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第15弾 カンボジアからの報告

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元駐カンボジア大使  篠原勝弘

1.日々変貌するカンボジア
ここ数年のカンボジアの発展は目を見張るものがある。都市人口は急増し、首都プノンペンでは、至るところで建設工事が行われており、40階以上の高層ビルもいくつも建設されている。市内の目抜き通りには瀟洒なブランド物を売る店が目立ち始め、日本製の高級車が走り、人口数に匹敵する携帯電話が普及し、モダンなカフェがあちこちで店を開き、繁盛している。どの店にもWi-Fiが無料で利用可能で、IT環境は日本より便利なほどだ。

最近現地で話題になっているのは日本の投資額が昨年第3位に躍り出たことである。長らく10位以下に低迷したことを思えば隔世の感がある。現役時代フン・セン首相はじめ多くの閣僚から、日本は、援助はするが投資は極めて少ない、発展の種を蒔いてくれたが、成果は他国に横取りされていると嫌味を言われた。カンボジアは経済の自由化度がシンガポールに次いで高く外国の投資家にとって有利な点がたくさんある。他方、1960年代から70年代の高度経済成長期に積極的に企業進出を行った日系企業勢いは今の日本にはない。当時一線で活躍した世代もほとんど引退した。東南アジアが中国と並んで世界の成長センターになっている時に日本は企業が老成し、長期の不況でリスクを恐れる体質が顕著となった。ASEANとの平和共存を謳った1977年の福田ドクトリンも色あせる。日本は東南アジアの安定と発展のために官民あげて支援してきた。このアセットを活用しない手はない。ASEAN諸国の日本対する信頼度は極めて高い。1967年に外務省に入省した時、メコン流域諸国の開発が外務省内では熱く議論されていた。勿論日本が開発の主導権をとるという意気込があった。当時外務省の良き伝統で、課内で熱い政策議論が行われた。若い事務官はこの課内会議で問題意識に目覚め、仕事の進め方を学んだ。しかし、インドシナ紛争の長期化で開発が遅れていたこの地域の開発が漸く本格化してきた。メコン流域諸国の中でも既に中進国として立場固めたタイを除き、ミャンマー、カンボジア、ラオス及びベトナム四カ国はいずれも若々しく、活力に溢れており発展の可能性は高い。

幸い、安倍政権は企業の海外進出に前向きだ。特に国内で苦境に立っている中小企業の海外進出には当初資金の不足、多少のリスクに耐える体力がない。これには政府の適切な中小企業支援策と低利の公的資金が必要だ。また、経済が急速に国際化し,英語が公用語化しつつある時代に日本の英語教育はマッチしていない。当面、元日本留学生を活用するなどの方法があるが、海外で単独ビジネスを行い、現地で生き抜いていける若者の育成は急務だ。 それしても、日本におけるカンボジアのイメージだ。一昔前のイメージのままだ。曰く、国中に地雷がまだ埋まっており危険である。相対的に治安が悪く、大半の人々の生活は貧しく、衛生環境は劣悪とのイメージだ。すべてが間違いとは言わないが、実態にはほど遠い。特に都市部の発展ぶりは一見、日本の地方都市とさほど変わらない。最近カンボジアに赴任や、出張で訪問した邦人は例外なく、日本で描いていたイメージと現実の発展ぶりの差に戸惑っている。

2.退官後、教育支援のNGOの世界に
2009年9月に長い間お世話になった外務省を退官し、請われて教育支援財団公益財団法人CIESFの現地代表に就任した。形は違うが5度目のカンボジア勤務である。財団創立者で理事長大久保氏はベンチャービジネス界の旗手で、予てから温めていた社会貢献への意志を実行すべくカンボジアでの教育支援を始めた人物だ。同氏は5年前カンボジアの教育事情を視察し、教育レベルの低さと基礎教育の欠如、特に理数科の基礎教育の必要性を痛感した。そこから、波及効果の高い教員の質の向上のために日本からベテラン理数科教員の派遣を思い立った。私も氏の熱い思いに感じるところがあり、過去の経験が生かせるのであればと思い現地代表の職を引き受けた。

カンボジアは日本のNGO のメッカといわれる。1979年のタイ・カンボジア国境における大規模な難民が発生。当時日本政府はUNHCRによるインドシナ難民支援計画予算全体の半分を負担し、WFP(世界食糧計画)、ICRC(国際赤十字委員会)などによる手厚い支援を行った。これ自体歓迎され評価されたが、難民支援の現場では、日本は資金は出すが、現場で汗を流す日本人がいないとの声が上がった。こうした批判にいち早くタイ在住の邦人が立ちあがった。日本でも呼応する動きが澎湃として起った。JVC、難民を助ける会、幼い難民を考える会、SVAなどである。これらのNGOは今でもカンボジア国内で人道支援を続けており現地の評価は高い。

ポル・ポット時代の後遺症の一つは多くのインテリが革命の敵とばかりに粛清されたことである。多くの教師がその中にいた。ポル・ポット派が追放された後、ヘン・サムリン政権は教育の復興に手を焼いた。多くの校舎が老朽化し、何よりも教える先生が極度に不足した。1991年の和平後多くの日本のNGOがカンボジアでの教育再建に乗り出した。支援者の中には遺産を全額学校建設資金に充てた方もいる。日本人の多くが自国の戦後復興における教育の重要性を認識し、カンボジアを始め途上国の教育再建に支援を行っている。日本のNGOが手がけた学校建設は800校以上に上る。この中には外務省の民間援助資金も活用されているが、圧倒的多数は民間の方々からの浄財だ。CIESFの援助はこの延長上にあり、校舎ができれば次に必要なのは良質な教員の確保であり、質の向上である。

1970年の政変以前、カンボジアでは大学は9つの国立大学が存在した。仏の教育制度を踏襲し、高等教育はエリート養成機関の色彩が濃かったが、教育の質は高かった。ポル・ポット政権は既存のすべての国家制度を破壊し、革命後の後継者は農村出身の青少年が担う予定であった。同政権下では革命教育のみで通常の学校教育は 廃止された。一握りの指導者と無知な青年が一国を牛耳り、国民は恐怖と餓えとの戦いであった。

 現在、カンボジアには全国で68の大学が設立され、うち、専門学校を含む国立の大学は24校で、学生数は約4万人、私立大学が44校で学生数は約6万に上る。大学が開かれ、少数エリート養成機関ではなくなった。1991年の和平後のこの20年余で雨後の筍のごとく大学が設立されたが、教育の質の問題が問われている。新卒を雇用した日系企業からも理数科の基礎的な学力がないため応用力のない者が多いと聞く。就職先も待遇の良い外資系の企業や金融機関人気が高い。教育省も学生のレベルを上げるためにはその前の小・中学校での基礎教育が重要なことを認識し始めており、教員の質の向上が先決としている。従来の中学校卒でも教員養成学校で2年間の教育訓練を受ければ小学校の先生に、高卒でも同じく2年間の教育訓練を受ければ中学校の先生になれる制度を改め、この5年以内に教員資格はすべて大卒に引き上げる考えだ。最大の問題は教員の給与があまりにも低いことだ。1960年代の後半に知り合った現地の教員の給与は平均8人構成の家族養うに十分な給与であった。今、教員はアルバイトや補習講義に追われ、本来の授業に身が入らない状態だ。地方の教員は別収入の機会は殆どなく、学校近くの畑を借りて野菜等を作り、生活に足しにしている有様だ。これでは教える意欲も教師としての誇りも持ち得ない。

3.シハヌーク前国王の死
昨年10月に前国王が89歳で亡くなった。カンボジア独立の父、国父と言われて国民から深く敬愛されていた。葬儀は数カ月続き、王宮前は毎日地方から弔問に訪れる市民で溢れていた。カンボジアの近代史はこの人無くして語れない。前国王の足跡を辿ると波乱の生涯と卓越した才能を感じさせる。
 19歳の若さで国王の地位についた時、すでに第二次大戦が始まっていた。宗主国仏では対独宥和のヴィシー政権が成立し、日本軍はインドシナ進駐を始めていた。当時、シソワット・モニヴォン王の後継者として長男のシソワット・モニレット殿下が有力視されていたが、仏は改革派の同殿下に抗仏の気配を感じ取り、サイゴンのリセに留学し、気ままな生活をしていたノロドム・シハヌーク殿下に白羽に矢を立てた。シハヌーク殿下はモニヴォン王の孫でノロドム、シソワット両王家の直系の血を引いており、後継者として申し分ない上に、その一見プレボーイ的な性格が仏に刃向う人物とは到底思えなかったのであろう。1945年敗色の気配を感じた日本は仏印処理を仏軍の武装解除を行い、空かさず国王は独立宣言を行ったが欧米社会はこれを無視した。日本軍の敗戦とともに、アジアには独立を志向する民族主義が台頭した。カンボジアも例外ではなく、国内には武力による独立獲得派とシハヌーク国王主導する仏との交渉による独立獲得派に分かれたが、結局は国王の粘り強い外交努力が功を奏し1953年平和裡に完全独立が達成された。

シハヌーク前国王と日本との出会いは日本軍の進駐が始まった直後であり、文化的に馴染んでいた仏から日本軍の影響下に移行した自国の行く末に大いに不安を抱いたに違いない。その当時の事情に詳しい今川元大使によれば、サイゴンの大使館から派遣された戸田書記官(仏語官補)が王宮で国王に拝謁、流暢な仏語で挨拶されると忽ち国王の不安は吹き飛んだ様子であった。戸田書記官は音楽の素養が深く、国王は戸田氏を王宮に招きクラシック音楽を楽しんだと言われている。因みに戸田氏はその後外務省を早期に退職し、音楽大学の教授に転身された。

また、当時司令官としてカンボジアに赴任した真名木中将は、軍規を徹底し現地での摩擦は極めて少なかった。1954年シハヌーク国王はいち早く対日賠償請求権を放棄した。翌55年国賓として日本を公式訪問した国王に対し国会は全会一致で感謝決議を行った。その後、シハヌーク前国王は1990年6月のカンボジア和平のための東京会議に参加した際の記者会見で、日本とカンボジアとの関係に触れ、これまでの両国関係には一点の曇りもないと述べ、歴史的に日本との間で問題が生じたことがないことを明確にした。
シハヌーク前国王は生涯を通じて、非同盟・中立、国際政治における均衡政策を掲げ、領土の保全と国家の安全を図ってきた。1970年政変を招いた中国寄りの仏教・社会主義政策の破綻を見ると、真の中立政策の維持の困難さを感じる。最近カンボジア政府の中国寄りの外交政策を見るにつけ、カンボジアが短期的な利益を超え、本来の非同盟・中立・均衡外交に立ち戻ることが望まれる。(了) (2013年5月31日寄稿)