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私は夜陰に乗じて大使公邸を脱出した

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駐ラトビア大使 多賀 敏行

2011年の初頭から中東・北アフリカにおいて、民主化を求める民衆の動きが広がった。後に「アラブの春」と呼ばれる大規模な反政府行動である。 その先駆けとなったのが、 2010年12月17日のチュニジア人青年による抗議の焼身自殺に端を発し、翌 2011年1月14日にベン・アリ大統領を国外に追い出すに至った「ジャスミン革命」である。 ベン・アリ大統領は 23年に亘って強権的政治でもってチュニジアを支配した独裁者であった。 私は図らずも現地でこの革命に巻き込まれ、一時は危険な状況下に置かれたものの、運良く生き延びることが出来た。

早いものでこの革命から 2年半が過ぎてしまった。 チュニジアは民主的な新しい国に生まれ変わるために新憲法の制定、それに基づく選挙の実施に向けて努力を行っているが、動きは遅く、道のりは遠い。 革命は詩的でありロマンティックでさえあるが、その後の国作りは散文的である。 革命後9ヶ月の時点で書いたメモが手元にある。 これに沿って当時を振り返りたい。

私が住んでいた日本大使公邸はカルタゴという地区(チュニス中心から北東 17キロにある)にあり、大統領宮殿が近くにある。大統領宮殿に近いことから警備がしっかりしていて、チュニスとその郊外では最も安全な地区である。 ところが、2011年1月14日にベン・アリが国外脱出して以降、ベン・アリが残していった大統領警備隊が宮殿から外に出て銃を乱射し、地域住民を恐怖に陥れていた。 それまで一番安全であった場所が、一瞬のうちに一番危ない場所になってしまった。まるでオセロ・ゲームのようだ。

1月16日の午後4時ごろから夜まで、17日正午頃から3、4時間の間、要するに 2日間に亘って、日本大使公邸から20メートルほどの至近距離でベン・アリの大統領警備隊の残党と正規軍の掃討部隊との聞で激しい銃撃戦が繰り広げられた。私と公邸料理人のH君は流れ弾に当たらないよう2階の廊下にひたすら、うつ伏せになって、銃撃戦が止むのを待った。 17日午後になって、「公邸を出て、チュニスの町中にある日本大使館事務所に移ったほうが安全で、仕事の上でも好都合」と判断し、チュニジア外務省を通じ、軍・警察の保護を頼んだ。大使館に居る公使がそのアレンジをしてくれた。

スーツを着た理由
要請をしてから、結構、待たされた。日が沈んであたりが薄暗くなったころに、警察の車輌がやってきた。 10数人乗れる小型バスのような車輌である。その前後を4輪駆動の車が挟んでいる。 全部で3台のコンボイだ。4駆の屋根には誘導中であることを示すランプが付いている。警察車輌が来るのを待っている間に、私は普段着から、スーツに着替えていた。 ネクタイもした。 公邸料理人の H君はジャージにアノラックを羽織って、頭は毛糸で編んだ帽子というカジュアルな服装だ。 H君はカジュアルな格好で良いが、私については仕事上の正式な服装、スーツを着ないといけないと考えて、スーツを着た。

警官はチュニジアの友好国、日本の大使を保護して、大使館事務所まで護送するという重要な仕事をしようと思って、謂わば張り切って来てくれるのだろう。公邸に着いて車輌で護送しようとして大使を見たら、セーターにアノラックというようなカジュアルな服を纏っていたら落胆するのではないかと恐れた。 多賀個人はこの際、横に置いて、日本大使は軽く見られてはならないと思った。それに加えて、このころには治安が悪化していて、無法地帯が町のあちこちで出現していた。 地区ごとに町内会が成年男子からなる自警団を結成し、通りの角々に立っていた。これら自警団は、セーター、ジーンズ、革ジャンパーという格好が多かった。 言って見れば薄汚い格好なのである。薄暗い街角で木の棒きれ、鉄のバーなどを持って、不審者を見張っているのを見かけたが、格好があまりにもカジュアル過ぎるので彼らの方こそ盗賊、強盗の一団かと思ってしまいそうだ。

こいう自警団の人と一緒にされてはまずい、もし何かが起きて、車から下りて道を歩かざるを得なくなった場合、スーツを着ていた方が、彼らも何となく重要な人物と思ってくれるだろう、もし運悪く銃弾にあって死んだ時も、私が何者かすぐ分かってくれるだろう。セーターにアノラックでは、まず、どだい自警団のメンバーと区別が付かないし、強盗や泥棒と間違われる可能性だってある。そう考えてスーツを着たのである。 「人は見てくれが全て」とはこの場合本当だろう。 H君はカジュアルな格好だが、銃に倒れる時は私の近くに倒れるだろうから、日本大使の同行者であることはすぐ分かるだろう。

警察車輌に乗ったが車は発車しない。このコンボイの隊長とおぼしき警官が、私に「近くの地区で勤務している同僚警察官のグループもこの車輌に乗る。彼らはもうじきここに到着するので、少し待っていただきたい」と言う。 私はもちろんこれを了承し、この隊長に、「私と、この横に居るのは私の料理人であるが、我々2人を迎えに来てくれて感謝する。この大変な時期に困難な仕事を遂行する警察の勇気に敬意を表する」とお礼を言った。街灯の光は木の枝やバスの窓枠に阻まれてこの隊長の顔を半分くらいしか照らしていないが、にっこり笑ったように見えた。大きな銃を肩から胸に回す感じで抱えている。 この銃はカラシニコフのような形をしている。あとで調べたら、オーストリア製のシャイナーという銃とのことであった。この隊長と1、2分会話をする。もし誤解が生じて、銃で撃たれては叶わない、とにかく話をして、この隊長に日本大使は感じの良い人物である。と思ってもらわねばならない。

途中で、もし、ベン・アリの大統領警備隊の残党と遭遇して銃撃戦になった場合にも、隊長は私に好感を持っていてくれていたなら、そうでない場合よりは、遙かに真剣に守ってくれるだろう。

sur realismeの世界を垣間見た
そうこうしている内に、5、6人の警官のグループが到着してバスに乗り込んだ。出発だ。 警察車輌は比較的ゆっくりとしたスピードで走り、チュニス中心部に続くマルサ街道を走ってゆく。 我々以外の車は見かけない。不思議な静寂が支配している。屋根の上に誘導灯を点滅させた4輪駆動車が前後を挟んでいる。 車種を見ると、日本車だ。 三菱パジェロではないか。 緊急時で見聞きしたことには些細なことでも不思議に記憶に残っていることがある。車種がパジェロであったこともそのひとつだ。
コンボイがチュニス・カルタゴ空港の横を通りかかった。 門のところに兵隊を乗せた軍用トラックが配備されているのが見えた。

数分行くと高速道路の反対側に、黒焦げになった迷彩塗装の兵員輸送車が1台ごろんと横倒
しになって車体が割れた無惨な姿を晒していた。 はらわたを抉られて干からびた豹の死体を連想した。

車輌が高速から出て普通の道に下りた。とたんにコンボイは止まった。 路面に障害物が散らばっていたからである。 前の車、パジェロから警官が下りて片付け始める。 コンクリートの破片である。 これで住民が車輌を止めようとしたのだ。10メートルくらい離れた所に5、6人の男が鉄棒を持って屯していてこちらの方を見ている。 この地区の自警団だ。身なりを見る限り強盗の集団にも見える。コンクリートを取り除いてもまだ障害物があった。 大きな看板が半分に折れて倒れている。

薄闇の中に目をこらすと、ベン・アリ大統領のポスターを貼りつけた看板が割られていたのである。3日前まで、この国の民衆を強権政治で押さえつけていた独裁者の顔の口や目がずたずたに破られていた。 このポスターは政変が始まる前は毎朝、大使館への出動の途次、眺めていたものだった。 ベン・アリ大統領が右手を胸にあて、ほんの少し微笑みをたたえ、今にも民衆に語りかけようとする表情の写真だった。3日前にはこの大統領のポスターが破られるとは想像だにできなかった。信じられない代物が横たわっていて、警官2人が、この世の中で最も日常的で、ありふれた仕事を処理するかのごとく、淡々と除去作業を行っている。 すべて沈黙の中である。

こういうのを sur realismeの世界と言うのだろう。 権威と秩序が全て消えさり、自分の立つ位置が不明で物事の価値が逆転した異次元空間である。 あり得ないことが不思議な静けさのなかで、ゆっくりと繰り広げられていた。コンボイはあと 3、4箇所の町角で、車輌を止めてはコンクリートの固まりを取り除いて進んだ。 やっとアポロ通りの日本大使館事務所に着いた。夜の6時40分であった。 公邸を出発して1時間ほど経っていた。 普段の2倍の時間がかかったことになる。 冬なのでこの時間でも、もうあたりは真っ暗になっていた。私は大使館の門灯や警備員が照らす懐中電灯をまぶしいなと感じながら、車輌から降りた。

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追補

外国語は出来たほうが良い
ところで、前述の隊長との会話はフランス語で行った。 チュニジアでは小学校3年から皆フランス語を勉強する。母語はチュニジア語(アラブ語のチュニジア方言)であるが小学校1年から標準アラビア語を勉強する。 従って大人のチュニジア人がアラブ人に会うときには、標準アラビア語で話し、欧米その他の外国人とはフランス語で話そうとする。 警官も、しかも隊長クラスとなると立派なフランス語を話す。英語はこの国ではあまり話されていない。私は英語は大学1年で英検1級に合格しておりその後、イギリスに留学し英語の研鑚に努めた。何とか自信はついた。

フランス語については大学1年と2年の時、第2外国語として勉強した。 一橋大学の前期に小平分校で作家で精神科医の、なだいなだ氏の夫人であるルネ・ラガーシュ先生に教わった。 プルースト研究で有名な鈴木道彦先生にも教えていただいた。NHKのフランス語講座も一生懸命見たり聞いたりした。 

丸山啓三郎、渡辺守章、福井芳男、朝倉季男などの諸先生方にお世話になった。 皆立派な先生方だった。青雲の志を抱いて三重県の田舎から上京した甲斐があった。東京は知的刺激にあふれており、フランス語も勉強できる。カミュもサルトルもサンテクジュペリも皆、フランス語で読みたい。カトリーヌ・ドヌーブもアラン・ドロンもジャンルイ・トゥラントゥニアンもその映画の台詞をフランス語でそのまま理解したい。 シャルル・アズナブールもアダモもミレーユ・マテューもシルビー・バルタンも彼ら、彼女らの歌うシャンソンの歌詞をフランス語でそのまま理解したい。 夢は膨らむ一方であった。

爾来、フランス語に対する憧憬は押さえがたく、断続的ではあるが独学で30年以上勉強してきた。一生懸命勉強するものの進歩は遅い。 去って行った青春時代の恋人を追い求めるような切なささえ感じた。

言うまでもないが緊急時に、相手と共通の言語を通じて意思疎通できるということは実に重要なことである。 

私の場合、この1月17日の夜、警察との間で十分にコミュニケーションを行うことが出来、パニックに陥ることなく冷静に振る舞えたのはフランス語を理解できたお陰だ。 フランス語を、 18才の時、当時ペンペン草が生えていた小平で勉強したからである。 先生方に感謝せねばならない。 

また、今回のチュニジア政変のような事態では、緊急事態に関係する基本的表現を知っているのと知らないのでは随分違うことを悟った。

フランス語のcouvre-feu (クーヴル・フ)という表現は、「夜間外出禁止令」という意味である。 (ちなみに英語ではcurfewである。) Couvreはcouvrir(覆う)という動詞から来ていて「覆い」という意味である。Feuは「火」である。つまり、couvre-feuとは「火を覆う」ことから「消灯令」、それからさらに転じて「夜間外出禁止令」という意味になる。「火を消して家に居なさい」ということだ。

非常事態下で生きていくには知っていなくてはならない語彙である。 この種の語彙、 50語くらいを集めて、『仏語圏の国で緊急事態を生き延びるための、必須フランス語50単語』という調書を外務省の同僚のために書きたいと思ったがまだ着手していない。

(本稿に記載している内容は個人的見解に基づくものです。) (2013年6月28日寄稿)
(本稿は白水社「ふらんす」2012年4月号に掲載された文書に大幅な追加を加えたものです)