ダニエル・イノウエ米陸軍大尉とその仲間たち

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元在ホノルル総領事 天江喜七郎

(はじめに)
 人の記憶ほどあやふやなものはない。心理学によると、脳細胞に記憶された過去の事実を再び外部に表現する場合、自分に不都合な事実や不愉快な内容は無意識のうちにスクリーンされ内容が薄められて表出するらしい。他方、都合のよいことや自分の評価にかかわることについては、意識しないでも表現が過大になりがちである。この点に心して記述することにしたいが、いかんせん20年近い昔のことである。特に文中括弧の中の発言は、一字一句関係者が話したことの再現ではなく、その趣旨であることをお断りしたい。

(議会の子)
 ダニエル・イノウエ上院議員は、昨年12月17日、ワシントンDCのジョージワシントン大学病院で亡くなった。88歳だった。死去の前に「ハワイと国家のために力の限り誠実に勤めた。まあまあ(良く)できたと思う」と述べ、最期の言葉は「アロハ」だったと伝えられている。連邦上院議員(セナター)を1963年1月から2012年12月まで実に50年間、下院議員を含めると53年余勤められた。正に「米国議会の子」といってよい。最後の役職である上院仮議長は名誉職とはいえ大統領、副大統領に次ぐ第3位のポストであり、日系人として、また非白人系米国人として初めてのことである。
 周知の通り、イノウエ議員は第二次大戦中、日系二世で組織された米陸軍第442連隊に所属し、イタリア戦線でドイツ軍と戦い数々の武勲を立て、陸軍大尉で退役した。イタリア中部のカッシーノの戦いでは手榴弾で右腕を吹き飛ばされたにもかかわらず敵の陣地を沈黙させ、その勇気ある行動により米軍最高位の名誉勲章を受章している。葬儀に際し、オバマ大統領は「アメリカの真の英雄を失った」と述べて故人の死を悼んだ。この4月には茶道裏千家前家元でイノウエ議員と親交の深かった千玄室大宗匠が、故人への追悼の意を込めて日米友好・世界平和祈念の献茶式を上院でとり行う予定と聞いている。大宗匠はイノウエ大尉がヨーロッパ戦線で戦っていたころ、帝国海軍少尉として海軍航空隊特別攻撃隊に所属し米太平洋艦隊を迎え撃つべく日夜特攻の訓練に励んでいた。戦後まもなくハワイに渡り、そこから茶道を米国全土に広められた。イノウエ議員とは同年代であり、2人は半世紀以上もの長い交友関係にあった。

(出会い)
 1995年1月、筆者はホノルルに着任した。その年、第二次クリントン政権は第二次世界大戦終結50周年記念式典をヨーロッパと太平洋の双方で大々的に開催する計画でいた。ヨーロッパ戦線に関しては、同年5月に旧連合国とドイツの首脳がノルマンディーに集まり対独戦勝記念、いわゆるV Dayを祝賀する行事を行うことが決まっていた。また太平洋戦線に関しては、同年9月にホノルルで旧連合国と日本、それに戦後独立したアジア諸国の首脳を交えて対日戦争終結記念式典を開催する案が考慮されていた。
 ダニエル・イノウエ上院議員への着任挨拶を兼ねた面談は比較的早い時期に実現した。
筆者は事前に日系二世の「戦友」たちにイノウエ議員の人となりを聞いてその日に備えた。実際にお会いしたときの印象は、厳しさを備えながらも親しみやすい政治家という感じだった。イノウエ議員のオフィスはホノルルの旧市街にある連邦事務所ビルにあった。応接室に通され、そこで議員の到着を待つ間、壁に掛かっている多くの表彰状や感謝状を眺めていた。特に注目されたのは、全米ユダヤ人協会などユダヤ系諸団体から贈られた賞状が壁の一角を占めていたことだ。議員が到着したので着任の挨拶を行うとともに、太平洋戦争終結50周年記念式典について議員の意見を伺い当方の考えを述べた。議員は「ハワイでの準備委員長のロバート・キフネ提督を紹介するので、率直に話をしたらよい」とアドバイスしてくれた。キフネ提督は日系三世の退役海軍中将。お合いしてみると誠実で気さくな軍人さんだ。「海軍提督のご先祖のお名前は貴船ですかそれとも木船ですか」と伺ったところ明確な答えはなかったと記憶している。そのキフネ提督のご尽力もあって、記念式典から「リメンバー・パールハーバー」やV-J Day(対日戦勝記念日)のスローガンが消え、「太平洋での平和回復」を祝賀する米大統領と各国国防相の記念行事に落ち着いた。

(ユダヤ女性)
 イノウエ議員との会談の中で、「セナターはどうしてこんなに多くの賞状をユダヤ人から頂いたのですか?」と疑問をぶつけてみた。議員は「よくぞ聞いてくれた」とばかりに、にやりと微笑んで次のような話をしてくれた。  「イタリア戦線で腕をやられてフランスにある野戦病院に担ぎ込まれたときのことだった。気がついてみると手術で右腕の肘の関節から下がなくなっていた。それはショックだったね。ある日のこと、タバコが吸いたくなり一本取り出して口にくわえ、左手でマッチをすったのだが上手く火がつかない。それで近くにいた看護婦を呼んで、タバコに火をつけて欲しいと頼んだんだ。そうしたらこう言い返された。『あなたはこれから一生、腕一本で生きて行くのよ。だからタバコの火も自分でつけなさい。』あの一言は強烈だったね。後で分かったことだが、彼女はユダヤ人だった。ユダヤ人の境遇を知って彼女に同情してね、ハワイに復員後ユダヤ人支援団体を作ったよ。連邦議員になってからも全米の様々なユダヤ人団体をサポートしてきた。」

ヨーロッパにおけるユダヤ人に対する根深い偏見と人種差別、ナチ強制収容所とホロコースト。ヨーロッパ戦線で見聞したであろうユダヤ人の境遇と米国で差別待遇を受けている日系人の境遇とが、若き日のイノウエ青年には重なって見えたに違いない。そして思い出したように議員は言葉を継いだ。「あれは戦争が終わってニューヨークに着いたときのことだった。髪が伸びたのでどこかで散髪したかった。裏通りに一軒床屋を見つけ、ガラス窓から中を見ると客は1人しかいない。中に入って、『頭を刈ってほしいんだが』と言うと、白人の
床屋は私を見るなり『ユー、ジャップ、ゲラリヒアー』と怒鳴ったんだ。米国のために片腕を失ったのに。そのときは悔しさで一杯だった。白人の人種偏見は戦争が終わっても何も変わっちゃいないと思ったね。」

 「上院議員になって30年以上経った今でも、それを感じるときがある。この前、上院でスピーチをしたときのことだ。私が話し出すと、誰かが足で床を踏み鳴らすんだ。無視したがね。戦後半世紀たった今でも偏見はなくなっていない。」これを聞いて筆者は、イノウエ上院議員ほどの重鎮に対してさえも、議場で嫌がらせをする人種偏見の根強さに返す言葉を失った。 イノウエ大尉は1945年4月、カッシーノの戦闘で瀕死の重傷を負い野戦病院に運び込まれた後、後方のフランスにある米陸軍病院に搬送された。復員したのはそれから1年8ヶ月後の1947年末だから、手術を受けたのもユダヤ人看護婦と出会ったのも、その陸軍病院でのことと思われる。「あなたはこの先、一生片腕だけで生きて行かなければならないのよ。その覚悟を持ちなさい」という彼女の一言は、どんな慰めの言葉よりもイノウエ大尉の心を奮い立たせ、生きる勇気を与えたと思う。と同時に、病床の東洋人に対して分け隔てなく看病してくれたユダヤ女性に対して、イノウエ青年が特別な想いを抱いたのではないかと想像しては故人に失礼だろうか。

(戦友たち)
 筆者はハワイの日系人を通じて、米陸軍第100歩兵大隊や第442連隊の苦難の歴史を知った。1995年夏、第100大隊および第442連隊の退役軍人が家族と一緒にホノルルに集まり50周年の祝賀会を開いた。筆者も招待されたが、そこには多くの親しい顔があった。老兵たちは50年前の青年に戻ったように目を輝かせて声高に思い出話を語り合った。ビールで杯を重ねるうちに、老兵たちは次のような話をしてくれた。
「イタリア戦線である町を攻略したときのことだ。米軍の白人部隊が、町の入り口に陣地を築いて抵抗しているドイツ軍を攻撃したが、抵抗が激しくて全く前進できないでいた。そこで第442連隊の我々に出撃命令が出たのさ。我々は死に物狂いでドイツ軍陣地を攻撃した。
 連隊の合言葉は『ゴー・フォー・ブローク』、当たって砕けろ、だからね。味方は大分殺られたが、やっとのことでドイツ軍の防衛線を突破できた。それで市街地へ突入しようとすると、『442連隊、攻撃中止』の命令が来たんだ。道端で小休止していると、さっき後退した白人部隊が我々を追い抜いて市内に一番乗りさ。ドイツ軍は既に撤退しており、町の中央には市民が集まって連中は大歓迎を受けた。我々はその後でひっそり町に入ったよ。」

 「司令官が替わって各部隊による閲兵式が行われたときのことだ。第100大隊の参加人数があまりにも少ないので、司令官は『残りの連中はどこに隠れているんだ』と大声で詰問したんだ。大隊長は『他はみんな戦死しました』と答えたら司令官は驚いていたね。第100大隊と第442連隊の消耗率は米軍で最大だった。」「ダッハウのナチ強制収容所に一番乗りしたのは我々442連隊だ。ドイツ軍は既に撤退していて、日系部隊が収容所のゲートのカギを破壊して中に入ると、数えきれないほど多くのユダヤ人が骨と皮ばかりになって収容されていた。こちらもびっくりしたが、あちらも日本人の顔をした米兵を見て驚いた。日本軍の兵隊が来たと勘違いした人もいたっていうよ。あれから50年経った今でも、ダッハウの収容所にいたユダヤ人の家族がハワイを訪れて日系人と交歓パーティーを開いている。」

 戦後しばらくの間、ダッハウ強制収容所を解放したのは米第7軍42歩兵師団と公表されていたが、1992年になって初めて、第442連隊所属の第552野戦砲兵大隊がダッハウ収容所群の一つを最初に解放したことが正式に確認された。ほかの老兵が話を続けた。「第442連隊は我々ハワイと米本土の日系二世の混成部隊だが、お互い仲は良くなかったね。ハワイの二世は喧嘩早いのが多くてね、殴り合いになると決まってハワイ側が勝ったよ。我々は米本土の二世の連中を『コトング』と呼んでいた。頭を殴ると『コトン』と音がしたからだ。『コトング』はハワイの二世に比べると態度が卑屈でいつもおどおどしていたから、いじめるにはもってこいだった。でも後で気が付いたんだが、米本土の日系人はみんな収容所に入れられたんだな。我々ハワイの日系人はパールハーバーの負い目はあったが、収容所に隔離されることはなかった。『コトング』たちには悪いことをしたと後で思ったよ・・・。」  
 当時のハワイと米本土の日系人はその精神構造を大きく異にしていたようだ。その第一の理由は、ハワイ日系人が有している「我々はカンヤク移民の子孫」という誇りと自尊心である。1881年(明治14年)、当時独立国だったハワイ王国のカラカウア王は世界一周旅行の
途次日本に立ち寄り、明治天皇に対して天皇家とハワイ王家との姻戚関係を結ぶことの打診と、サトウキビ農場の労働力不足を解消するため日本人をハワイに大量に移住させる提案を行った。 時の明治政府は検討の結果、前者に関して否定的な回答を行ったが後者については肯定的に対処し、日本政府とハワイ政府との間に移民に関する協定が締結された。この「官約」に基づいて1885年から10年間で約3万人の「選ばれた」日本人がハワイに移住した。 1894年からは民間契約に切り替わったが、戦前のハワイの日系人数は20万人まで増加した。「カンヤク移民」とは「天皇陛下の命によるハワイ移民」であり、米本土に渡った日本人とは違うとの優越感をハワイの日系人に植え付けた。

 第2の理由は、強制収容所での生活経験である。真珠湾攻撃直後日系人に対する監視が厳しくなり、米本土では1942年2月、西海岸に住む日系人を強制収容する大統領行政命令が発せられた。悪名高きリロケーション・キャンプである。しかしこれはハワイの日系人には適用されなかった。米海軍はパールバーバーの奇襲攻撃で多大の犠牲を蒙ったこととハワイの安全保障上日系人全てを強制収容所に移送すべしと強く主張した。これに対し米陸軍はハワイ日系人の労働力が対日戦争を遂行する上で兵站確保に不可欠であると主張し、海軍の反対を押し切ってしまった。実際問題として、米西海岸沿いの12万人に上る日系人を収容するため全米各地に収容所を短時間で建設するだけでもかなり困難な作業であったが、その上にハワイ在住の日系人20万人を遠く離れた米本土に移送し収容することは、開戦直後の非常事態という状況下にあって不可能だったといわれている。

(補償への道)
 この大統領行政命令に関しては後日談がある。公民権運動の高まりの中で、対日戦争中とはいえ国家安全保障上米本土の日系人全てを強制的に収容する必要性があったかどうか疑問が提起された。1980年に至ってカーター大統領は本件の詳細な実態調査を命じた。そしてついに1988年、レーガン大統領は「日系米国人補償法」に署名して日系人の強制収容に対して正式に謝罪し、1人当たり2万ドルの補償に踏み切った。レーガン大統領が法案に署名したのは、第442連隊での日系人の英雄的行動に感動したからといわれる。署名に際して大統領は、「日系米国人は戦争中ファシズムと人種差別という2つの敵と戦い、その両方に勝利した」と述べて日系人の苦労に報いた。日系人補償法に至る一連の動きの背後には、収容所生活を余儀なくされた本土の日系人とともにハワイ出身の第442連隊将校スパーク・マツナガ上院議員とダニエル・イノウエ上院議員の活躍があった。先に述べたように人種差別が根強い白人社会において、慎重な上にも慎重に行動しタイミングを測りつつ、ついに日系人の尊厳を回復した忍耐力にはただただ低頭するのみである。

 先に、ハワイの日系人は強制収容を免れたと書いたが、実は約1800名が本土の強制収容所に送られた。収容された本土の日系人の数に比べれば微々たるものではあるものの、その事実は筆者の心にわだかまりとして残った。ホノルル本願寺の住職の話では、強制収容された日系人のほとんどが仏教や神道などの宗教関係者であり、特にお寺の住職は大日本帝国総領事館と檀家とをつなぐ連絡役を担っていたため、FBIに敵性分子として捕縛されたとのことであった。その後筆者は、週末などを利用して各地の寺院を訪問し強制収容にあった方々にお詫びを申上げたところ、「長い間こころの奥につかえていたものが取れました」と涙を流された老住職もおられた。

(太平洋戦線)
 二世部隊が活躍したのはヨーロッパ戦線だけでない。1980年まで秘密のベールに包まれていた米陸軍情報部(Military Intelligence Service, MIS)の語学要員部隊は、太平洋戦争で捕虜になった日本人兵の尋問や文書の解読、更には沖縄戦での投降呼びかけなど広い分野の活動に従事した。筆者がハワイで親しくしたMIS元隊員の二世たちは戦争中の話になると途端に口数が少なくなる。話好きな第442部隊の元隊員たちとは対照的だった。それは当然のことで、第442部隊には、多大な犠牲を払いながらドイツ軍に勝利し、また米国内の人種偏見を跳ね返したという誇りと達成感があった。米陸軍史上最高の栄誉を与えられ、メディアにも大きく報道された。他方、戦争中のMISの活動はすべて隠密であり、戦後も長らく秘匿され歴史の表面に現れてこなかった。日系隊員は米軍の各部隊に1人、2人とばらばらに配属され、部隊では白い目で見られた。沖縄戦で日本兵に投降を呼びかける役を引き受けた沖縄出身の二世は、前方から撃たれるだけでなく後方からも撃たれる危険性があった。ある元隊員は筆者にこう語った。 「捕虜になった日本軍将校の尋問にはてこずりました。私はMIS部隊の通訳ですが、日本語が流暢なので日本の脱走兵と間違われて罵倒されたこともありました。裏切り者とは口もきかん、との態度ですからね。でも、日本兵の捕虜は黙秘をやめた途端、ドーッと何でも話すのです。米軍では捕虜になった際の行動規範があります。名前と階級、所属部隊は答えてもよいがそれ以外はダメとかね。日本軍は捕虜の辱めを受けるくらいならば潔く自決せよと教えたが、万一捕虜になった場合、どのように行動すべきかを教えなかった。だから何でもしゃべったと思います。」

「MIS隊員になったのは、家庭の中で父母から日本語の教育をしっかり受けたインテリが多かったですね。戦後、本土で高等教育を受け、努力して大学教授や裁判官になった人も少なくありません。」当時から日系人は子弟の教育に熱心だった。筆者は息子を現地のイオラニ・スクールに通わせたが、校長はじめ日系人の教師が多いことに強い印象を受けた。
 文化勲章受章者で、昨年日本国籍を取得した日本文学研究家のドナルド・キーン先生も戦争中は海軍情報部に所属したひとりだ。先生は講演の中で、日本軍の遺棄文書を翻訳する作業に携わったと述べている。 「米軍は日本軍の基地を攻撃し占領すると、そこに残された大量の日本語の文書を送ってくるのですが、毎日毎日無味乾燥な内容の文書ばかり読ませられてうんざりしていました。しかし、その中に日本兵が書き残した日記があり、それを読む機会がありました。国にいる家族を思い出しながら戦地で書いたのでしょう。読んでいるうちに涙が止まりませんでした。」

 ドナルド・キーン先生には数多くの優れた著作があるが、「百代の過客―日記に見る日本人」もその1つである。日記文学への先生の傾倒は、あの見知らぬ日本兵の日記がその動機かもしれない。 日系米兵の物語に関心のある方には、ハワイ在住の荒了寛和尚が丹念に聞き取り調査を行った末の労作「ハワイ日系米兵―私たちは何と戦ったのか」をお勧めしたい。第442連隊もMIS部隊も、そこに所属した日系米兵はいずれも米国市民でありながら偏見と差別の中で生きてきた。戦争を通じ、米国に忠誠を誓い自己犠牲の精神で国に奉仕することによって偏見と差別を払拭することに成功したのであった。

(日米関係への思い)
 再び、イノウエ議員の思い出に話を戻そう。1995年当時、ホノルルではイノウエ議員よりも先輩格であり1990年に他界したスパーク・マツナガ上院議員の名声が高かった。マツナガ議員は豪放磊落な性格で日本人に対する面倒見がよかった。これに比べてイノウエ議員はワシントンDCで過ごすことが多く日本に行くことも稀だった。しかし戦後50年を経たころから、イノウエ議員は次第に日本に対する関心を強めるようになったように思う。議員が筆者に述べた日米関係の重要性に関する発言は明快そのものであった。
「英国は欧州における米国の最も信頼すべき同盟国だ。日本には英国のような役割を期待したい。米国と英国は同じ民族で同じ言語を話すから友好関係にあるのは当然と思うかもしれない。しかし米英関係の歴史を紐解けば、常に良好な関係にあったわけではない。独立戦争で米国はフランスと組んで英国と激しく戦った。また米英の外交政策では異なる分野もある。しかし両国のあらゆるレベルでの意思疎通によって米英関係は今日ゆるぎないものになっている。
 日米関係についても同じことが言える。両国は熾烈な戦争を戦ったが、戦後は同盟条約を結んで信頼を培ってきた。英国が米欧の橋渡し役を果たしているのと同様、日本もアジアと米国の橋渡し役を担うことができる。日米関係が堅固である限りアジアは平和であり続ける。」

(ラスト・サムライ)
 何度目かにお会いしたとき、イノウエ議員は珍しく井上家について語った。「ボクの祖先は黒田藩のサムライだ。黒田武士(クロダブシ)なんだよ」と誇らしげに話していた。いまダニエル・ケン・イノウエの一生を振り返るとき、わが身を犠牲にしてアメリカに対し揺るぎない忠誠を尽くす一方で、日系人としての自尊心を胸に秘めながら米国日系市民の地位向上と名誉回復をなし遂げた勇気と意志の強さには改めて尊敬の念を禁じえない。日米両国はその類まれな功績のゆえにイノウエ議員に最高の勲章を授与した。ダニエル・イノウエ議員の人生はまさに武士(もののふ)の生き様そのものであり、われわれ日本人にひとつのお手本を示してくれたと思う。セナター・イノウエのご冥福を衷心よりお祈りしたい。
(2013年4月1日寄稿)