アウンサンスーチーさん, 待ちぼうけ

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前国連事務次長 赤阪 清隆

ミャンマーのアウンサンスーチーさんの来日が、今年こそは実現するのではないかとの期待が高まっている。実現すれば、1986年以来27年ぶりの訪日となる。その間の彼女の苦労を思えば、誰しもが大歓迎したいと思うだろう。

 軍事政権による暴政と数々の弾圧を乗り越えて、ミャンマーの民主化運動の先頭に立ってきた彼女は、現代の比類なき世界の英雄である。ようやく訪れた「ミャンマーの春」に、これまでの努力をねぎらおうと、彼女に一目会わんとする世界のリーダーはひきも切らない。バン国連事務総長、キャメロン英首相、クリントン米国務長官、オバマ米大統領など、次々と首都ヤンゴンの彼女の自宅を訪問するニュースが世界中を飛び交っている。

 この稀代の指導者アウンサンスーチーさんに、こともあろうに待ちぼうけを食わせた日本の御仁がいた。中嶋宏WHO(世界保健機関)事務局長がその人である。いや、その責任は、彼ではなく、彼の補佐官だった私が負わねばならない。話は、1996年春にさかのぼる。

1990年の総選挙で彼女が率いる国民民主連盟(NLD)が大勝したにもかかわらず、軍事政権側は、権力の移譲を拒否し軍政を敷き続けた。この軍事政権に真っ向から立ち向かった彼女は自宅軟禁され、1991年に受賞のノーベル平和賞授賞式にも出席できなかったが、1995年7月にいったん自宅軟禁から開放された。

当時、ジュネーブに本部を置くWHOでは、ポリオを2000年までに撲滅しようと世界中でキャンペーンを展開していた。その一環としてミャンマー軍事政権も、WHOやユニセフなどの協力を得て、1996年2月にミャンマー全土でポリオ・ワクチンの一斉投与キャンペーンを挙行することを決定し、WHOの中嶋事務局長にこれに合わせて同国を公式訪問するよう招待状を送った。同事務局長はこれを唯々諾々として承諾したが、WHO幹部の間では、世界の非難を浴びている軍事政権の下へはせ参じることに懸念を表明する声もあった。

案の上、ミャンマーに向けてジュネーブを出発する日の数日前になって、ニューヨーク国連本部のブトロス・ガリ事務総長から中嶋事務局長に対して、ミャンマーを訪問するからには、軍事政権の指導者だけでなく、アウンサンスーチー女史にも会うべしとの指示が来た。圧制を続ける軍事政権に対して、国連としては、民主化と人権擁護の旗振り役としての立場から、彼女への敬意を示すことによって国連としての立ち位置をミャンマー内外に示すとの趣旨からであった。また、アウンサンスーチーさんは当時しばしの行動の自由を許されていたから、国連本部は、物理的にも彼女に会えないことは無いはずだと判断した模様であった。

しかし、中嶋事務局長は、このニューヨークからの指示にいたく困惑し、不満を隠さなかった。ミャンマーの軍事政権の招待で同国を公式に訪問する以上、反政府運動の代表に会ってその政権首脳を怒らせることはしたくないという気持ちが強く働いた。当時の状況からして、アウンサンスーチーさんに会わせてくれと軍事政権側に頼んでも断られることは火を見るよりも明らかであった。断られるだけでなく、今回の公式訪問を台無しにし、同政権とWHOとの協力関係を決定的に悪くする危険すらあった。その結果、ポリオ撲滅キャンペーンにも支障が出るかもしれなかった。

しかし、民主化運動の指導者たるアウンサンチーさんと会えというのは、国連事務総長からの指示である。これを無視した暁には、そのあとWHOが国連本部からどのような処分を受けるか心配である。軍事政権に媚を売ったと国連グループ内で冷たい目で見られるかもしれない。また、中嶋事務局長に批判的な欧米のメデイアに知れたら、どんな非難記事を浴びせられるか分かったものではない。

このような懸念が必ずしも過大すぎるものでなかったことは、それから10年以上たった2009年のバン国連事務総長のミャンマー訪問の結果を見れば、よく理解できるだろう。十分な準備もなくミャンマーを訪問したバン事務総長は、時の軍事政権の指導者タン・シュエとの会談で、当時再び軟禁状態にあり、突然自宅に飛び込んだアメリカ人と接触したかどで裁判にかけられることを目前にしていたアウンサンスーチーさんと会わせてくれと、拝まんばかりに懇願した。しかし、裁判が近いということもあってかその願いは拒否され、結局彼女に会えないままニューヨークに戻ったバン事務総長は、文字通り世界中のマスコミから袋叩きにあった。国連にとってアウンサンスーチーさんは、軍事政権に勇敢に立ち向かう民主化運動のリーダーであり、その人物に会うこともできない国連事務総長は腰抜けと批判されたのである。

話を1996年に戻そう。中嶋事務局長は、このようにアウンサンスーチーさんとの会見を巡って、ミャンマーの軍事政権とニューヨークの国連本部との間に、あちらを立てればこちらが立たず、こちらを立てればあちらが立たず、という進退窮まる難しい立場に置かれてしまった。
しかし、中嶋事務局長の図太いところは、WHOの目的は世界のすべての人の健康の確保なのだから、その目的のためには、相手が軍事政権であれ、独裁政権であれ、必要な相手と手を握ることになんら躊躇しないことであった。1995年ザイールのキクウイット村を襲ったエボラ熱の制圧の際には、首都キンシャサから直線距離で計って1200キロも先にいた独裁者モブツ大統領に小型飛行機をチャーターして会いにゆき、延々22時間も待たされたあとで大統領との会見にこぎつけた。

それでも今回の場合、ミャンマー軍事政権の意向を斟酌することは、国連本部からの指示に従わないことを意味した。WHOの国連専門機関としての立場とその将来を考えれば、これは相当危険な行動であった。それでなくとも日頃中嶋WHOに批判的な欧米諸国のメデイアの出方を考えると、むしろ一時的に軍事政権を敵に回してもアウンサンスーチーさんと会ったほうがメリットが大きいと考えることもできた。

私は、当時外務省からWHOに出向して政務担当の顧問をしていた。欧米諸国からの厳しい批判にさらされていた中嶋事務局長のお守り役であった。アウンサンスーチーさんに会うのかどうかについて結論を出さないまま、中嶋事務局長はミャンマーに向けてジュネーブを発った。それに同行した私は、機中、高校の教師だった父親の教頭時代の話を思い出していた。

私の父は、教頭を務める大阪の高校の卒業式に日の丸を立てる、立てないの論争で学校側と一部教師側との間で激しい対立が続く中、卒業式の当日、日の丸の旗竿を両手でささげ持ちつつ、高校の玄関先の溝をまたいで仁王立ちを続けた。日の丸反対派がやってきて、「教頭、日の丸を持って何をしているか」と問えば、旗竿を支える片足は学校の外にあるので問題はないはずだと答え、他方日の丸支持派が問えば、もう一方の片足は学校内にあるのでこれも問題はないはずだと答えて、両者を納得させたという。私は、「そんなふうに、ミャンマー軍事政権とニューヨーク国連本部の双方をうまく納得させることができる妙案は果たしてあるだろうか?」と自問し続けたが、いい案は浮かばなかった。

2月8日、ヤンゴンのホテルに着いた夜、ミャンマーで国連を代表する国連開発計画(UNDP)の常駐調整官も交えて、事務局長の部屋で対応を協議した。私は、国連本部からの指示だということを正直に明らかにして、軍事政権側に協力を求めてはどうかと提案したが、中嶋事務局長は、「そんなことはできない。そんなことをしたら、そんな目的のために来たのかと政権側を怒らせて、今回の訪問を中止して帰ってくれといわれるかもしれない」と、頑として同意しない。

話しは堂々巡りで結論が出ないまま、深夜になった。UNDPの常駐調整官は既に立ち去って、私と事務局長のさしの話し合いとなったが、ふたりともワインで酔いがまわってきたせいか、だんだんと険悪な雰囲気になってきた。私も、民主主義を踏みにじる軍事政権の横暴は断じて認めないという国連やWHOの面目と矜持、ひいては中嶋事務局長を生んだ日本の面目と矜持にもかかわる一大事だと思ったから、アウンサンスーチーさんとの会見をたやすくあきらめるわけにはいかない。

「今回彼女に会わなければ、事務局長は国連だけでなく、世界中から非難の矢面に立ちますよ」と、脅迫じみた言葉も発してみたが、それでも事務局長は応じない。「あなたはどうして私をそんなに苦しめるのですか」と、事務局長の声は、嘆願調になってきた。
「分かりました。それでは、事務局長は何も知らないことにして、すべてを私に任せてください」。最後にこう言ってその晩は別れたが、私には一計を案じる腹づもりがあった。
ミャンマー軍事政権が作った公式日程に従えば、翌9日は、ヤンゴンでのポリオ撲滅のためのキャンペーン式典に参加。10日は、ヤンゴンから北に約700キロ離れた古都マンダレーに飛行機で移動。そして、11日は、ミャンマーが世界に誇る大仏教遺跡のあるパガンを訪問。12日朝にパガンを発って国内便でヤンゴン空港に午前9時50分に戻る。同空港まで戻れば、それでミャンマー訪問の公式日程はすべて終わりだが、それから12時30分発のシンガポールへ向かう国際線ミャンマー航空(UB)231便に乗り換えるまでに、2時間40分の待ち時間がある。その時間を使えば、公式日程の枠外で事務局長とアウンサンスーチーさんとの会談を実現できるのではないか。

そう考えた私は、早速行動に移すことにした。しかし、これはミャンマー軍事政権側に知られないよう極秘裏に進めなければならない。政権側にさとられれば、計画は絶対つぶされる。盗聴されているだろうからホテルの部屋の電話は使えない。「そうだ、公衆電話を使えばいい」-こう考えた私は、マンダレーのホテルに着いてから、周りに誰もいないことを確かめつつ、ホテルの廊下にあった公衆電話を使ってUNDPの常駐調整官と連絡を取り、12日の朝10時30分にアウンサンスーチーさんにヤンゴンのWHO事務所に来てもらって、中嶋事務局長を待ってもらう手はずを整えた。

それから後はできるだけ知らん振りをして、その日を待つだけであった。次から次と寺院や遺跡を訪問する日程が組まれていた。サマーセット・モームも訪れたマンダレーの広大な景色もすばらしかったが、パガンでは、整然と並ぶ何千ものソツーパ(仏塔)が作り出す荘厳な美に心底圧倒される思いであった。ひと時、アウンサンスーチーさんのことは忘れた。
そして、いよいよ12日朝が来た。中嶋事務局長一行は、パガンの空港のVIP待合室に午前7時すぎに到着し、午前7時55分に飛び立つ予定の国内便を待った。午前9時50分にヤンゴン到着予定だから、約2時間の飛行である。ミャンマー側は、多くの関係者や軍人、政府関係者がVIP待合室に集まった。にこやかに、我々一行全員には羽織のような赤い色の着物がお土産として配られた。軽口が飛び交う。そこにいる人たちの間で、ヤンゴンに着いたらWHOの事務所で中嶋事務局長がアウンサンスーチーさんと密かに会う手はずになっていることを知るものは、同事務局長と私しかいない。

「さあ、これからが勝負だ」と私は意気込んだが、どういうわけか7時30分を過ぎても飛行機の姿が待合室の前に広がる空港敷地に現れない。広々とした空港は果てしなく空っぽのままである。そして、出発予定の時間が来たが、我々の飛行機はまだ来ない。「遅れるのかな」と思って私は待合室から外に出て空を仰いだが、飛行機の姿はどこにも見当たらない。「遅れるのですか」と近くの軍人に聞いてみたが、返事がない。少々焦る気持ちを抑えつつ、待合室に戻って飛行機が来るのを待った。

ようやく飛行機が来てパガンを飛び立ったとき、時間は午前9時近くになっていた。機内では、私は窓側に座った。ヤンゴンの街を一刻も早く白い雲の波の間から見たかった。いつヤンゴンに着けるかと心配で自分の腕時計をにらみ続けながら、「10時30分に着けば間に合う、いや、11時に着いてもまだ何とかなるだろう」と、自分に言い聞かせ続けた。

そのころ、首都ヤンゴンでは、午前10時30分きっかりに、WHO事務所にアウンサンスーチーさんが到着し、中嶋事務局長一行の現れるのをWHO関係者と一緒に待っていた。
我々の飛行機は、予定の到着時間よりも約1時間10分遅れて、午前11時にやっとヤンゴン空港に着いた。シンガポールへ向かう便まで残る待ち時間は1時間半となったが、空港からWHO事務所までは、車で急げば2, 30分である。 ちょっとの間だけなら中嶋事務局長がアウンサンスーチーさんに会うことが出来るはずであった。空港到着ロビーで自分の荷物の確認を急ごうとしていた中嶋事務局長に私は、「何をしているんですか。荷物なんか後でもいいではないですか」と大声で叫んで、空港を一緒に出ようとしたら、ミャンマーの政府関係者が我々の前に立ちふさがって、「空港を出るのはだめです、次の飛行便に間に合わなくなる」と我々を止めた。

「いや、WHOの事務所にちょっとだけ立ち寄るためです」と私は答えて先を急ごうとしたが、今度は多くのミャンマー関係者が出てきて我々を囲んでブロックした。私は、ええい、仕方がない、ことここに至った以上ミャンマー側にこれまでの計画をばらして、お情けを受けてでもWHO事務所に急ぐのを許してもらうしかないと観念した。「実は今この時間に、アウンサンスーチーさんがWHO事務所で中嶋事務局長を待っているのだ。公式日程はすでに終わっている。5分だけでもいいから会わせて欲しい」と、政府幹部と思しき人物に慌てて舌をかみそうになりながら頼んだ。

「その時間はない」と、にべも無い返事が返ってきた。その政府役人は若かったが、頑としてこちらの言うことには応じないという冷たい態度をしていた。「それじゃ、空港から電話をさせてくれ。中嶋事務局長が彼女と電話で話す」と応じたが、「だめだ、電話をするなら、シンガポールからやれ」と言う。押し問答を続けたが、ミャンマー側は「だめだ」の1点張り。

空港に着くまで穏やかで何の変哲もなく見えた彼らの顔つきが、今はみな軍人の顔に変貌していた。これがミャンマーの軍事政権の本当の姿なのだと、改めて思い知らされた。そうか、君たちは、すべて知っていたのか。飛行機の到着も故意に遅らせたのか。
私の胸は怒りではち裂けそうであったが、結局、あきらめざるを得なかった。そして、中嶋事務局長は、シンガポールに着いてからアウンサンスーチーさんに電話をかけ、待ちぼうけを食わせたことを深く謝るとともに、ミャンマーの保健状況の一層の改善と彼女の活躍を期待している旨を伝えた。彼女は、事情をよく察して、不満めいたことは一言も言わず、WHOの一層の発展を願っていると応えた。

ジュネーブに戻ってから、私はニューヨークの国連本部に簡潔に報告書を書いた。中嶋事務局長は、ヤンゴンでアウンサンスーチーさんと会見する段取りをつけ、彼女には当日WHO事務所で待ってもらったにもかかわらず、飛行便が予定よりも遅れたために、残念ではあったが会うことが出来なかった、しかし、シンガポールについてから彼女と電話で話すことが出来た、と。これに対して、国連本部からは何の音沙汰も無かった。一件落着であった。

他方、ミャンマーの軍事政権側も、その後この件をまったく問題にすることは無かった。それもそのはず、中嶋事務局長はミャンマー訪問中アウンサンスーチーさんのことは一言も触れず、接触することも全く無かったのだから。
私は、一所懸命に何とか難問を解決しようともがいているうちに、謀らずして、ニューヨークの国連本部とミャンマーの軍事政権の双方とも納得させるような結論となったことに我ながら驚いた。とたんに、親父の日の丸が目に浮かんだ。(了)