光明が見え始めたミャンマーに期待する

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      アジア・アフリカ法律諮問委員会委員  
        元駐フィンランド大使 石垣 泰司

1.はじめに-ミャンマーと私のつながり
本年8月中旬、私は、久方振りにミャンマーを訪問した。
これは、私が初めての在外勤務地ワシントンで2年余勤務後、東京勤務を経て、2度目の在外勤務地として1970年代半ば(74~76年)ビルマ(当時名)に2年間次席館員として勤務して以来36年振り、その後タイに勤務中休暇を取り最後に同国を訪問して以来26年振りであった。

私のビルマ勤務時仕えた最初の大使は、本省調査部長当時、愛知揆一外相から赴任先の希望をきかれた際、望んでビルマ行きを希望し、ビル狂(キチ)を自任されていた鈴木孝大使(「ビルマという国―その歴史と回想」を著作)で、2人目は、有田武夫大使であった。当時は、1962年軍事クーデターで権力を掌握し、やがて大統領に就任したネー・ウイン政権最盛期で、古くからの親日政治家、識者も多く、我が国は、賠償時代に始まった相当規模の経済協力を実施し、ビルマ全土で最後とされた遺骨収集を行っていた時代であり、田中角栄総理が東南アジア歴訪の一環として来訪した。私は、若輩ながら次席の立場から館務全般にわたり両大使を補佐しながら、大使館ビルマ語専門家(奥平龍二氏、その後東京外国語大学教授)の助けを得つつ人脈を広げるよう努め、当時外交団は首都ラングーンからマンダレイにかけての限られた地域にしか旅行を許されていなかったが、遺骨収集団に同行との名目で、アラカン地方や中緬国境に近い辺境にも出張する機会を得ることができた(現在の大使館事務所建物の建設も開始)。私の私用運転手は、戦後外交活動再開後間もなくの頃と思われるが、同国に参事官として在勤した牛場信彦氏運転手をつとめたことがあることを誇りにしていた。

ビルマ離任(後任高野紀元氏)後の勤務ポスト(豪州、タイ、本省アジア局地域政策課首席、南西アジア課長を含む)にあっても、同国(ミャンマーに改名)のその後の状況については常に気になり、できる範囲でフォローにつとめるようにしたが、1990年私が国連局審議官として政務次官に同行してニューヨークで開催の国連麻薬問題特別総会に出張した際、以前の在豪州大勤務時にビルマ大使館の次席として勤務していて、親しくなったミャンマー代表のウー・オン・ジョウ外務次官(その後外務大臣に昇格)と再会した折、日本との関係については人権問題等につき当時の駐ミャンマー大鷹大使に厳しく批判されており、日緬関係はもはや以前のように親密ではなくなっている旨聞かされたこともあった。

私の今般の上記ミャンマー訪問は、ASEAN+3国の官民学関係者が参加する1.5トラックの会議出席が目的で、主として新首都ネーピードーに数日間滞在し、往路、帰路ヤンゴンに立ち寄り、新首都以外では若干の現地視察(ヤンゴンおよびバガン)と大使館専門家との意見交換をしただけにすぎないが、これらをも踏まえ、ミャンマーの現状況および今後に関する幾つかの重要な点について、私なりの見方を述べてみたい。

2.ミャンマーの民主化、対外開放に向けた変貌の姿は、実体を伴った本物か
ミャンマーが親日国で、人材、エネルギー等資源に富み、潜在的可能性は限りないところから、その将来における政治的経済的発展を大いに期待し、日緬関係を強固なものとすべきであるとの想いは、私をはじめ歴代の在ミャンマー大使館勤務者なら誰しもこれまで数十年にわたり抱き、その将来に期待してきたことである。しかし、これまでの鉄壁化した歴代の軍事政権下では一時的な民主化への口約束等がなされたことはあっても、現実には実質的進展への期待はことごとく裏切られ、逐次欧米諸国の制裁措置は強化され、中国等非民主国勢力の深い浸透を許す結果となった。

従って、先般来のミャンマーの民主化、アウン・サン・スーチー(以下スーチーと略称)女史との関係改善の動きもやはり一時的なもので、2014年におけるASEAN議長国の任期終了するまでにすぎないとか、今後国内で一層の民主化を求める勢力が強固になりすぎて、抑えきれなくなくなれば、直ちに軍事政権が復活し、再び以前のミャンマーに戻ってしまう恐れがあるとの見方も絶えない。
しかし、私としては、次のような理由から、最近のミャンマーの変化は、実体を伴った本物であるとの見方を強めている。
第一に、テイン・セイン大統領の進めている民主化路線は、真剣なもので、着実に進められていると考える(その具体的動きについては本欄に掲載されている先の田島大使のご論考を参照)。

もとより今後の民主化のスピードと深度は、不透明である。依然軍人出身者がコントロールする政権および議会が憲法の大改正により真に民主化され、比較的近い将来に自由な選挙の実施により非軍人民主勢力が議会で多数を占めるとの可能性はまだ見えていない。
とはいえ、テイン・セイン大統領は、個人的にも行ける限度まで民主化をすすめてみようとの決意を抱いていることは確かのようで、欧米諸国にも認知され始めており、これら諸国による累次の制裁解除措置となって実を結んできている。
さらに、テイン・セイン大統領の民主化路線は、独り本人のみがその気で進めているわけではなく、軍人層、スーチー女史を含め国民の多数から支持を集め、次第に広がりつつあることも事実のように思われる。軍部としてもそろそろ軍人による政治支配の時代を終焉せざるをえないと認識し始めていると見ることもできるかもしれない。
第二に、ミャンマー政府の国連その他国際機関に対する基本姿勢が従前に比し、一変しており、できるだけ重視、協調につとめようとしていることが看取される。これは、長期的視点からミャンマー政府の姿としては非常に大きな変化である。

私が同国に在勤していた1970年代当時、ビルマ政府の国連等国際機関に対する態度は最悪(有能な人材の左遷先化)で、自国民のウー・タント氏がアジア人として最初の国連事務総長という最高ポストに就任した(1962-71年)にもかかわらず、ネー・ウイン軍事政権は、国連を軽視し、同氏には敬意を表することなく、1974年12月、同氏がニューヨークで癌により死去し、遺体が同国に帰ってきた際、丁重に扱わず、不相応な墓地に埋葬しようとしたため、激怒したラングーン大學学生らが相応しい霊廟に埋葬すべく遺体を奪取し、多数の市民もこの動きに参加して、警官隊と衝突するという大きな騒擾事件が発生した。

また、私の在勤中、我が国が経済協力のプロジェクトとして支援し、JICA専門家を派遣していた 「東南アジア漁業開発センター」(SEAFDEC)という国際機関所属の最新式公船が同国近海を航行中ビルマ治安当局により沿岸情報収集という「スパイ活動」の疑いで拿捕され、日本人船長以下東南アジア諸国乗組員が刑務所に収容され、私もインセイン刑務所出かけ、大使館がビルマ政府とその釈放を交渉せざるをえないといった信じられない事件が発生したことすらあった。
 その後も歴代の軍事政権は、再三同国を訪問した国連特使の民主化、人権問題の改善の呼びかけに何ら答えようとせず、軟禁されていたスーチー女史との面談さえ渋る時代が長期間続いたことは周知の通りである。

 しかるに現在は、ミャンマー政府と国際機関等との関係は、著しく改善され、スーチー女史が改めてノーベル平和賞の授与式に臨んだことも周知の通りである。
第三に、国民の側においても、民主化、対外開放の進展による新しいミャンマーの到来を感知して、敏感に反応をみせている。これは、欧米人を含む外国人の訪問者増、ビジネス・チャンスや文化教育面での機会増を歓迎するさまざまな反応に加え、端的にミャンマー人のライフスタイルの注目すべき変化としても現れてきている。今般の私の同国への出張前に、本邦テレビ特集で、最近ミャンマー人が伝統的衣装のロンジーをつけず、今様の西洋式服装を好む者が増えてきているとの記者報告を聞き、これはミャンマー人の保守的性格にかんがみ、驚くべきことと感じたので、現地で注意して観察したら、まさしく事実のようであり、大使館の専門家もこれを首肯していた。ネーピードーからバガン寺院群観光地に向かう途中で見た地方の若い女性や子供達は、やはり伝統的タナカ化粧をしていたが、ヤンゴンでは上記服装の変化は顕著に認められた。
上記のように、ミャンマーにおいては、テイン・セイン現政権下で、政府および国民の双方に旧来の殻から抜け出し、新しい国造りを目指す姿が実体としてしっかり見え始めていると云えよう。 

3.ミャンマーの直面する主要課題
他方、ミャンマーは、依然多くの問題、課題を抱えており、同国が真に国際社会に評価される民主化を成就し、他のASEAN国に負けない有数の国家に発展しうるかは、これらの諸問題、課題の解決にどれだけのスピードで成功するかにかかっているが、前途は必ずしも楽観を許さない。

(1)最大の課題は、真の民主化を遂げるには、軍人が議会で多数を占めることが制度的に確保されている現行憲法を大改正する必要があるが、これが一気に実現するとは思われない。 テイン・セイン大統領等少数の開明的政治指導者が個人的に徹底した改革が必要との決意を抱いても、実際の民主化に向けた憲法改正や政治改革は、段階的に慎重に進められると見るべきであろう。

軍事政権下で中央諸官庁の首脳部や幹部に多数送り込まれた軍人が有能なテクノクラットや文民指導者に入れ替わる必要もあるが、このプロセスも一挙には進まず、徐々に行われ、憲法改正を進めることについて軍部の理解を得るためも軍人の既得権益を一定期間容認せざるを得ないとされることも考えられる。

(2)指摘されるように、現在なお戦闘部隊を擁し、辺境地域で軍事的抵抗を続けるカチン、カレン族等ミャンマーの少数民族との政治折衝を成功させ、同国において国民和解を実現することは、至難であり、その早期実現は、まず無理と見るのが現実的であろう。ミャンマーの民主化の進展とともに、テイン・セイン政権下でこれら少数民族との政治折衝の努力は鋭意続けられているものの、はかばかしい成果はあがっていない。むしろ少数民族側においては、民主化の動きに乗じて欧米諸国の理解、支援を求める動きが活発化しているので、今後のミャンマー政権が少数民族側の不満、軍事的抵抗をどれだけ抑えられるかが問題であり、ミャンマーの民主化の進展や軍事政権復活への懸念にも直結している。ただ、最近同国の民主化、欧米諸国との関係改善の動きとともに、ミャンマーよりの我が国を含む先進諸国への難民申請数が減少に転じていることは、同国の民主化や対外開放、少数民族との関係の改善が実体的に進みつつあることを示すものといえよう。

(3)ミャンマーの経済および投資環境も我が国経済協力の本格的再開、債務問題等への積極的対応により好転してきており、2012年11月政府と議会間の意見の相違により難航した新外国投資法がついに成立した。新投資法は、従前の投資法より外国の直接投資に対し優遇的な諸規定を設け、その促進に資することは疑いないが、政府と議会間の折衝過程で曖昧となった点が少なくないとされるので、今後の実際の運用ぶりがどうなるかが注目される。

(4)ミャンマーのASEANへの加盟はかなり遅く、ベトナム等旧インドシナ3国とともに、後発ASEAN諸国(LCMV)として、ASEANの原加盟国に比し、発展段階、貧困率、国際化等の面で水をあけられ、立ち後れており、できるだけ早期に他のASEAN諸国に追いつき、国際社会における地位向上が急務となっている。 従って、2014年に就任が確定しているASEAN議長国として、ASEAN+3や米露、インド、豪州等を含む東アジアサミット(EAS)、北朝鮮、EUを含むASEAN地域フォーラム(ARF)など多数の関連した重要国際会議を成功裡に取り仕切ることが求められており、これが差し迫った重要課題となろう。
ミャンマーは、第2次大戦前は、英連邦の有力な一員としてタイに勝るとも劣らない所得水準を有し、ラングーンは、国際交通のハブとして栄え、戦後独立後も、1962年のネー・ウインによるクーデターに始まる軍事政権時代に入るまで、ECAFE(ESCAPの前身)の事務局長(1959 – 1973)を務めたウー・ニュン等多数の国際人を輩出した民主国家であった。しかし、爾来50年近くに及ぶ長期の軍事政権下でミャンマーは、事実上國際的孤立状況下に置かれ、政府当局がミャンマー人の海外渡航にも厳しい制限が付した結果、國際場裡で活躍するミャンマー人は、極めて少数となってしまった。

このような状況下で、ミャンマー政府も、国際会議の開催準備および運営に関与する職員の養成、とくに語学力の強化にしっかり取り組んでいるものと考えていたが、私が今般参加した前記ASEAN+3の関係者の国際会議の実際の準備および運営振りを目撃した限りミャンマー政府担当者および関係職員の不慣れや拙い英語力が目立ち、以前の自分の在勤中日常的に接していた英語力抜群のローカル職員や外務省若手職員は、どこにいってしまったのだろうと寂しい思いがした。

4.結語
以上述べたように、ミャンマーの民主化、対外的開放に向けた変貌は、実体を伴う本物であるとの実感を抱くに至っているが、他方、その前途に困難な諸課題も横たわっていることも事実である。私の今回の同国訪問は、新首都ネーピードーを中心とし、ヤンゴン滞在はごく限られたものであったが、ネーピードーを初めて訪れて、新首都として機能し始めた実際の姿をみることができたのは大きな収穫であった。中央官庁職員の移転もほぼ完了し、ミャンマー外務省も、今後ともヤンゴンにとどまることとなる1部局(調査・研修関係)を除き、ネーピードーに移転を完了したと聞かされたが、外交団の中で大使館を新首都に移転させた国はまだどの国もないという。

一方、ミャンマーに強い関心をもつ我が国商社、企業がネーピードーに次々と事務所を開設する動きが活発化していると報じられている。外交団の中には、実際的必要から、我が国も含め新首都に分室的オフイスを設ける国も多くなっているようであり、私は、新首都を実際に見て、建物等施設は一応整えられたが、フルに機能するのは、まだまだ先のように思われた。莫大な人的資金的投資がすでに行われているので、将来どんな政権になっても、ネーピードーを廃都にし、首都をヤンゴンに戻したりすることはまずないとみられるので、ミャンマーの民主化、対外開放の進展と並行して、ネーピードーの首都機能も順次充実、整備が進み、現在ヤンゴンから新首都に毎日僅か1、2便しか飛ばないという国内航空便数も需要に応じ増大し、今後外交団の中にも大使館を徐々に新首都に移転するところが次第に増え、半数以上が移転を完了する頃にミャンマーの民主化、対外開放による経済発展も一定の目標を達成することになるのかなと勝手に推測している次第である。その頃になれば、現在米国やEU諸国が頑固に固執している「ビルマ」の呼称も改まり、すべての国がミャンマーと呼ぶ日が到来し、国際社会における同国の地位も著しく向上しているものと強く期待している。 (2012年11月7日寄稿)