スー・チー女史と議会政治:アウン・サンの悲願達成に向けて

元在ミャンマー大使館参事官  熊田 徹

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ミャンマー シュエダゴン・パヤー

1988年のクーデター以来24年、昨年1月に発足したミャンマーの新議会は、今年4月の補欠選挙で圧勝したスー・チー女史以下42名のNLD議員を迎えて、新たな局面に入った。半世紀にわたったミャンマーの軍事政権に対して24年間、国際社会の支援を受けながら、いわば「外から」体制批判を続けてきた同女史達が、今度は体制側とともに議会という「同じ土俵」で、国政への参加を始めた。この新たな展開にミャンマー国民と国際社会の期待が向けられている。

議員就任宣誓式での躓き
4月23日の登院の直前、スー・チー女史と新議員達は憲法で定められた議員宣誓文の修正を求めて宣誓を拒んだ。この予想外の行動に同国政府国民はもちろん、国際社会も大いに気をもんだ。議会はすでに政治改革・経済開放推進のための法案を数千本も抱えていた。
報道によれば、宣誓文にある「憲法を順守」との文言を「憲法を尊重し」に変えなければ宣誓できないというのが拒否の理由だった。憲法に基づいて選ばれた議員が憲法規定を拒むのは明らかに矛盾である。 だが、現行憲法の非民主性を批判し、その改正を主張してきた立場からすれば、この宣誓が憲法改正を封じるものと解されたのかもしれない。しかし、改正には議員総数の4分の1を占める軍人票を含む75%の賛成を要し、重要事項はさらにその後の国民投票で過半数の賛成が必要だから容易ではないとしても、改正そのものは可能だから、理由はそれだけではなかったようである。

日本のほとんどの新聞は報道しなかったが、もう一つ問題があった。宣誓文は憲法遵守の文言に続けて、「ミャンマー連邦国家とその市民たる地位に忠誠を尽くし、連邦国家の分裂排除(non-disintegration of the Union)と国民的連帯の分裂排除・・のため常に献身する」と記している。過去24年間政権批判を続けてき、つい最近まで現政権を「圧政的軍事政権」と同一視してきた野党の立場からすれば、この「分裂排除」とのもって回った用語法が反対党弾圧の口実とみなされても、不思議ではない。いずれにせよ、種々やり取りの後5月2日にようやく宣誓が行われて一件落着した。

実は、この「国家の分裂排除」という特異な表現で示されている概念は現行憲法の中心命題であり、前文でも本文でも強調されている。そして、その達成こそが現政治体制の「正統性」の根拠となっている。それは植民地制の遺産ともいうべき「複合社会」ゆえの、ビルマ族と少数民族との間の不和抗争の歴史を反映したもので、第二次大戦中には日本が「ビルマ族」の独立を約束したのに対し連合国側は少数民族を味方につけ、国内が二分された。東西冷戦期にはこの分裂が「体制と反体制」間のイデオロギー的対立構造として引き継がれて、ミャンマーは東西双方からの公然、非公然の介入工作を受け、その際の心理工作や秘密性が史実の解釈や正統性判断をめぐる混乱をもたらした。体制側と反体制側との間のこの種の混乱は、現行憲法前文も触れているように、ミャンマー現代史上大小何度も生じて秩序の混乱や危機を助長し、あるいは改革の機会を妨げてきた。

たとえば、1962年のクーデターは、当時のミャンマー国軍の認識では、シャン族反乱分子の独立運動が当時のヴェトナム・ラオス問題と連動し、厳正中立国ミャンマーの「国家が分裂する危険」を「排除」するためだった。ニューヨーク・タイムズ紙は、ミャンマー国民も米国の世論と政府もこの無血クーデターを、中立を維持し、連邦の崩壊を防ぐだけでなく、麻のごとく乱れていた議会政治を封じ国家秩序を回複したとして歓迎している、と好意的に報道した。その2年後米国政府は、クーデターの指導者ネー・ウィンを国家元首として初めて公式に招待した。ところが、その後、一部のミャンマー現代史家達が全く異なる解釈を広めたため、世間はいつの間にかこのクーデターを権力欲に駆られた軍部の暴挙とみなすようになった。

1988年9月18日のクーデターについても、米国政府内部では軍事政権に対する人道的制裁の是非をめぐって、ミャンマーの歴史や人権遵守問題に関する見方が混乱したための政策的対立があったし、研究者の間でも類似の食い違いや混乱が見受けられる。一方、ミャンマー国内の体制側と反体制側の双方ともが、一党独裁制から複数政党制への切り替え意思という方向性においては一致していたことも事実である。しかし、いくつかの致命的な誤解や食い違いが重なって双方が対決し、軍の発砲で多くの血が流された。

このクーデター事件に関して忘れてならないのは、9月12日にスー・チー女史が学生達の主張する「外国からの援助や武装闘争」には断固反対との声明を出したことで、この彼女の非暴力主義が、ミャンマーが現在のシリアのような悲惨な内戦状態に陥るのを防いだのだといえる。

24年ぶりのスー・チー女史外遊
 スー・チー女史は、議員就任後まもなく、5月末から6日間のタイへの旅行と6月13日から17日間の欧州歴訪に出かけ、国際社会は24年ぶりとなる彼女のこの国外旅行を祝福し、その一部始終が報道された。同女史がこの外遊から大きな収穫を得たことは、同女史発言のはしはしからうかがえる。ヤンゴンからバンコクへの機上から初めて目にして衝撃を受けたと語った、両首都の夜景での灯りの輝きの違いや、国境地帯難民キャンプとミャンマー人出稼ぎ労働者達の生活ぶりの視察などを通じて、タイとの間の大きな経済格差を具体的に認識したことは、そのひとつといえよう。

6月1日にバンコクで開かれた世界経済フォーラム(WEF)東アジア会合に招かれた同女史は、その演説の中で、司法制度の改善不備などを挙げて改革の方向に不満の意を示した。また、経済特区の開発計画が国民の知らぬところで進められているのは国民和解の妨げになるなどと、手厳しい政権批判を行って、居並ぶ各国経済人達にミャンマーの経済開放についての安易な楽観主義を戒めた。だが一方、6日ヤンゴン空港での記者会見では、「政治、経済、社会のすべての面でタイと並ばなければ難民の帰国は実現しない」とも述べている。
欧州歴訪の皮切りとなった6月14日のILOでの演説では、「民主化を促す経済成長」への支援や「失業救済のための投資」を求めるなど、それまでの国際制裁一点張りともいえる硬直した立場から、開発重視の判断に切り替わっている。翌々日のオスロでのノーベル賞受賞演説では、「民族間和解」の必要を訴えて「国民(ネイション)としての精神」にも触れ、「ミャンマーでの平和の概念は、調和と全体性とを妨げる諸要因からの脱却にある」と説いた。この理念的表現は、あの議員誓約文の論理としっかり重なっている。軍人達の長い苦衷の時代からの脱却決意と、別の立場から将来に向けて抱き続けてきた希望とが融合したこの言葉が、平和賞受賞の21年後に発せられたことは、きわめて意義深い。

 一方で、今後に向けて気にかかることも多い。欧州歴訪の予定は事前に公表されていたが、タイへの旅行は政府との事前打ち合わせなしに女史周辺が独自に決めた日程を、タイ側が急な連絡であったにもかかわらず、何とか取りまとめたものらしく、ミャンマー、タイ両政府はだいぶ戸惑った様子が報道された。当初の予定ではWEF会合にはテイン・セイン大統領も出席し、その際タイ首相との間で経済特区協力協定に署名する予定だったが、急遽取りやめになった。
このことは、昨年8月のテイン・セイン大統領とスー・チー女史との「和解」後も、まだまだ両者間の意思疎通や調整のためのチャネルが整っていないことを示している。昔からミャンマー政治の特徴の一つは「パーソナリティー・ポリティックス」にあるとされ、今後のミャンマー政治の行方もひとえにこの二人の良好な信頼・協調関係如何にかかっていると見られているだけに、くれぐれも注意すべき点である。
与等と野党の関係にあるとはいえ、それぞれの周辺がよほど気を配って改善しないと、せっかく民主化改革への決意で結ばれた二人の間の「同志的信頼関係」が強化されるどころか、足の引っ張りあいで悪化する危険さえあるように思えてならない。

アウン・サンの悲願
スー・チー女史の父君で、ミャンマー国民から今でも建国の父と仰がれている故アウン・サンは、憲法制定会議を2週間後に控えていた1947年5月末、独立ビルマの国家像について演説し、ビルマ的民主主義、国家の統一と少数民族問題などに触れ、切々と国民の理解と努力を訴えた。暗殺される2ヶ月前だった。
彼は、当時の「経済的真実」からすれば、「資本家の民主主義」とは異なる「我々の民主主義」が求められるが、政治も経済も状況と共に変化するゆえ、それは「真の民主主義」の追求ということでもあると説明した。そして、少数民族問題の解決などを含め新しい主権国家への移行のための課題を8つ挙げた最後の項目として司法制度の改革に触れ、これらを満たさねば「真の民主主義」は達成できないと説いた。植民地時代の法制は三権分立でないだけでなく、親族関係に関するビルマ伝統法を別として、インド統治法制を機械的に移稙したものだった。とくに司法制度はミャンマーの伝統的社会秩序を完膚なきまで崩壊せしめた最大原因のひとつだった。

今年6月にスー・チー女史が、WEFバンコク会合で、「司法制度の改善不備」として現状批判を行ったのは、このアウン・サンの遺訓を踏まえてのことなのかもしれない。独立獲得以来今日までのミャンマーの政治体制にはその余裕がなかったのだろうが、やっと新議会でこのような法制不備の改善や「真の民主主義」に向けての努力を開始し得るようになった。

アウン・サンが演説の4分の1を費やした少数民族問題は、植民地時代からの分離政策による平野部「行政地区」の「ビルマ族」と(行政外の)山岳辺境部「後進地区」の多数の「非ビルマ少数民族」との間の敵対意識や「文明度格差」が、その後の外部介入で武力抗争化されたものであった。現行憲法はこれを「国民的連帯の分裂」と表現している。
大小20をこえる武装反乱組織との「内戦」が70年以上も続いたが、大方はすでに和解が進んで議会に代表を送っている。まだ解決していないのは、中国との国境地帯の麻薬がらみのカチン族とシャン州の複数の小支族、英国との特殊関係に固執して今日にいたったカレン族キリスト教徒、西部国境地域ラカイン州のモスレム(かつて分離独立運動を行っていた旧ムジャヒッヅを含む)などである。国軍は、これら武装組織との停戦合意とその国軍編入(国境警備隊など)を目指している。

いまだに中央政府への不信感を解いていないこれらの武装組織が調停役として日本の関与を求めたのに対し、今年6月、日本政府は笹川陽平氏を「少数民族大使」に委嘱してこれに応えた。1988年以降もずっと少数民族地域で業務を続けてきた国際協力機構(JICA)の地道な協力や、これから本格化するアジア開発銀行、世界銀行、「日本・メコン地域協力」などのプロジェクトによる道路その他の社会インフラ開発が、「文明度格差」是正を通じて、この調停プロセスを側面から支えることも大いに期待される。

昨年9月、当時の米国対ミャンマー特別代表兼政策調整官だったD.ミッチェル現駐ミャンマー大使は、テイン・セイン大統領と同大使が「民主主義、人権、開発、和解の4目標」を共有している旨を強調し、その際同大使は「制裁派の誤り」についても触れた。このことは、過去20数年間ミャンマーを国際社会から孤立させてきた制裁政策の是非、つまり事実解釈や正統性判断をめぐって米国内に長年存在してきた政策対立の問題がようやく解消しつつあることを意味する。わが国はもちろんだが、国際社会の大勢もやっとこの「4目標共有路線」に沿って動き始めている。そして、長年続いた国際マスコミからの圧力を警戒して対策が遅れていた、ミャンマー政府のマスコミ自由化も最近ようやく着手された。マスコミの健全化は、国民間の和解促進と新議会の効率的運営をより確かなものとするだろう。

現政権とスー・チー女史とが共有する、「調和と全体性とを妨げる諸要因からの脱却」への希望の実現、すなわちアウン・サンの悲願だった「真の民主主義」に向けての歩みは、ようやくその緒についたようである。

(2012年9月10日寄稿)

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