第一次大戦百周年:中国の台頭と日・ベルギー関係の展望

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在ベルギー大使館次席公使 片山 和之

(ベルギーのイメージ)
 ベルギーと聞いて一般の日本人は何を思い浮かべるだろうか。人口、面積ともに日本の約1/12のこの国のイメージは、小便小僧、チョコレート、ワッフル、ビールにムール貝、あるいは、アントワープのダイヤモンド取引や童話「フランダースの犬」(19世紀後半に英国人作家によって書かれた悲話のせいか未だに地元ではほとんど知られていない)、漫画のタンタン、歌手のアダモといったところか。筆者も、2010年8月にベルギーに赴任するまでは正直なところこの程度の認識しかなかった。

  ベルギーを歴史的、政治的に眺めてみると、中世以降約千年にわたって欧州の中心に位置し、フランク王国や、十字軍の遠征、繊維産業、北方ルネサンスにおいて絶えず重要な位置を占めてきた。現在は、EUやNATOの本部が首都ブリュッセルに置かれており、統合欧州の中心に位置する。ファン・ロンパイ欧州理事会初代常任議長(大統領)は元ベルギー首相で、俳句を愛する文人である。EUの舵取りを任される指導者を輩出している一方で、北方のフランドル地域(蘭語圏)と南方のワロン地域(仏語圏)の確執は、歴史的には古代ローマ帝国のラテンとゲルマンの境界線にまで遡る。ベルギーという連邦国家を構成するフランドルとワロンの関係は、言わば既に冷え切ってしまったものの、「親権」(ブリュッセルの帰属)と「借金」分割(財政負担)問題の結論が出ず離婚しようにもできない夫婦といった見方も出来ない訳ではない。連邦、共同体及び地域に計6つの政府が存在し、2010年6月の総選挙以降翌年12月まで実に541日間正式な政府が存在していなかった。しかし、暫定政府の下で予算は粛々と執行され、NATOの対リビア作戦にベルギー軍の戦闘機や機雷掃討艇を参加させるといった重要な政策決定が行われてきた。17世紀のウエストファリア条約以降続く主権国家を基本とする国際関係の枠組を変容しようという壮大な実験を行っているEUの本部がある一方で、日本の1/12の小さな国内が分裂の可能性すら孕んでいる実に興味深い国なのである。ベルギーという国は、欧州の過去と将来、ひいては世界を眺めるのに絶好の場所とも言えるかもしれない。

(近代史における日・ベルギー関係)
  近代日本外交におけるベルギーの位置づけには、実は大きなものがあった。日・ベルギー関係は、1866年、修好通商航海条約を締結して以来、約150年の外交関係がある。裕仁皇太子が初めて外遊されベルギーを訪問された1921年に、両国の公使館は大使館に格上げされている。この時点で、日本が有していた大使館は10カ国にも満たなかったのではないだろうか。この時期、両国が相手を「一等国」として認識していた証左でもある。歴代大使や公使、領事(戦前は、ブリュッセルの大(公)使館の他、アントワープに領事館が設置されていた)を調べてみると、西園寺公望、青木周蔵、幣原喜重郎、芦田均、有田八郎、来栖三郎、下田武三といった後に首相や外相、外務次官、駐米大使になる日本外交史になじみの深い外交官が勤務していた。

  両国皇室と王室のつながりも深い。上記の裕仁皇太子の御訪問の他、1971年には、昭和天皇が天皇として初めて外国訪問された際にもベルギーを欧州最初の地として公式訪問されている。ちなみに、この時、昭和天皇は50年前の訪問時にワルツをご一緒に踊られたベルギー首相令嬢と劇的な再会を果たされている。ボードワン1世は1989年の大喪の礼及び翌年の即位の礼出席のために訪日されているし、今上天皇は1993年に国王の葬儀及びもともと予定されていた公式訪問と同じ年に二度ベルギーを訪問されるという異例の対応もされている。皇太子どうしも共に1960(昭和35)年生まれということもあり、緊密な関係を維持され、最近では2012年6月にはフィリップ皇太子が200名を越す経済代表団を率いて王妃とともに訪日された。

  日・ベルギーの近代の関わりを見ると、意外なつながりがあって非常に興味深い。江戸時代、杉田玄白が訳した「解体新書」のネタ本は、15世紀に創立されたベルギーのルーヴァン・カトリック大学の学者の著作である。明治初期、岩倉遣欧使節がベルギーを訪問(1873年)しているが、独立(1830年)してまだ40年ほどしか経過していない小国ベルギーの経済発展ぶりに注目している。久米邦武の「米欧回覧実記」によれば、九州くらいの国土でありながら大国に伍して自主独立を全うし、大国以上の経済力を発揮しており、これは皆、その国民の勤勉努力と協力の賜である、国の盛衰は、このような国民の自主性と団結力に負うところが大きいと、開国を迫られた小国日本のモデルとして一行はベルギーの国家運営のあり方に強い関心を寄せている。もっとも、その後の日本は、プロシア型の国家建設を目指すことになる訳であるが。更に、日本銀行は、当時大蔵省にいた松方正義が部下をブリュッセルに派遣しベルギー中央銀行を模範に1881年に設立されたものであり、また、一橋大学(東京高商)はアントワープ商業学校をモデルに1885年に創立され、草創期にはベルギー人教師がその発展に寄与している。

  第一次大戦時には、ドイツの侵略に苦しみながら奮闘しているベルギーに対し、同じ連合国の一員として日本国内では大きな同情が集まり、義援金募集活動も行われた。朝日新聞社はベルギーを勇気づけるため備前の名刀を時の国王アルベール1世に献上するため、1915年、使者を派遣したほどである。他方で、1923年の関東大震災の際には、ベルギーから米、英に次ぐ260万フラン(現在価値で約330万ユーロ)を超える義援金が寄せられた。

(近づく第一次世界大戦100周年)
第一次大戦は、周知の通り、1914年の6月28日にオーストリア=ハンガリー二重帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の後継者フェルディナンド皇太子が、ボスニアの首都サラエボでセルビア人民族主義者によって暗殺されたことを直接の契機に、複雑な関係にあった欧州諸国が二分して7月末に戦端が切られたものである。短期戦で片付くとの楽観的な見通しも大きくはずれ、以来4年有余にわたり壮絶な戦闘が繰り広げられた。1918年11月11日にドイツが連合国と休戦協定を結び、翌年6月28日にヴェルサイユ条約が調印されてやっと終結した人類がかつて経験したことのない未曾有の総力戦であった。毒ガスや戦車、戦闘機といった新しい兵器が登場し、非戦闘員を含めた戦死者が2千万人に達する前例のない世界戦争であった。そして、敗戦国ドイツへの報復的な戦後ヴェルサイユ体制は平和をもたらすどころか、ナチスという徒花を生んでしまうこととなり、20年後、人類はもう一度悲惨な世界大戦を経験させられることになる。

この第一次大戦勃発から、まもなく100年を迎えようとしている。日本は、日英同盟のよしみから、連合国の一員として参戦し、ドイツ東洋艦隊を撃滅、その根拠地であった中国山東省青島及び膠州湾を攻略占領、また、ドイツの植民地であった太平洋の南洋諸島を手中にした。更に、連合国の要請を受け、帝国海軍は、英国やフランスの植民地から欧州へ向かう輸送船の護衛の任務を請け負い、地中海には巡洋艦明石及び駆逐艦等計18隻を派遣し、任務遂行の過程で約80名の将兵の犠牲を出している。

  今後、第一次大戦開戦から終戦100周年を順次迎える欧州各地では、各種の記念行事が企画され、催されるものと予想される。日本として、第一次大戦時の「貢献」を積極的にプレイアップし、100周年を祝賀乃至追悼するような性格のものではないかもしれないが、若干気にかかることがある。中国の動きである。

(中国と第一次大戦)
  当時の中国も連合国側に参戦している。では、欧米列強に蚕食された清朝が1911年、辛亥革命によって倒され、長い王朝の歴史に幕を閉じ、翌年共和制国家である中華民国が成立してわずか数年のまだ十分な国家運営のできていないこの時期に、中国は、第一次大戦でどういう戦いをしたのか。実は、中国は軍隊による戦争をした訳ではない。それではどうしたのか。14万人にも上る主に山東省出身の農民を欧州に派遣し労働力不足を補ったのである。彼らは前線近くで働き命を落とした者も少なくなかった。最近になって、この歴史を掘り起こす中国人研究者の作業が始まっている。中国政府の目的は、連合国側について参戦することにより、戦後の国際秩序形成過程に主体的に関与することにあった。即ち、日本がドイツより奪い21ヵ条要求で中国に承認を強要した山東権益を回復することであった。
結局、ヴェルサイユ講和会議は日本の山東権益を承認したため、中国は結局講和条約調印を拒否、この不満は1919年の「五四運動」へつながる。ベルギーは、第一次及び第二次世界大戦時、悲惨な戦場になったこともあり、各地に記念碑や墓地が散在する。英国コモンウエルスの共同墓地もいくつかあるが、イープルの近くにあるポペリンゲの英軍基地には、犠牲者となった中国人労働者も眠っている。ちなみに、イープルの市中心にある戦争記念館の売店には中国人労働者の歴史について書かれた異なった3種類の書籍(仏語、蘭語、中国語)が置かれてあった。第一次大戦と日本の関わりに焦点を当てた書籍はやはりない。欧州においても、中国の台頭が、良くも悪くも種々の局面で関心を持たれ焦点が当てられることが多くなっている。そのような中、中国人が欧州のために汗や血を流した歴史を欧州の人々に想起させることは、中国のイメージを高めるためのパブリック・リレーションの好材料ともなろう。

一方、我が国の上記のような貢献やベルギー国民への暖かい同情の歴史は現在では殆ど記憶されておらず、当国有識者の間でさえ、日本が第一次大戦の連合国であった事実すら十分認識されていない状況である。ややもすれば、中国人労働者の貢献が中国によって強調される影で、わが方の貢献は埋没する危惧もなしとはしない。もちろん、歴史に埋もれた中国人労働者の貢献の事実が掘り起こされ、中国近現代史あるいは欧州との関係史の中で正当な位置づけが歴史学者によってなされていくことの意義を否定するつもりは毛頭ない。また、第一次大戦の結果は、日中関係においては山東権益、五四運動等その後の不幸な日中関係を暗示する側面もあり、慎重に取り扱われるべき微妙な性格を有していることも認識しておく必要はある。他方で今後、2014年から2018年にかけて、ベルギーを含め欧州各地で大規模な各種行事が企画されることが想定されるところ、日本として、上記中国の動きなども注視し、歴史が政治的な宣伝に利用されることがないか注意深く見守っていく必要があろう。

(現在の日・ベルギー関係と中・ベルギー関係)
  現在の日・ベルギー関係を見てみると、日本の貿易相手国としてベルギーは欧州では独、蘭、仏に次いで第4位(2008年)、ベルギーにとり日本は9番目の貿易相手国である。日本の対欧州直接投資残高(2009年)は、蘭(6.52兆円)、英(2.94兆円)、仏(1.35兆円)に次いでベルギー(1.26兆円)は第4位である。ベルギーの規模を考えるとその重要性が浮き上がる。日本大使館の調査によると、2011年10月現在、ベルギー進出日系企業数は265社、在留邦人数は5335名である。代表的企業としては、トヨタが欧州本部を置いている他、ダイキン、カネカ、旭ガラス、パナソニック等が進出している。在日ベルギー人は685名である(2009年、法務省調べ)。
しかしながら、ここベルギーもご多分に漏れず、最近は中国の経済進出が勢いを増しており、日本経済の相対的な地位は低下気味である。例えば、貿易額で言えば、既に日・ベルギー貿易は中・ベルギー貿易に額においては凌駕されている(前者が、61.53億ユーロ、後者は100.89億ユーロ(2010年))。ベルギーにとりEU域内貿易が7割を越えている中で、中国はアジアの中での最大の輸入相手国となっている。伸び率も二桁である。投資や当地社会への根付き方においては、まだ日本企業に一日の長があるが、中国の追い上げの勢いと速度は激しい。ユーロ危機や債務問題で苦しむ欧州にとり、中国経済の存在は益々重要になっている。
  留学生の差は圧倒的である。ルーヴァン・カトリック大学の留学生6千人あまりの内、中国人は約500名でEU域外では最大である。日本人留学生数は出てこないので分からないが10名前後ではないだろうか。ブリュージュには知る人ぞ知る欧州大学院大学(カレッジ・オブ・ヨーロッパ)がありEU官僚の中で隠然とした学閥を構成しているが、ここにも現在3名の中国人留学生が学んでいる。ちなみに、日本人学生は2012年現在ゼロである。

(今後の展望)
日本にとって勇気づけられる数字を最近聞いた。当地の東アジア研究の中心であるルーヴァン・カトリック大学の日本学担当教授によれば、2011年秋入学の新入生の内、日本研究専攻118名に対し、中国研究専攻は70名と、日本研究が根強い人気を得ている。日本への関心はジャパン・クールの影響等純粋に日本が好きな学生が多い一方、中国専攻は中国経済の台頭から自分のキャリアに繋がることへの期待感を持っており、ある意味、日本への関心の方が根が深く流行に左右されない人気とも言えると分析していた。
最近では、パリにならって、ブリュッセルでもJapan Expoのような日本文化の催し物がファンの力で実施され、多くの入場者を集め活況を呈している。漫画・アニメは言うに及ばず、コスプレをした青い目の少女がおにぎりを頬張り、日本の将棋や囲碁、ゲーム、歌曲にファンが興じ、キティちゃんをはじめ日本のキャラクター・グッズを求め、日本料理や日本酒の人気は高く、茶道・華道、武道に日本文化の洗練さ・礼儀正しさを感じている。そして、東日本大震災時に示された日本人の規律正しさと落ち付きに感銘を受けているベルギー人は多い。

このようなソフト・パワー、スマート・パワーも活用しながら、人権、民主、自由や法の支配といった基本的な価値観を日本と共有するベルギーにおいて、日本が中国との関係で如何に差別化を図っていくか、量ではなく質において中国が代替することのできない日本の独自性と存在感を如何に高めていくか。このことが今後の日・ベルギー関係ひいては日欧関係において問われていくことになろう。
※本寄稿は著者の個人的見解を表明したものです。
(2012年10月1日寄稿)