温暖化を食い止める世界制度とは何か?

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元地球環境問題担当大使  西村 六善

2006年、温暖化問題をめぐる国際交渉で格闘していたある日、突然知らない或る方の訪問を受けた。現在日本機械工業連合会の副会長をしている安本皓信氏だった。同氏は藪から棒に「温暖化の防止には所有権の設定と市場ですよ」と云った。その時は何を論じているのか分からなかったが、これが我々の全球炭素市場提案の始まりだった。経産省OBの同氏の議論は「環境に財産権がついていれば環境の悪化は防止できる」と云うものであった。環境財に所有権を付し、それを市場で売却し、対価を払わなければ環境財を消費できないようにすると価格がコストになって自ずと環境破壊は減少するという訳だ。

当時(そして今も)、この交渉が各国の利害対立で全く進捗しない現実を見て、京都議定書的な作業に内心大きな疑問を感じていた時だったので「これだ」と思った。時恰も、将来世代の為に世界の平均気温の上昇を産業革命以前より2℃以内に抑えようと云う議論が出始めた時であった。何とかしてそれを確実に実現する世界制度を作ろうと二人で研究が始まった。

2℃以内に収めようとすると全球で排出できるCO2の分量(炭素予算と呼ばれる)は科学的に決まる。炭素予算に政府間会議が所有権を設定し、それを排出権として世界中の排出企業に売り出す。 企業は化石燃料を燃焼する時には排出権を購入しなければならない制度にすると2℃は実現する。単純なハナシだ。CO2排出に市場価格がつくのでCO2を出さない技術への投資も合理的に惹起される。更に所有権を持っている政府間会議には新規収入が大量に入ってくるので市場弱者である途上国支援も可能になる。要するに2℃を達成し、同時に貧困国も助ける。世界が一体となって低炭素持続成長を実現できる…

我々はこの考えをあらゆる所に持ち回っている。ハーバード、ケンブリッジ、豪州国立大学等の教授陣と議論し、論文欄に掲載して貰い、ブロンバーグ、ロイター、FTなどに投書し、交渉官、学者、研究者、オピニオン・リーダー、政治家、メディア、NGOなどに呼びかけてきた。途上国の専門家とも論争している。大多数は正しい提案だと評価してくれるが、「今日、これだけの対立がある中でどうやって実現するのか」と疑問も呈されている…

…勿論、問題はそこだ。長年国際交渉を観察してきた日本の学者の一人はこれこそ最良の提案だと云ってくれる。しかし、事は簡単でない。92年の気候変動枠組条約以来、この問題は政府が責任を持って削減するものだと云う観念が根深く浸透している。実はこれが問題の根源だ。国の責任でなく市場で裁く等と云う提案が簡単に受け入れられる素地は今のところ無い。

元々国の責任制度は必然性があって生まれた。抑々、この問題が議論され始めた途端に途上国の先進国糾弾が始まった。「…これは先進国の歴史的で勝手気ままな工業化と生活水準の向上に起因する問題だ…途上国は被害者だ」と。 こうして気候変動問題は南北対立の最も先鋭的な戦場と化した。温暖化問題を解決するのは先進国政府の責任だ…これが政府責任論の始まりだった。そして京都では大議論の結果、この政府責任制度の下で1990年の水準より先進国全体で5%削減すると云うことになった。 

しかし、その後どうなったか? その後時は流れ、事態は一層深刻化し、今や5%どころの小さな話ではなくなった。 膨大なCO2量を何とかしなければならないと云う問題になった。 このまま古い仕組みで行くのか? 当時の制度設計者の意図は真実高邁であったが、政府責任と云う仕組みの問題点も明らかになった。周知のとおり政府と云う代物は困難な負担を引き受けない。どの国もそうだから大抵縮小均衡に向かう。しかもその過程で大喧嘩が起きる。「お前はもっとやれ…」と。当初の理念は兎も角、実際には国家対立と縮小均衡を生んできた。更に国家対立を避けようとして複雑な妥協が生まれ、仕掛けは矢鱈と複雑で重厚で非生産的になった。こんな状態で2℃等はとても実現出来ないだろう。

昨年末のドーハのCOP18では2015年まで新条約を交渉することになった。2020年以降の新しいレジームをどうするかと云う問題だ。問題の深刻さからすると、どう考えても1960年代に由来する南北対立を超克するべきだ。本来なら「最貧国救済の世界連帯」と云う新しい価値観で裁くべき問題だ。いつまでも先進国の過去を論難し、21世紀に至っても「19世紀以降の責任を取れ」等云う糾弾的で否定的な観念で行けば世界は共倒れになる。温度目標も達成できない。寧ろ発想を変えて市場で裁いた方が途上国自身にとって有利だ。

それに、政府が何時までも舞台の中央にいて企業のCO2削減を差配し、国庫から補助金を出し、規制立法をして行くのも非常におかしい。今日の世界では大抵のことは市場に任されている。政府は制度を作るが、あとは市場に任せて退場している。監視役に回っている。この21世紀の現代にCO2についてだけ政府による不経済な管理経済を続けるのか?これも政府責任制に起因する問題だ。

もっと根源的な問題がある。CO2を吐き出して温暖化を惹起しているのは企業とその製品を使って便益を得ている消費者だ。いずれも地球を汚して利益や効用を受益している。この彼らが痛みを覚えるようなコストを何ら払わないでいる。一方、政府責任制度の下で政府がコストを負担している。全く不合理だ。受益者がコストを負担するようになって初めて受益者は行動パターンを高炭素集約型から低炭素型へと転換する。世界中の経済学者が一致してこれが最強の低炭素化への政策だと論じている。

あれやこれやで、敢えて極端に簡略化すると地球環境の将来は政府責任制度を止揚できるかどうかにかかっている。それにしてもこの世界最大の環境問題を振り返って感ずることは方向転換の難しさだ。南北対立をその当時乗り越えられなかったのは仕方ない。誰がやってもあの怒涛のイデオロギーを押しとどめることは出来なかったであろう。しかし、今日、時代は変わった。たったの5%の話ではない。次元が丸っきり違うのだ。全く革新的なことをやらねばとても地球の良好な環境を守ることは出来ない…

そう云う議論をすると「温暖化が人為によると云う話は嘘だ」と云う反論が来る。本当でないから何もしなくても良いと云う議論なら世界を説得しきれないだろう。本当だが、やれることだけをやればよいと云うならこれまた世界を説得しきれないだろう。何故なら、努力はしたが、遂に5℃になってしまった…「100年後、200年後の人類よ、許してくれ」とは言えないだろう。仮に万一、本当でないにしても化石燃料からの脱却は人類社会の新しい文明を開くと云う決定的な価値がある。

方向転換をしないで、このまま政府の責任にして行けば結局、温暖化阻止の戦いに負けるだろう。世界中の政府が突然寛大になって率先して大幅に削減する等と云うことは起きないだろう。政府間会議は全球で排出限度を決め、受益者の責任に帰せしめる市場を作る。そして舞台から退場する。これが最も費用効果的にこの問題を解決し新文明を作る殆ど唯一の戦略だ。最低でも従来型ではダメだと云う点でコンセンサスが出来ればと思い、二人三脚で説得は続く。

(了)(2月28日寄稿)