外交官と桜
前駐米大使 藤崎 一郎
桜の季節が近づいてきた。 ポトマックの桜は有名だが、これに先輩の外交官たちが果たした役割を知っていますか。
私たちは、小学生の頃からポトマックの桜は尾崎東京市長が贈ったと教えられてきた。ところが米国で桜についての本や新聞記事を見て驚いた。東京市長の寄贈というのは表の話で実際にはアドレナリン、タカジアスターゼで有名な高峰譲吉博士が費用を負担したと1920年代頃から書かれている。昨年の植樹百年の機会に、いったい本当のところはどうだったのだろうかと調べてみた。本省北米一課の岩森事務官はじめ多くの人に世話になった。米国、外務省、東京都、東京市の資料を読み込んでいくうちに真相が浮かび上がり、また当時の日本の外交官たちが、ときにはお互いに競いながら裏で大きな貢献してきたことが分かった。これを外務省員に知っておいてもらいたく霞関会報に記すこととした。
桜寄贈のきっかけをつくったのは紀行作家シドモア女史だということは知られている。この人のお兄さんは明治から大正にかけてなんと40年間も日本で領事館に勤務した。女史はその関係で何度も日本に滞在している。 向島の桜を見て感激してワシントンの当局に20年にわたり日本の桜をポトマック河畔に植えるように働き掛けた。しかし風土の違うアジアから木を持ってくることについて当局者は消極的で、「サクランボをとりに子供が木に登って河に落ちたら危ない」と難癖をつけてまで反対した。女史が「これはサクランボがならない種類の木ですから」と答えると、「そんな役に立たないものを植えてどうするのか」と言ったらしい。洋の東西にかかわらず、いかにもこうした役人が言いそうなセリフを女史が回顧している。ところがタフトが大統領に就任すると状況は一変する。大統領夫人がワシントンの街の美化に乗り出しポトマック河畔に植樹したいとの希望を表明する。知り合いだったシドモア女史が桜の木を勧めると、訪日経験もあったタフト夫人は直ちに同意する。ちょうどそのころニューヨークからワシントンに旅行中の高峰博士と水野幸吉ニューヨーク総領事が一緒に旧知のシドモア女史を訪問した。
高峰博士はニューヨーク日本人社会のリーダー的存在だった。水野総領事は、日露戦争時、旅順攻撃の支援や在留邦人保護で貢献した快男児タイプだったといわれる。3人が会ったのは1909年4月8日のことである。シドモア女史が、タフト夫人は日本の桜の植樹に同意したと打ち明ける。
高峰博士は、かねがね移民排斥など米国内の反日感情の高まりを懸念しており、日米友好のシンボルとしてニューヨークのハドソン河畔に桜を植えることについて長年同市の当局者の説得を試みていた。そこで、ただちに1000本を贈りましょうと申し出たらしい。途中で2000本に増やしたとシドモア女史は書いている。
これに対し水野総領事は、せっかくの機会であり、個人からではなく日本の首都、東京市長の名で贈るべきであると主張し、高峰博士も同意したようである。
シドモア女史は2日後の4月10日には、タフト夫人に取り次ぎ、タフト夫人は喜んで東京市長からの贈り物を受けると述べた。20年間も進んでいなかった桜植樹の話が、大統領夫人の鶴の一声のおかげでとんとん拍子に進むことになった。米国内で調達できる桜の本数が限られていたし、予算面もあり、渡りに舟ということだったようだ。
水野総領事は高平小五郎駐米大使にもこの経緯を報告するとともに東京の小村寿太郎外務大臣に東京市長から寄贈することを6月2日に進言する。報告の中ではもし東京市長において寄贈の予算を工面できなければ、名義は市長とするがニューヨークの日本人社会で費用負担しようと高峰博士が呼びかけ、賛同を得ているとも記している。このいきさつから東京市長は、実は名義だけの関与だったとシドモア女史が思い込んだようで、高峰博士の死後、新聞にその旨寄稿している。その後ほとんどの米国の本、記事は桜の当事者であるシドモア女史の書いたことを検証することなく孫引きしてきた。ちなみにある米国の関係者が1930年代はじめに尾崎市長に対し桜寄贈についての高峰博士の関与について照会し、同市長がこれは東京市がやったもので博士は関与していないと答えた書簡も残っているが、シドモア説の権威が高かったためか、とりあげられなかったようである。
満開の桜の下で開かれた石灯籠の点灯式で、東日本大震災からの復興を誓う挨拶をする著者(2011.4.3)
次は高平小五郎駐米大使の出番である。高平大使は、水野総領事がシドモア女史から桜の話を聞いたのとほぼ同じ頃に、直接、タフト夫人に会った。大使は、大統領夫人が桜植樹に関心があれば種苗の日本からの寄贈について「周旋」に尽力しましょうかと持ちかけた。タフト夫人はまずは米国内で探してみましょうと答えたので、大使は押しつけになってもいけないと思い、引きさがったと記している。
高平大使は、水野総領事がシドモア女史からの話に基づき、外務大臣に東京市長からの寄贈を進言したと聞き、納得しない。管轄外のニューヨークの総領事がワシントンのことに口を出すことは不適当だし、一私人であるシドモア女史からの話だけで公の寄贈にかかわる話を本国につなぐのはおかしい、まず駐米大使である自分がノックス国務長官に確認すべきであるので東京にいましばらく動くのは待ってもらいたいと進言する。水野総領事はちゃんと大使には報告した筈だし、そもそも木の寄贈の話しぐらいで管轄を云々するのは大げさだと考える。この間の大使、総領事それぞれが大臣に行なった報告を見るとああ役人というものは変わらないなあとの感慨を憶える。 高平ノックス会談が行われ、同長官から、大統領夫人に確認の上、日本に寄贈をお願いするとの確認が7月12日に得られた。これにより、寄贈は正式に国と国のルートに乗ることになった。これには重要な意味がある。すなわち、植樹が行われた後、樹木の専門家集団を擁する米国立公園局が100年後の今に至るまで丁寧に維持管理することになったのである。ノックス長官の返事を待っていた高平大使は、さっそくいろいろ経緯はあったが今回は水野総領事の進言の通りで差し支えないという7月13日付けの意見を小村大臣に送る。
ワシントン恒例の桜祭りで、咲き誇る桜を愛でる人々、米国ワシントンDC(2010.3)
タフト夫人が高平大使の「周旋」の申し出にはあまり反応を示さず、シドモア女史からの取り次ぎには前向きだったのはなぜだろうか。高峰博士に端を発する1000本単位の寄贈という気前の良さが効いたのではないかと思われる。ちなみに水野氏は1914年、北京で参事官として勤務している時、突然、読書中に客死した。一方、高平氏は枢密顧問官などを歴任し1926年亡くなった。
ワシントンおよびニューヨークから進言を受けた外務省は石井菊次郎外務次官から、東京市に検討を依頼する。石井次官はのちに駐米大使、外務大臣を歴任するが、駐米大使時代にランシング国務長官と結んだ対中権益についての石井ランシング協定で有名である。尾崎行雄東京市長はポーツマス条約締結につきアメリカに世話になったという気持から何かしたいと考えていた。そこで東京市参事会に諮り、1909年8月25日の決議で予算支弁にこぎ着けた。細かい支出明細が残っている。しかし東京市は桜の輸送費までは持てなかったので外務省が日本郵船に働きかけ、同社の近藤廉平社長の裁量でシアトルまで無料で輸送した。近藤社長と外務省の萩原通商局長の間の書簡が残っている。陸路の費用は米側が負担した。シドモア女史は喜びのエッセイをセンチュリーという雑誌に寄稿した。
しかし、桜の寄贈は、失敗に終わる。ワシントン到着後、検疫で害虫が大量についているのが発見されたからである。 米側責任者のコスビー大佐はすべて焼却せざるを得ないと1910年1月26日に尾崎市長に書簡を発出した。米国は、日本が面子を失い反発するのではないかと危惧したようだ。しかし、米国から通知を受けた際、日本の関係者が、「貴国では大統領自ら桜を処分する伝統がありますからね」と幼少時のジョージ・ワシントンが桜を切ったことを父親に告白したという話を引いてユーモアを交えて応じ、米側が安堵したという話もある。いずれにせよ、急ぎすぎて自らきちんと検査しなかった日本側の落ち度であった。
ここからが大事である。国務省から在京米国大使館へ、日米の学者が研究し、こういうことがないような
しっかりした体制ができるまで、日本側が再度このような試みをしないように働きかけよ、またニューヨークに桜を持ち込もうとしている高峰博士にも事の顛末を知らせ、同じことが起こらないようにすべきであると指示する書簡のコピーが残っている。 アジアの国から新種の害虫がくることに米国内で心配、反発があることへの配慮があったのだろう。
ミッシェル・オバマ大統領夫人が出席して行われた桜寄贈100周年記念植樹式(2012.3.27)
ところが日本側は、ただちに再送に着手するのである。これを主張したのは、高平大使の後任の後任にあたる内田康哉大使であった。彼の名は外相時代に国を焦土にしても満州国権益を守るべきであると国会答弁した「焦土外交」とすぐ結び付けられるが、外相就任期間は7年余と最長記録を保持している。内田大使は、米側が焼却したのはもっともであり、もう一度試みるべきである、その際、害虫がないようにすべきであり、また米国内の運賃も米側でなく日本側が持つべきであると、早くも1910年1月31日に本省に進言している。
この大使の進言が効いて東京市は早速、特別に栽培した桜をつくることにしたと東京都の資料に書かれている。もし、1回であきらめていれば、日本は、ヘンな贈り物をしようとしてうまくいかなかったということだけが残ってしまっただろう。 第1回の寄贈に携わった造園業者は、当初は自らの責任を否定していたが、結局1000本の無償提供を申し出た。しかし、東京市は受け取らず、1910年4月21日、あらためて市参事会決議で運送費用を含め予算を措置した。桜の権威、船津静作翁、三好学東大教授などの指導を得て農商務省の農事試験場で特別に虫がつかないように丁寧に栽培が行われた。
ワシントン記念塔と桜、米国ワシントンDC
こうしてワシントンにあらためて3000本余の桜が届き、1912年3月27日、記念の植樹をおこなったのは、タフト大統領夫人と当時の珍田捨巳駐米大使の夫人いわである。そこでポトマックの桜に携わった外交官というと珍田大使の名がでてくるが、実は同大使は植樹の前月に着任したばかりだった。
もちろん、表舞台の役者は、あくまでタフト夫人、シドモア女史、高峰博士、尾崎市長である。タフト夫人とシドモア女史が知己であったこと、同女史と高峰博士の間に親交があったこと、高峰博士が周旋でなく寄贈を申し出たこと、東京市長が国際派の尾崎氏であったことなどが鍵となった。個々人の強い意思といくつかの偶然が重なって成功に結びついたのである。なかでも尾崎市長は贈り主として有名で、まだ占領下の1950年、米議会に招かれ桜寄贈について感謝の決議を受けた。自らもポトマックの桜にずっと強い思い入れを持ち、「ポトマックの 桜をながめ 月に酔い 雪をめでつつ 我が身終へなむ」とまで詠んでいる。同時に「議会の父」「憲政の神様」とよばれるほど国会議員として長く活躍してきた自分の名が、結局はポトマックの桜との関係だけで人の記憶に残ることになってしまうとすればさびしいと述懐したという話もある。
しかし、世上、あまり名前は出てこなくても、私ではなく公の寄贈とすべきであると主張した水野総領事、きちんと国と国のルートに乗せた高平大使、1回の失敗に懲りるべきではないと進言した内田大使の存在がなければ、私たちが今日見る美しいポトマックの桜はなかったろう。また公文書の中には松井慶四郎臨時代理大使(後の外務大臣)、埴原正直書記官、斎藤博外交官補(いずれも後の駐米大使)などの名もでてくるが、これらの人も現場の折衝でいろいろ腐心したのであろう。 毎年、満開の桜の下を歩きながら私は、往時の先輩外交官の先見の明、苦労に思いをいたし、敬意を新たにする。
もうひとつ外務省と桜の話で締めくくりたい。と外務省の桜並木が、東京の春の名所のひとつになって久しい。これは東独、ポルトガルなどの大使を務めた谷盛規氏が、昭和30年代末に官房の会計課長だった時、植えたものと聞いた。谷氏は、この仕事にたいへん打ち込んで、課長室に机も置かず、自ら千葉や埼玉の造園業者に足を運び、苗木を選んだということである。そういう仕事ぶりが必ずしも尊ばれない霞ヶ関の中では異色の存在だったらしい。私もこの話をはじめ聞いたとき、なぜ官房課長が桜の植樹にそこまでと感じた。しかし、思えば当時の多くのことがすでに歴史のかなたに霞んだ今日、桜は、毎年見事に咲き続けている。目に見えない遺産を残してくれた先輩は多い。しかし、このような楽しい心が弾む財産を残してくれた先輩にも感謝を捧げたい。
(霞関会会報4月号より転載 2013年2月21日寄稿)