山中 京都大学教授のノーベル賞受賞余話
駐スウェーデン大使 渡邉 芳樹
毎年9月ともなるとどこか何となく落ち着かない日が続く。それというのも翌10月上旬から始まるノーベル賞の発表に向けたノーベル委員会各分野の決定会合が9月下旬にかけて内々に行われているからである。
近年は日本人受賞者が多くなっているため日本国内での下馬評が盛んになり、iPS細胞を開発した山中伸哉京都大学教授はここ数年受賞の噂の絶えない注目の的であった。当地でもよく言われたことは、山中教授はまだ若くiPS細胞もその応用はこれからなのでノーベル賞受賞には早すぎるのではないかという見方であった。2010年には根岸・鈴木両教授がノーベル化学賞を受賞したが、そのときから様々な御縁があってノーベル医学生理学賞(正式には生理学又は医学賞)の審査に当たるカロリンスカ研究所を統括する理事長のハリエット・ヴァルベリ・ヘンリクソン女史との接触機会が多く、その中でノーベル賞から見ると際どい時期だが、毎年10月に京都で行われる某フォーラムへの出席を依頼していた。ただ2011年はどうしても叶わなかった。
それが、私が事故でカロリンスカ病院に入院し急遽中止となった経緯もある同女史を招いての夕食会が仕切り直しということでようやく2012年9月中旬に我が家で実現した。その席上、同氏の口から今年は京都のフォーラムに参加しようと思うと問わず語りの言葉が出たので、話題は自然に山中教授に及び、彼女が山中教授を高く評価していることが感じられた。それでも実際に受賞につながるのか、しかもその年に受賞することはあるのか正直疑心暗鬼であった。同じく毎年噂となるが実現していない村上春樹氏のノーベル文学賞の話もある。ただ彼女は2012年末には任期を終えると聞き及んでいたので、ひょっとするとと思いながら発表を心待ちにしていたところであった。
そのような中で10月8日にノーベル医学生理学賞が発表され、山中教授の受賞が決まったときには、正直言って我が事のような喜びが湧きあがって来たものである。
山中教授夫妻と一緒に
実は、受賞者が出た時には主催者ノーベル財団からの依頼に基づき大使主催の祝賀レセプションを市内ホテルで開催するのであるが、12月上旬のノーベルウィークには年末クリスマス行事で予約が殺到するため、ノーベル賞発表とほぼ同時に受賞者に相談するまでもなく大使館として会場の仮予約を入れている。山中教授の場合も同様であって、本人に意向を確認する前から祝賀レセプションの場所は確保されていたのである。ただ、この祝賀レセプションは受賞者にとって多くの参加者から切れ目なく挨拶され食事もできずに疲れ果てるおそれが強い鬼門でもあった。そこで大使館内の知恵を絞り山中教授の御意向も踏まえて窮余の策とでもいうべきレセプション進行上の工夫をして何とか無事にお疲れにならずに乗り切っていただいた。
ノーベル財団は毎回受賞者御夫妻のお世話をするためスウェーデン人のノーベル・アタッシェを配するのであるが、聞くところでは日本人受賞者に配されるアタッシェが一番大変なのだそうだ。理由は日本からのメディア各社の取材陣からの度重なる取材依頼の処理に苦労するということである。山中教授のように特にメディアが注目する受賞者の場合はなおさら気が張った毎日であったと聞き及んだ。ここで付言するが、山中教授の記者会見等のメディアとのやりとりは実に見事なものであった。一言一言、誠意を尽くして応対し、しかも随所に飾らないユーモアを混ぜた応答を聞くだけでも誰もがその人柄と研究への熱意に敬服してしまうであろう。にもかかわらず一部のメディアが山中教授にノーベル賞のメダルを口で噛んで見せるよう求めたという報に接したときには残念な思いをしたものである。
ノーベル賞行事はノーベル財団がその責任で執り行うものであって、受賞者の本国政府や出身機関などが祝賀するためのものではない。ストックホルムで祝賀行事を行いたいという出身機関などの希望はノーベル財団によって例外なく拒否される。本国に戻ってから自分たちの祝賀行事を行えばよいという論理である。国籍や出身にかかわらず最も相応しい人物に授与するというアルフレッド・ノーベルの遺言に沿った強い責任感の表れでもある。また、これまで日本人受賞者が出たときは、所管閣僚が用務を前提にノーベル賞授賞式典及び晩餐会に招かれるよう働きかけ結果的に招かれてきたが、山中教授の受賞については諸般の事情により担当閣僚が来瑞できずに終わった。しかし、振り返ると受賞者が出たからと言って所管閣僚が行事に出席するというのはどうも他の国の場合にはないことのようである。今回も中国からノーベル文学賞受賞者が出たが、中国の閣僚は参加していなかった。米国等の常連国でも担当閣僚を送って来ると言うことはない。今後の検討課題であろう。
(※本稿のうち意見にわたる部分は筆者の個人的見解である。)2013年3月12日寄稿