メキシコと日本

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前駐メキシコ大使 小野正昭

帰国して1年以上になるが、メキシコに滞在した者のご多聞にもれず、この国への関心は高まることはあっても衰えることはない。以下に、メキシコの国柄と日本との歴史的なつながりについて私的感想を述べてみたい。

1.メキシコの魅力
5百年前エルナン・コルテスの入植以来、メキシコは世界中から多くの探検家、宗教家、学者、芸術家等を惹きつけ、多数の紀行文、調査報告、絵画、写真を残している。 日本からは4百年前、最初のサムライ使節、慶長遣欧使節団支倉常長一行がローマ訪問の往路(1614)と帰路(1618)、二度に亘ってメキシコを訪問し、一行の多くがメキシコで洗礼を受けているが、同時に一行から離脱しメキシコに残った者も少なからずいたといわれる。その後、わが国は、最初の平等条約(日墨通商修好条約)をメキシコと締結(1888)、中南米で初めて日本移民がメキシコに入植した(1897)。以来、植物学者の松田英二、野口英世、イサム・ノグチ、藤田嗣治、北川民治、岡本太郎、三島由紀夫、三船敏郎、バイオリニストの黒沼ユリ子氏等メキシコに刺激を受け活躍してきた。

青のタイルの家-のコピー.jpg「青のタイルの家 メキシコシティ」
世界中の人を惹きつけるメキシコの魅力の源泉は何か。それはこの国の自然と民族の多様性にあると考えている。日本の5倍以上の国土の中に、北は砂漠乾燥地帯、南東部の熱帯雨林低地、5千メートル級の山が聳える広大な中央高原地帯に恵まれ、そこから多種類の動植物相が生まれた。

毎年、ベーリング海から2千頭のコククジラがビスカイーノ湾に子育てのために集まり、カナダから1億羽ものオオカバマダラ(モナルカ蝶)が4千㌔を飛んでミチョアカン州で冬を越すメキシコならではの自然の驚異(人々はクジラに触り、森は蝶の色に変わる)が見られる。

yuruginais.jpg「ゆるぎない信頼感」

メキシコは加害者(スペイン人)と被害者(先住民)との間に、痛みをもって生まれた国といわれる。また、大西洋のみならず太平洋に面していることからヨーロッパのみならずアジアの影響を受けてきた。三島由紀夫はマヤ神話「ポポル・ヴフ」の林屋永吉氏による日本語訳に「讃」を寄せて、「マヤ民族には幼児の尻に蒙古斑があるようで、これがわれわれにふしぎな民族的親近感を与えるが…」と述べているように、メキシコ先住民のDNAはモンゴロイドのそれと類似しているらしい。その後、スペイン人は銀鉱山開発のため黒人も動員したため、様々な混血が進んだ。メキシコは世界中から民族、宗教、文化を受け入れてきた開放的で懐の深い国柄だ。限りなく単一民族に近い日本の対極にあるたくましい国である。

国名と同名の首都メキシコ市はこの国の象徴と言える。30年前に都市学者ピーター・ホールはメキシコ市を「その規模において究極であり、その麻痺と混乱において究極である」と指摘したが、今日のメキシコ市は麻痺と混乱は、相当程度改善してきている。私はアステカの古代都市の上に世界中の文化が集積し、超富裕層と貧困層が混在する世界都市として究極だと考えている。あらゆるものを飲み込むメキシコ市は、活火山の名峰ポポカテペトル(5465m)の山麓に広がり、古代アステカの文化を継承しつつ様々な外来文化と混り合い、日常生活の中に独自の文化を生み出している。(この点は一橋大学、落合一泰教授の説く「世帯を超えた“柔らかな文化”の継承」が参考になる)

メキシコ政府は、普遍的な欧米の文明とは一線を画すメキシコ文化の独自性を積極的に世界に向けて発信している。私はメキシコ市のように世界に開かれたアメリカ大陸の交差点で、官民協力してメイド・イン・ジャパンを発信すれば期待以上の効果が得られることを実感してきた。メキシコ人は日本の文化や技術に強い関心がある。(他方、最近、中国や韓国政府も孔子学院や文化センターなどを通じメキシコ市における文化・広報活動を活発化している。)

2.北米にあるが中南米の国
メキシコ外務省の幹部にメキシコは北米の国か中南米の国か質問したところ、次のような説明があった。「メキシコは北米にあるが中南米の国だ、とよく言われる。確かにNAFTAは期待した以上の効果をメキシコに与えている。依然メキシコの輸出の8割は米国向けであり、一日100万の人が国境を通過し、米国の人口の10人に1人はメキシコ系である。米国との経済協力を通して、時間厳守といった生活習慣にも影響がある。米国を脅威ではなくパートナーとみるメキシコ人が増えた。オバマ政権になり中南米に対する米国の姿勢は以前ほど高圧的でなくなり、中南米の声に耳を傾け、交渉によって問題を解決しようとしている。」私は、今後、米国におけるメキシコの存在は、ますます増大していくものと考えている。
何度となく国境の町ティフアナから歩いて米国側に渡ったが、国境線が一本引かれているだけで見事に違う国だ。米国は秩序、清潔、無機質だ。メキシコは多様で柔軟、有機質だ。どちらを選ぶかは個人の好みだ。

太平洋戦争の暗雲が立ち込める中、メキシコのカリフォルニア湾を旅した米国の作家ジョン・スタインベックは「コルテスの海」の中で「メキシコ人がわれわれより幸福かどうか分からない。たぶん五分五分だろう。ただし、幸、不幸のチャネルが違っているのは確かだ。時間感覚が違うようにどちらも我がものとはできないが、異なっているということを知るだけでも得るものはある。」
さすが、あの「エデンの東」を書いた作家の洞察力だが、この指摘は今日でも通用する。

3.ブラジルとの関係
メキシコの外交官にブラジルをどう見るか訊いたことがある。彼は「ブラジルは中南米のリーダーになるべく外交努力を継続している。ブラジルにとってメキシコは中南米における唯一の競争相手だ。また、ブラジルの覇権に対抗できる唯一の国はメキシコだ。しかし、メキシコは地域での覇権を求めず、ブラジルと競争するつもりはない。ブラジルはメキシコの四倍の国土、倍の人口、豊かな天然資源と高い技術力を有する国だ。ブラジルは極めて実利的に物事を考えているのに対し、メキシコは原理原則に基づくという違いがある。それはメキシコが米国との国境を有し、外国の介入を受けてきた経験があるからだ。
メキシコは中南米の地域統合を目指し、その中にブラジルを含めるが、ブラジルはメキシコを外そうとした。NAFTAに署名した際もメキシコは中南米に背を向けたと批判された。しかし、今や、メキシコはこうしたブラジルの態度を黙ってみているわけではない。」と述べていた。今後ともメキシコとブラジルが中南米の牽引車になることは間違いない。

4.多角化への努力
カルデロン大統領は2010年ブラジルとの間でFTA交渉を開始し、また、本年6月にはペルー、コロンビア、チリの大統領との間で、物品、サービス、資本、人の自由な移動、及びアジア太平洋諸国との関係強化を目指す太平洋同盟(-Aliance de Pacifica-)の枠組みに合意した。更に6月17日のロス・カボスG20サミットにおいてメキシコはTPP交渉に正式招請を受けた。
リーマンショックのあとメキシコは多角化への動きを加速化させている様だ。他方において最近、ブラジルはメキシコとの自動車に関する経済補完協定(ACE55)の再交渉を求め、新たに輸入割り当てを設ける形で合意に至った。更に右を受けてアルゼンチンもACE55の一方的破棄を通告するなど自由貿易を原理原則とするメキシコとブラジル、アルゼンチン等国内産業保護に傾注する諸国との差は鮮明になっている。(右動きに対し、メキシコに進出している日系企業も迅速な対応を見せている。)

5.ペニャ・ニエト次期大統領の課題
本年7月1日の大統領選挙で与党、国民行動党(PAN)のバスケス・モタ女史が敗退し、野党、制度的革命党(PRI)のペニャ・ニエト氏が勝利した。前評判ほどの差はつかず、また、両院で過半数に至らないこともあり、かつてPRIが70年以上政権を維持した独裁的専制時代に戻ることはないとみられる。特筆すべきは、大方の予測に反してメキシコ連邦区で圧勝した民主革命党(PRD)をはじめとする左派が善戦したことである。
次期大統領のペニャ・ニエト氏は1966年生まれで、前メキシコ州知事。美男、財力を備え、アストロ・ボーイ(鉄腕アトム)、また守旧派の中の若手として「若い恐竜」と通称される。メキシコ州知事時代に姉妹都市のさいたま市を訪問し、トルーカ市で日系の人間国宝、ルイス・西澤画伯他の顕彰式を主催し、昨年の東日本大震災に際しては、自ら、見舞い金(1億円相当)を大使館に届けてくれた知日派である。新大統領の下で更なる日墨関係の進展を期待したい。

カルデロン大統領の果たした成果として特筆すべきは、2010年、日墨交流400周年を記念して訪日し、両国の戦略関係をグローバルなレベルに引き上げたことである。その結果、日墨科学協力が開始され、日墨EPA改定議定書が合意され、両国間の自由貿易が一層促進されることとなった。多国間の成果としてCOP16、G20の議長国として国際的発言力を高め、先進国と途上国をつなぐ役割で成果を上げた。
他方、現政権が次期政権に引き継ぐ課題は多く、エネルギー改革(元来エネルギー分野はPRIと深い関係があるとみられることから次期政権に期待する専門家は多い)、労働法改革はその中で重要なものとしてニエト次期大統領の手腕が注目される。対米関係ではメキシコ経済はリーマンショックから比較的短期間で立ち直りはしたものの、依然米国経済の行方は不透明であり、メキシコにとって引き続き経済の多角化は重要な課題となろう。麻薬組織との戦いは、連邦警察の整備、拡充等検討されようが早期の改善は難しいとみられる。また、アリゾナ等一部の米州における反移民法の問題は、今後とも重要なテーマとして引き継がれる。これらの問題は年末の米大統領選挙の帰趨に左右されよう。

6.「みなさんの兄弟であるメキシコ国民」
本年7月から8月にかけて福島県相馬市の子供たち22名がメキシコ政府・民間の招待により、メキシコで夏休みを過ごし、現地の子供たちと交流の輪を広げた。

gakuinseito.jpg「400年の友好を祝う支倉常長と日墨学院生徒」

国家間の関係の基礎は国民と国民の交流の積み重ねにある。私は常々そのように考えている。1609年に千葉県沖で難破したガレオン船を御宿の漁民が救った史実に端を発した日墨両国民の交流は、太平洋を挟んだ隣国として、はるか4百年以上前から「互いを助け互いを利する」という善意の交流によって形作られてきた。両国はともに地震国であり、これまでも関東大震災、メキシコ大地震、阪神淡路大震災でお互いに支援して来た。

「支援できることがあれば皆さんの兄弟であるメキシコ国民に遠慮なく声をかけてください。」これは東日本大震災直後、在メキシコ日本大使館の記帳簿に中学生マリアさん(カルデロン大統領の長女)が書いたメッセージである。「皆さんの兄弟」という呼びかけは、メキシコ国民議会の日本支援決議にも「兄弟国日本との連帯」という表現で一度ならず発せられた。このことは日本に兄弟のような親しみを感じているメキシコ人が少なくないことを示している。この親しい関係は一朝一夕で出来るものではなく、両国の国民の息の長い努力の賜である。ここで、あまり知られていない両国の歴史的なつながりを紹介したい。

7.日本とメキシコを結ぶ米国の存在
近代史における日本とメキシコの関係を振り返る時、米国の存在が、いかに両国の命運を左右してきたか、また、同時に米国が両国の絆を強める役割を果たしてきたかが見えてきて興味深い。以下はそのごく一例である。

時期は異なるが、両国ともに米国と戦い、そして敗れた屈辱の歴史がある。
1845年独立後の混乱期のメキシコは、マニフェスト・デスティニーを掲げる米国にすきを突かれテキサスを失い、米墨戦争をしかけられ、国土の半分を失った。この時、対メキシコ戦で戦果を挙げた米軍人の一人が、それから6年後に日本を開国させたペリー提督である。ペリー提督は幕府との交渉においてメキシコ戦での体験を積極的に活用したのだ。1852年、日本遠征の途次ペリーは、ポルトガル領マデイラからケネディ米海軍長官あての書簡の中でメキシコでの経験をもってすれば「日本は米国の圧力に屈服した後、いずれは、かつての敵、米国を友人とみなすようになる」と自信のほどを述べている。

ペリーは、自ら監督として建造に携わった最新のフリゲート艦ミシシッピ号で1847年ベラクルス砦を攻撃、4日後にはメキシコ軍を平定せしめた。この時の戦略は、敵に必要以上の圧倒的戦力を見せつけて戦意を失わせ、降参させたのちに懐柔する戦法である。まさに、1853年に江戸湾で同じミシシッピ号が示した恫喝し、屈服させた後懐柔する戦法である。幸いこの時は、ベラクルス砦を攻撃したペクサン砲(炸裂弾)は火を噴かずに済んだ。日本側との交渉において、ペリーは、林大学頭に対し「最近、米国は、メキシコとの戦争に勝利し、メキシコ市まで占領した。戦争の準備はできている。事と次第によっては、日本も同じ苦境に立つであろう。」と威嚇し、幕府側に、念のため必要な時に使用するよう白旗二流を差し出したり、老中阿部正弘にケンダルの絵入り書「米墨戦争」を贈呈したり、と徹底したゆさぶりを掛けた。ペリーは、対メキシコ戦争の勝利を対日圧力の梃にしたのである。(因みに幕府側はペリーが来る前、既に米墨戦の顛末は承知していた由。)

司馬遼太郎は、「日米間の尽きざるゲームは、この1853年から始まる・・・幕末の騒乱はペリーのドア破りから起こり、15年後に明治維新が成立した。」(「アメリカ素描」)と書いている。1867年が日本の近代化の始まりであるとすればメキシコもまさにこの年にマキシミリアンの帝政が倒れ、フアレス大統領の近代化が始まる年であった。この時、仏国が支援するマキシミリアン軍に対し、守勢に立ったフアレス軍に資金と弾薬を提供し、挽回を可能にしたのが米国であった。まさに「昨日の敵は今日の友」が歴史の現実だ。しかし、メキシコ人の反米感情が消えたわけではない。

尚、それから80年後の日米開戦に際し、メキシコはやむなく米国と共に対日宣戦を布告したが、多くのメキシコ人は、心の中では米国よりも日本を応援していたという話は、今でも語り継がれている。また、戦後、メキシコは1948年の国連総会で、日本との講和条約締結を提案し、日本の国際社会への復帰を積極的に支援してくれたのである。

8.科学の黒船の来日
記憶に新しいことであるが本年6月6日、金星の太陽面通過が話題となったが、そのめったにない機会の一つが約140年前、1874年(明治7年)12月9日に訪れた。メキシコ政府は、自らの科学技術の高さを国際社会に示す絶好の機会であるとして、国内的には苦悩の時代ではあったが、観測に最も適したアジアに観測隊を送る英断を下した。当初、ディアス・コバルビアスを団長とする金星観測隊は、中国での観測を予定していたが、移動の途次、サンフランシスコで日本の領事の話を聞き、領事から横浜市への紹介状も得たことから中国行きを急遽変更して日本で観測することになった。開国直後の明治ほど日本が、海外から学ぶことに熱中した時代はない。メキシコの天体観測隊を乗せた船は、日本にとって200年に亘る鎖国後初めて迎える科学の黒船であった。

一行が横浜に到着した際、横浜税関長柳谷謙太郎氏は、即座に全面協力を約し、観測機器の船荷をほどくどころか一切検査せずに個人の荷物までその日のうちに通関の取り計らいをしてくれた。(「ディアス・コバルビアス日本旅行記」大垣貴志郎・坂東省次両氏訳)尚、柳谷謙太郎氏は柳谷謙介元外務次官の祖父にあたり、横浜税関長の後サンフランシスコの領事として条約改正に尽力された。明治政府は、外国人居留地外の滞在を認めなかった当時の政策にも拘らず、横浜野毛山に観測所の設営を認め、海軍士官らの応援を送り、できるだけの便宜を図った。開国後間もない新政府が、在外公館、外務本省、横浜税関等国内官庁間で示した迅速な連携プレイは見事というほかはない。

日本の対応にメキシコ側は深く感銘を受け、帰国後コバルビアスは日本人の優れた国民性を讃えて、日本との外交関係の樹立、日本人移住者の受け入れを政府に進言する等、後のメキシコの親日政策の伏線となった。観測隊が成功裏に観測を完了した後、田中不二麿文部大輔は「西欧列強が武力でアジアに進出している時、メキシコは科学の手を差し伸べてくれた」と感謝の辞を述べている。

9.メキシコから学ぶ
在メキシコ日本大使館が最近、対日世論調査を実施した。調査は回答を選択する方式で行った。その中で「あなたが有している日本人のイメージ如何」という質問に対する回答の選択肢に、肯定的な回答のみならず否定的な回答を入れて、より本音を聴取する試みを行った。結果は、「創造性がある、勤勉である」、といった肯定的評価に加えて、「理解困難、頭が固い、自己中心的」との否定的回答が少なからずあった。兄弟であるメキシコ人からの率直なコメントである。

今日まで我が国は、「島国であること」と「限りなく単一民族に近いこと」をその発展のよりどころとしてきたが、同時にこのことが対外的に「理解困難な日本人」のイメージ形成に繋がっているのではないかと思う。日本及び日本人をより良く理解してもらうため一層の努力と工夫が必要である。特に新興国との間で、こころざしのある多くの若い人材が積極的に交流できるよう、日本を外国人の住み易い社会に変えていかねばならない。前述したように我が国の対極にあり、また、共に非西欧の国として近代化の歴史を有するメキシコとの間で学び合うことも多いと考えている。(2012年9月18日記)