「新興国」フィリピンについて

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前駐フィリピン大使  桂  誠

はじめに
筆者はフィリピン(以下「比」とする)に、最初は1990年代中盤に次席公使として、次に2007年秋から2011年初夏まで大使として駐在したところ、「最初の駐在の頃と比べ比は変わったか」という質問を受けることが多い。今般、霞関会から比について何か書くようにとの御話があったので、何が変わらず、何が変わったかを念頭に置きながら、比の特色等を数点、以下に記すこととした。
なお筆者は、二回の比駐在、2004年から3年間のラオス駐在の経験等を踏まえ、「中国が急進する中での日本の東南アジア外交――フィリピン、ラオスの現場から」という拙著を、かまくら春秋社から五月下旬に出版することとなった。その大半は比に関する部分であり、下記の1.から4.までは、拙著の比関係部分から、かなりの部分を割愛し、残りを大幅に要約したものであるので、ご関心のある方は、拙著をご笑覧頂ければ幸甚である。

1. 米国との同盟関係。中国の海洋進出に対する警戒感。
米比間の相互防衛条約は引続き有効であるが、1991年に米軍基地存続協定が比の上院で否決されたため92年に米軍がス-ビック海軍基地から撤退したところ、1995年に中国が、比が領有権を主張する南沙諸島のミスチ-フ岩礁に「台風の際の中国漁船の避難所」を建設してしまった。更に、1996年には台湾海峡危機があり、比は、米国との同盟関係を再構築する必要に迫られたが、米軍基地を再び認めることは政治的に不可能であるので、米軍の「訪問」を受け入れることとし、「米軍の訪問に関する協定(Visiting Forces Agreement。略称VFA)」を1999年に締結した。このVFAに基づき、数百人の米軍が常に比を「訪問」し、合同演習を行う等の関係が開始された。2001年の9・11以降は、テロ対策のためもあって、このような協力関係が強化された。

さて、筆者の最初の在勤の頃は、比にとって、安全保障上の同盟国である米国、ODAのトップドナ-であり投資・貿易面でも米国と並んで最重要相手国である日本の両国が特に重要なパ-トナ-であったが、2001年から2010年までのアロヨ政権時代には、中国との関係が経済分野を中心に緊密になり、「比に決定的な影響を与えるのは中国、日本、米国とその間の関係」と言われるようになった(順番は、米国が最後になっていることからアルファベット順と思われる)。他方、南シナ海の領有権問題に対する中国の出方が強硬になってきたことから、中国に対する警戒心が強まり、特に2011年春に親米派のデル・ロサリオ氏が外相となってからは、米国との同盟関係を強化する方向に向かっている。日米と同様、「2+2」(外相・国務長官、国防相・国防長官の4閣僚の協議)が開始され、合同演習も強化された。
筆者は、ASEANの中で比較すると、中国に対する警戒心が強いのは、ベトナム、インドネシア、シンガポ-ルであると見ていたが、最近の比は、これら諸国を通り越し、最も強く中国を警戒するようになり、中国を牽制する上で米国のみならず日本とも協力するとの姿勢を明らかにするようになってきたと思われる。

2. 華僑系が多い経済界。中国の急速な経済成長の魅力。
 故コラソン・アキノ元大統領(アキノ現大統領の母)の実家であるコファンコ家を含め、比の富豪20家族をとれば、その大半が華僑系であるが、彼らは自らをフィリピン人と認識しており、中国政府や中国共産党に対し特別の親近感を有している訳ではない。日本の企業と深い関係を結んでいる華僑系富豪も居る。他方、近年の中国の急速な台頭に伴い、華僑系であることへの誇りを強めており、またビジネスの上でも、中国との関係を深めている。なおインドネシアの場合と異なり、華僑系でない国民から反感を持たれることはない。
 いずれにせよ、華僑系であるか否かを問わず、中国の経済面での急速な台頭は、海洋進出の問題を除くと、開発途上国である比にとっては憧憬の対象であり、また、中国との関係の強化を通じて経済上の利益を追求したいとの意識が強くなってきていると見られる。但し、中国からの「援助案件」については、問題が生じていることが大きく報じられることがある。アロヨ前大統領は種々の容疑で逮捕されているが、その中の一つが、中国の援助案件に関する収賄容疑である。

3.日本と比は戦略的パ-トナ-。
 第二次大戦によって、約二千万人であったフィリピン人のうち約百十万人が犠牲になったと言われており、戦後の対日感情は非常に悪かったが、現在では、BBCの国際世論調査によると、インドネシアと並び最も親日的な国となっている。種々の原因、背景があるが、日本政府が多大のODAを供与しインフラの整備等を行ってきたこと、日本企業の直接投資が大量の雇用を生み、製品を輸出するものにあっては多大の外貨を獲得して比の経済を支えてきたことが、対日感情の好転に大きく寄与したものと考えられる。
 2008年には日比経済連携協定(EPA)が発効し、直接投資のみならず、輸出、輸入についても日本は米国を抜き、第一位の相手国となった。

 更に日本は、比にとっての「アキレス腱」であるミンダナオ和平問題に対し、米国等に比しても圧倒的な貢献を行い、アキノ大統領から感謝されている。2011年8月に同大統領と反政府指導者が最初の直接会談を行う場所として成田近郊が選ばれたのも、それまでの日本の貢献が背景となっている。
 2009年6月のアロヨ大統領(当時)の訪日の際に、両国の関係を戦略的パ-トナ-シップとして育てていくことが合意されたところ、最近の海洋に関する問題もあって、かかる関係が益々強化されている。

4.アジアの中で最もアジア的でない国、英語を話す「ラテン・アジア」。
比は、スペインの植民地であった関係で、カトリックが9割近く、プロテスタントと合わせると9割を越すキリスト教国である。19世紀末からスペインに代わった米国の統治は、圧政的ではなく、英語教育をはじめとして恩恵的なものであったと認識されており、米国、米国的なるものに対する尊敬の念、親和度が高い。
日本人を含め、比以外のアジア諸国の国民は、自国への帰属意識を有するのは勿論、更に、アジアにも属していると意識していると思われるが、比人は、アジア、アジア的なるものに対する帰属意識が低い。筆者は、比人と親しくなると「あなたは、アジアに属していると思いますか」と質問していたところ、「自分は、比の国民である他には、キリスト教世界に属していると感じており、アジアに属すると意識したことはない」という趣旨の反応が返ってくることが多かった。筆者は、比は地理的にはアジアにあるが、宗教的・文化的にはラテンの世界に属するという意味で、比は「ラテン・アジア」であると感じてきた。

その関係からか、比人は性格が明るく、過去の恨みを深く持ち続けるよりも現在を楽しむといったところがあり、更に、米国による統治の経験から殆どの国民が英語に堪能であることもあって、比は日本企業が投資をする相手国として適していると考えられる。比に進出した日系の工場の責任者の殆どが、このような比人とのコミュニケ-ションの取り易さが進出を決める際の決定的要素となったと語っていた。

5.好調な経済状況
最近、比はベトナム、インドネシアとともに「VIP」と呼ばれ、好調な経済状況が注目されるようになった。現に2012年の実質GDP成長率は、関係国際機関や比政府自身の予想を上回り、前年比6.6%とASEAN主要国の中で最高の伸びを記録した(タイ:6.4%、インドネシア:6.2%、マレ-シア:5.6%、ベトナム:5.0%)。その背景として、需要面では、GDPの約7割を占める個人消費が、OFW(Overseas Filipino Workers。海外出稼ぎ労働者)からの送金に支えられて引続き堅調であったことの他、同年に入って輸出が回復し、また、政府支出も増加したことが挙げられる。供給面では、GDPの約6割を占めるサ-ビス産業が7.4%と高成長を維持したことが大きい。インフレ率については、本年3月の消費者物価指数が、前年同月比3.2%となり、中央銀行が設定するインフレ目標圏(3%から5%)の下限付近で推移している。

かかる状況を受けて、本年3月、Fitchは、比の外貨建て債務格付けをBB+からBBB-に引き上げた。比が、このような投資適格級の格付けを得るのは初めての由である。
 さて、筆者の記憶が正しければ、次席公使をしていた十数年前は、比の人口は約6400万人であり、そのうち約400万人がOFWとして海外に出ていた。十六分の一であり、大きな割合であると感じていた。ところが2007年に10年ぶりに比に赴任する際に調べてみると、その割合は更に高まり、OFWは、約9千万人の人口の一割を越し、OFWの海外からの送金額も、GDPの一割近くに相当するとのことであった。それが国の発展の姿として良いことであるか否かは別にして、上記のとおり、OFWからの送金が国内の個人消費を支え続けている次第である。
他方、最近は、上記のとおり高成長をとげるサ-ビス産業の中で、比国内でBPO(business process outsourcing)産業が発達し、インドも上回った由である。 英語が堪能で優秀な国民が、国外に出なくても国内で良い仕事に就ける機会が増えたという意味で、比にとって好ましい進展と考えられる。

6.政治家は「世襲」が多く、政策の相違は殆どなし。
特定の地元に独占的な政治的基盤を有する名家が多く、下院議員(大部分が小選挙区)、州知事、市長は3年の任期を3回務めると4選が禁止されるので、親族の間で「たらい回し」をしながら一族でこれらポストを独占し続ける例が多い。

これに対し、上院議員(24議席のみ)は全国区であり、全国的に人気のある俳優、テレビのコメンテ-タ等が上院議員、更には大統領となったりする例があるが、多くの上院議員も親族が政治家である。更に大統領についても、アキノ現大統領の父は、マルコス独裁政権下で暗殺されたニノイ・アキノ氏であり、母はコラソン・アキノ元大統領である。母が2009年夏に逝去してアキノ家に対する国民の思慕の情が爆発することがなければ、翌年の大統領選に立候補し当選することは、あり得なかった。アロヨ前大統領の父は、1960年代前半に大統領であった故マカパガル氏である。

2010年の大統領選では、アロヨ大統領の「腐敗」を最も明確に批判したアキノ候補が、上記のアキノ家に対する国民の思慕の情を基盤として勝利したところ、各候補の間で政策の相違は殆ど感じられなかった。本年5月には中間選挙があり、24名の上院議員の半数改選、二百数十名の下院議員全員の改選、すべての州知事、市長の改選等が行われるが、各候補者の所属政党は、政治状況によって変化する。これは、政党による政策の相違が殆どないからであり、選挙は、人気投票の要素が強い。これは、比政治において変わらない点と思われる。

7.不正等に関する改善。ミンダナオ和平。
 アキノ現大統領は、就任後3年近くなるのに高支持率を維持している。最大の世論調査会社の3月下旬の調査によれば、支持率は74%、不支持率は15%であった。その理由は、経済が好調であることもあるが、3年前の大統領選の際に強く訴えたとおり、アロヨ前大統領とその周辺が行ったとされる不正を訴追する努力を続けていること、入札手続きの見直し等を行ったこと、現大統領が、腐敗とは遠い存在であるとの信頼を国民から得続けていることにあると考えられる。さて、開発途上国の「腐敗」には、最高権力者周辺の腐敗の他に、税関、入管、警察など末端で権限を有する行政官の「日常的」腐敗があり得る。最高権力者周辺の腐敗は、政治的意思が強固であれば、権力者周辺の自制によって減少させていくことが可能であるが、末端の行政官の腐敗は、開発途上国の場合、公務員の給与が低く家計を支えていくことができない状況では、一朝一夕には改善しない。それでも、アキノ政権になってから、末端の腐敗が次第に改善されてきたという話を聞く。

治安の問題については、比の経済発展が他のASEAN諸国に比して遅れた原因の一つと言われてきたところ、その中で特別の問題は、ミンダナオ和平問題である。比全体では人口の5%しか占めないイスラム教徒が、ミンダナオ島では四分の一を占め、その中の一部の急進派が一定の地域において大幅な自治を要求して武器を捨てない状況が続いてきたところ、アキノ政権になって、日本の仲介努力もあり、和平に向かって交渉の進展が見られるようになったことが注目される。

8.おわりに
日本と比は、ともに米国の同盟国であり、自由、民主主義、人権尊重等の価値観を共有し、上記3.のとおり経済的にも緊密である上、比はASEAN諸国の中で地理的に日本に最も近く、日本に滞在する比人は、外国人登録者の中で、中国(台湾を含む)、韓国・朝鮮、ブラジルの国民に次いで、4番目に多いという関係も有する。
以前は、他のASEAN主要国との関係で比の停滞が目立ったが、上記5.のとおり、ようやく経済状況が好転してきた次第であり、日本からの投資が更に増大する等の動きが進むことにより、比の発展が加速化するとともに、昨今の地域情勢に伴い、戦略的パ-トナ-としての日比関係が更に深化することを期待している次第である。 (2013年4月29日に記)