どおりといえる。だが、同女史のこの政治意思実現には、「国家危機管理体制」維持を第一義とし、そのため大統領に権限を集中する現行憲法の特異な性格ゆえに、
二重のハードルを乗り越える必要がある。

先ず、現行憲法規定上、大統領就任資格はその身分のみならず、政治、行政、経済ならびに軍事に精通した資質を含み(59条)、その変更は議員総数の20%の賛同による改正法案発議(435条)を経て、議員総数の75%の賛成とその後の国民投票による過半数の賛成を要する。したがって与党と軍人票とで約80%を占める政権側に対して、議席数約8%のNLDは、仮に無所属議員や反ビルマ族的(つまりは基本的に反NLD)とされる少数民族諸政党を引き込む戦術をとるとしても、改正法案提出に必要な議席数を満たし得るかさえ微妙である。要するに、軍人・与党の票田切り崩し策が鍵となる。

次に、改正法案の内容も、同女史を大統領と想定する以上、必然的に第11章「国家非常事態」の合計33の諸条項と、少数民族問題に関する政治的・軍事的問題や経済開発関連の諸条項との調整など、他の多くの重要問題にも波及する大作業となろう。それは、すでに進行中の各種法制改革や外国投資などを遅らせかねないうえ、植民地時代以来ミャンマーの国家社会が抱えてき、現行憲法体制の最大目標ともなっている、「国民間和解」達成の過程を混乱させかねないとのディレンマを含んでいる。

「国家・国民の分裂の排除」と「つなぎの憲法」 
 2008年の国民投票で採択された現行憲法は、国軍と軍人の圧倒的権限を中核とした「危機管理中心主義」的な性格ゆえに、米欧主要諸国政府や国際社会の多くとスー・チー女史のNLDとから、軍政延命のための反民主的憲法として非難された。同憲法下で2年後に行われた選挙も不正だらけの茶番劇としてその正統性を否定され、ミャンマー新政権に対する国際制裁はそれまでどおり続けられた。だが一方、サイクロン・ナルギス被害に際してASEAN 諸国による対ミャンマー援助の「非政治化」主張や、米国の政権交替による外交政策の変化などを機に、対ミャンマー政策についても制裁はかえってマイナスとの見解も現れはじめた。

米国の対ミャンマー制裁政策は、2011年9月中旬のミッチェル米国政府特別代表兼政策調整官(現駐ミャンマー米国大使)がネピドーを訪問してミャンマー新政府・議会首脳部や野党議員、少数民族代表を含む政界人等と行った「極めて親密で建設的な会談」を機に、現政権下での民主化改革支援へと、明確に方向転換した。同調整官は訪問成果に関する記者会見で、この点を「(改革努力の真摯さについての)懐疑派の誤りを証明する」とか両国関係の「パラメーターの変更」などの表現を用いて説明した。現在では、対同国制裁継続を唱えるごく少数の国際NGOを別として、すべての国が対同国改革政策支援に転じている。しかも、この方向転換はかつて非難罵倒の対象とし制裁政策の根拠としていた、現政権と現行憲法の改変を条件としてはいない。

このようにみると、スー・チー女史・NLDは従来とは異なり、単なる反政権や憲法改正論だけでは内外の支持を受けられそうもなく、改革プロセスの推進に役立つための政策形成能力を示して軍人中心の与党側の政策と優劣を争うしか選択の道はなさそうである。 
現行憲法前文は、過去の憲法について次のように述べている。独立を急ぐあまりに慌しく起草された1947年憲法は効果的な民主主義を実現できず、1974年憲法も1988年の事件で停止された後、広範な公民的熱望に応じてSLORC(国家法秩序回復評議会)が複数政党制民主主義と市場経済制の採用に向けて努力した。そして将来の国民のための恒久的憲法の必要にかんがみ、SPDC(国家平和開発評議会)が1993年に国民会議を召集した。同会議は幾多の困難と妨害に遭遇したが、2003年の「7段階のロードマップ」に沿って2004年に断固として再開し、憲法の基本原則と細部原則とを採択できたので、2007年9月に任務を終えた。前文はまた、国民の決意として、国家と国民的連帯の分裂の排除、主権の維持、正義、自由、平等に基づく「永遠の真理」、人種的平等などに触れている。

国民会議は本来「恒久的憲法」の制定を目指していたのだが、結局「危機管理憲法」の採択でもってその任務を完了したというのである。注目すべきは「国家・国民的連帯の分裂の排除」という、「国民和解」とは裏返しのこの表現が、本文でも繰り返し用いられていることで、それがこの憲法の根本命題であり、同憲法の基本原理となっていることである。
つまり、現行憲法は、従来からの「国家・国民間連帯が分裂する危機」が依然続いているがために、「7段階のロードマップ」が目指していた恒久的憲法を制定する時期が到来するまでの、「つなぎの憲法」なのだということが理解できる。とするならば、改革政策の形成と実施には、その前提として、現在のミャンマー国家社会自体がその歴史的展開の中で占めている過渡期的な位置如何を確かめておく必要があろう。

「複合社会ビルマ」からの脱却としての「改革」
植民地ビルマの行政官僚として数十年の経験を有し、同国の政治経済問題の権威でもあるJ. S.ファーニヴァルは、1957年の著作で、「ビルマの議会制度は軍事力と(レッセ・フェール的な外僑支配の)経済とにより支えられていたに過ぎない」とし、同国社会を「数々の民族が隣り合って住んではいるが、それぞれがバラバラで共通の福祉や目標によって結ばれてはいない複合社会」と定義した。そして、「(ビルマでは)多数決原理に基づく民主主義は幻想に過ぎないのに、彼らは歴史的に類例を見ない不利な条件下で壮大な民主主義の実験を行っている」と指摘した。また、翌1958年には、次のような分析をしている。

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「ビルマの自然と歴史は、その統治者が誰であれ、住民の統一と変貌する内外情勢への適合とを、統治上の主要課題として科した。だが、歴代ビルマ国王はこの課題をついに達成しえなかった。英国の統治は国民統一促進のためには何一つなさなかっただけでなく、逆に分派主義を助長した。ビルマ・プロパーを直接統治下に、辺境地諸住民を間接統治下に置いて両者を隔離したうえで、後者をそれぞれの土侯の支配に任せて、互いに離反せしめた。 さらに特定少数民族のみを軍隊に採用してビルマ人との間に種族的敵対感情を醸成した。・・・英国の統治目的は、ビルマの物的資源を全世界の自由企業に平等に開放してこれを開発することにあり、・・・自由主義的企業制度の結果、工業と商業および科学的職業は外国人の手中に帰することとなった」。「経済勢力が支配する『複合社会』において、ビルマ人は自らを広い外部社会に適合させる機会を持ち得なかった。なぜなら、近代世界に通ずる道であるところの工業や商業、科学的職業への門戸がビルマ人には閉ざされていたからである。経済的勢力は教育の場においても、近代世界における最も近代的な2本の柱である経済と自然科学の科目からビルマ人を遠ざけていた。かくして外国の支配はビルマを広い外部世界と経済的に接触せしめはしたが、ビルマ人はその敷居際で立ちどまらざるをえず、広い世界の中で暮らす術を学び得なかった」。

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 アウン・サンはこのような「経済的真実」ゆえに、「われわれの民主主義」のためとして社会主義的な1947年憲法体制を選んだのだが、ミャンマーは翌年の独立直後から共産主義者や少数民族の反乱と東西冷戦の荒波に飲み込まれ、「植民地的複合社会」からの脱却努力を実行に移そうとした矢先に、「KMT工作」の打撃を受ける。KMTとは1949年に中国人民解放軍に追われてミャンマー北部に逃げ込んだ中国国民党軍とその残党のことで、彼らはその軍事作戦用資金源として、英国植民地制以来の北部少数民族の麻薬産業を簒奪発展させた。カチン族などの武装反乱組織は、今でもその経済基盤をこの麻薬あるいはその他の不法産業に依存している。1962年のクーデターは、この麻薬産業を軍資金源とする「シャン州独立軍」やワ族などがラオス問題に関与して、ヴェトナム・ラオス戦争に巻き込まれる危険を避けるためだった。これには、ウ・ヌ首相の仏教国教化政策が非ビルマ族を連邦離脱運動に走らせてしまったという、信じがたい失政も絡んでいた。ミャンマー最大の麻薬生産者で長らくビルマ共産党の支配下にあったワ族は、ごく最近は民族自衛のため、中国から武器援助を得ている由である。
注意すべきは、宗教対立は英国がインド植民地運営に際して用いた分割統治手段の一つ
だったことである。第二次大戦後インドから離れて独立した東パキスタン(現在のバングラデシュ)と植民地時代には事実上一つの経済単位として運用されていたミャンマー西北部ラカイン州での民族間関係は、今日でもその名残をとどめている。 

一方、ミャンマーの国民も諸政権も、1960年代以降は外部介入からの防衛のため、1988年以降は人権民主化問題に起因する国際制裁により、つい最近までの半世紀間にわたって、外部世界から孤立化し、主として中国との関係強化によりその空白を埋めてきた。
そして今日、新首都ネピドーの議会で、ミャンマー史における賢王3人の巨大な立像が見守る中、国際社会の後押しを受けつつ、同国史上最重要の改革が議せられている。
                               (2013年6月9日 記)(2013年7月10日寄稿)