ナイジェリアからの四通の手紙
前駐オーストリア大使 元駐ナイジェリア大使 田中 映男
ウドマ・ウド・ウドマの手紙
懐かしい手紙ありがとう。ボクは約束通り2期で上院議員を退いて弁護士事務所に戻っていたが、昨年頼まれて民間企業の会長を引き受けた。ナイジェリア最大の製造業のコングロマリットだけど、無論無報酬だ。此の国に大規模製造業を根付かせて雇用を生み出したい。そういう大きな方針を打ち出した。まずナイジェリアの今を君に伝えよう。オバサンジョ大統領が2期で退いた後に、国外に不安を与える大統領が続いたから君は心配しただろうね。
経済成長と過激派
経済成長率は2003年から2010年まで年平均7.6%で、インフレは13%、2ケタの下の方だけど、失業率は残念ながら相変わらず3割を超える。
人口は1億6千7百万人まで増えたが青年の職は増えていない。国民の平均年齢が19、1歳だというのに!事務所の所在する南西部ラゴス州でも、選挙区のある南東部アクワ・イボム州でも、教育を終えず、機会を得ないまま犯罪に手を染める若者が多い。
上院議員時代に議員歳費を基に始めた貧困家庭への奨学金はまだ続けているよ。父が始めた企業弁護士事務所の仕事で十分やっていける。
貧困は犯罪の温床だけれど、南部石油産地で武装した少数民族の若者が石油企業と外人を誘拐する問題、更に昨年から目立つ北部各州のボコ・ハラムの跋扈はそれだけでは説明がつかないと思う。デルタ州など南部諸州には30年来多額の公的資金が流入しているのに、電機や水など基礎インフラも無い。原理主義者がカノなど北部の回教州で調教している少年と若者は全寮制のイスラーム学校でリクルートされている。そこには誇りと尊厳の問題があると思う。
今では国民の半分が街に暮らし、派手な西欧文明に引き寄せられているのに、貧乏な若者の手には入らない。例え大学を出ても職がない。見せつけるだけで消費文明をピシャリっと拒絶されている。人間の心理はそれならこちらから願い下げだ、となる。ボコ・ハラムは北の村々に伝わるイスラーム信仰ではない。教条主義的で、理屈っぽく、個人主義的で、遠く親元を離れて寄宿舎暮らしで長老の言う事も利かぬ。神のみが絶対の権威であれば、自分は何でも神と決める、選ぶという思い込みが強い。
「西欧風の教育はハラームだ(神聖にあらず)」と決めつければ、(西欧文明を)全否定するようで耳に心地良いのだ。シェイク・ハッサン(君と食事した全ナイジェリア回教徒連盟会長の大学者だ)は、コーランのどこにも「自爆すれば永遠の命が約束される」とは書いてないと言った。少年達を心酔させ、学校や警察、教会を爆破して廻ったユスフという男は、4人の妻たちと贅沢に耽ってベンツを運転していた。これでは回教を利用したビジネスだ。彼は死んだが後継者たちが集団を乗り回している。アルカイーダとの関係は判らないが一部の回教国から資金が流れている、と言うのが恐らく真相だろう。
石油と経済改革
1960年独立直後タファワ・バレア首相は、枕元に、初めて採掘した茶色の液体の入った小瓶を置き、これでこの国の将来は安心だと息を引き取ったけれど、石油が経済を振り廻しここまで政治と社会を難しくするとは予想もしなかったろう。石油採掘に依存する国家運営を続けて農耕意欲が衰え、耕作率は3割まで下がった。どこに行っても見渡す限り平坦な土地が放置されている。独立までの穀物輸出国が今では輸入国だ。
原油生産量(日産2,2百万バレル)は、少数民族のパイプ破壊や誘拐など問題は山積していても、実は英米蘭企業が「国有化を一度も口にした事の無いナイジェリアを評価」しているから増産が続くだろう。随伴ガスの生産と液化では日本企業も参入の機会はあるのでは。石油産業は、透明化と製品自給率向上が課題だが、民政移管12年でどれだけ進捗したか、といえば遅いとしか言いようがない。非石油産業について言えば、助成策の効果と外資導入のお陰で、或る程度成長し多様化した。しかし連邦政府も州政府もまだ石油に依存している。連邦政府は36ある州政府と収入を折半している。
36州を更に6つのゾーン(政治利益地域配分)に分け、予算だけでなく大臣ポストも大使ポストも公平に分けている。何と言うか、パイの大きさ(GDP10年で倍)より分配の方に関心が集中するんだ、此の国の国民性は。ビアフラ戦争で3百万人の犠牲を払った国民は、地域配分の「公正さ」を憲法より重視する。
今ボクに出来る事は実業家として国の経済の基盤を築くことだと思う。経済インフラ整備と改革の続行については現政権の努力を注視する。5年前ボクは議会に居てオバサンジョ大統領の経済改革、民営化を助けた。あの頃アベオクタの大統領の私邸で君やエル・ルーファイ首都圏相と良く出逢って、三人でいろんな事を相談したネ。君は外交団の窓口だった。北部の貧しい出だけれど節を曲げないルーファイが、オバサンジョの参謀として政治配慮を外して容赦なく立案した改革パッケージだから、ボクも議会で政府を支えた訳だ。
ンゴジ(オコンジョ・イウエアラ蔵相)やオビ(エゼクウエシリ教育相)など世銀がUNDPの資金で送りこんだ経済改革チームの女性達も、献金を受け取らないから政治家に嫌われた。選挙資金はいらないからね。勇気のあるドラ(アキュンユイリ食品薬品規制庁長官)など、全国の市場でニセ薬の山を燃やしたから、追い詰められた企業から自宅に放火されヒットマンを送りこまれた。娘の手を引いて屋上に逃げたら、そこに「突然現れた警官に射たれた」ほどだ。当時流通する薬の8割までがニセモノで、ドラの妹もそれで死んだそうだ。ドラは妥協せず腐敗せず業者に憎まれたのだ。ボクは君も知る通り、政治活動は自分で賄うから、一切金を受け取らない。現金を詰め込んで膨れた麻のガーナ・バッグを全議員宿舎に配って廻る政治家も、ボクの宿舎の前だけは「疫病神の如く」避けて通っていた。
かつて、シラック大統領とブッシュ大統領を説得して2006年にパリ・クラブから公的債務のライトオフ120億ドルを取り付けた手腕を持つ、ンゴジがジョナサン大統領に請われて蔵相に戻ったよ。ビアフラ内戦の時、高熱の妹を背中に縛り付けて病院まで20キロの路を走り抜き、(待合室に数千人の患者が寝ていたので)4階の医者の部屋まで外壁を登攀して医師に直訴した逸話を持つ程の彼女の強い意志と、世銀副総裁の時の国際金融界人脈が再び役立つよう祈る。彼女の率いる改革チームを大統領がどこまで支えるかに今後は掛っているね。エル・ルーファイはハーバードで学位を取った後戻って政策を批判的に分析する研究所を立ち上げた。与党はボコ・ハラム跋扈を汚職事件の隠れ蓑に利用している、と近頃批判しているよ。
オバサンジョは自ら選んだ後継ヤラドゥアが病死して、政治基盤を持たないジョナサンが継いだ時汗をかいたが、昨年4月の選挙で彼が当選して安堵したようだ。ボクは2007年の時、大統領の取り巻きが憲法を改正して三選を目論んだのに強く反対して以来与党から声がかからないね。大統領より、州知事が問題なんだ。取り巻きは自分が三選したかったんだ。二選した現職に敵う対立候補などいない。憲法を変えてオバサンジョの経済改革を続けたとしても、国庫の5割を分配する特権を握る州知事が三選されて個人的な富を一層増大させるような事があちこちで起きれば、社会の不満はとても尖鋭化しただろう。
30年間で8回に及ぶクーデターの後で、12年間のオバサンジョの民主主義定着の実績は認めるけれど、これからは正に政治家が国民に民主主義の配当を分配しなくてはいけない。
ナイジェリアの今後
君はボクに此の国の将来を聞いた。当時君の公邸で日本の財務省のエライ人に紹介された時にも言ったけれど、ボクは断然オプティミスティックな見方を取る。アフリカ大陸の中の地政学的な状況を見れば、人口でも経済力でも、ナイジェリアがリーダーシップを取らなくて誰が取るのかね? 西アフリカ共同体から始めて大陸全体に経済的影響力を及ぼして利益を与え、大陸全体の発展を図るんだ。他にアフリカが希望を持つシナリオは描けない。
見るべきポイントは、軍事的安定とエネルギー、それに食料供給でナイジェリアが自給を達成し、西アフリカ共同体と協力出来るかだ。ナイジェリアは近隣国、周辺国の兄貴分として自覚と責任がある。これはどの政党も共通している。
プロフェッサー・ボゴロの手紙
地方政治の実態
バウチ州ではあなたの友達だったムアズ前知事が去って、多くの事が変わりました。農場から町まで彼が舗装した道は崩れ、代わりに新知事の友人の路が建設されています。政治にも雨季と乾季があって、その改善には年数が必要なようです。北の貧しい暮らしに変わりはありません。子供は裸足で畑仕事、遠くの河や沼から片道二時間かけて水を運んで親を助けます。食べ物はあるのですが、学校に行けません。自分も貧しく育ったムアズは、タファワ・バレア初代首相を尊敬して、教育に力を注いで呉れました。オバサンジョ大統領の力を背景にして経済改革を州レベルで進めて業績を上げました。大統領後継者に擬せられた事もありましたね。多数の学校と住宅を公費で建設しました。公設市場も整備しました。他の州知事のように豪華な私邸を各地に立てて妻たちを住ませる事はしませんでした。それはわたしの目から見れば、立派でしたが、残念ながら二期で退いて、彼の選んだ後継者は選挙で現知事に敗れました。現知事の方が満遍なく食べさせたからだと言われます。有権者はここでは、目の前の一椀の粥、一枚の紙幣に忠実を誓うのです。食べさせてくれる人がご主人です。南部イバダンの政治ボスとして高名なラミドゥは、文盲で高齢ですが、毎朝自宅で二千人に粥を振る舞うから、人望があります。イバダン・マーケットを歩けば声が掛り、贈り物の鶏が降ると歌われます。だから彼の決めた候補が市長や議員に当選するのです。
教育と政治改革
あなたはわたしに此の国の将来を聞きます。わたしは楽観的です。ボゴロ族は人口50万に満たぬ北部の少数民族です。全国に200以上ある主要民族とは比べるべくもありません。だから部族の皆が少しづつ、食事を節約して力を合せ私を大学に送ったのです。初めての大卒です。だからこそ教育の持つ社会的インパクトが実感できるのです。ムアズの功績が見えたのです。わたしは今もバウチ州立大学で教えています。教員養成です(神の御加護で新知事はわたしの教え子にも教職を与えてくれます)。英国の残した遺産のうち、教育と司法は質が良かったと言えるでしょう。わたしの先生も立派な方でした。でも40年経つと待遇が変わり、給料も遅配して質が劣化したのです。毎年わたしの教え子はバウチ州の小学校に散って行きます。そこで読み書きに加え、国民意識を教えています。もう南北の利益分配の時代を終わらせなければなりません。
加えて私は、ナイジェリア人の政治意識を育てる運動を始めたのですよ!選挙の時だけでなく、その前から意識して候補者と政党の主張、活動をウオッチする習慣を付けるのです。去年の選挙の際、本物の自由で、自主的な選挙を体験させたいと決意して、ボランティア組織『穏やかな選挙をナイジェリアに国民連盟』(NAPANナパン)を立ち上げました。百ナイラ札と棍棒でなく、自分の頭で考えてから投票所に向かおう、投票した後も結果を見届けようと呼び掛けています。昨年の選挙の後、野党が利益誘導で切り崩されて政権党ばかりが肥大するのに反対の論陣を張っています。多少効果はありました。反響は小さくなくて、欧米紙の特派員のインタビューを受け、新聞にナパンの活動が取り上げられました。
水の問題
最後に農業用水と生活用水の件ですが、どちらもあなたのイニシアティブは活かされて、ナイジェリア人のNPOが活動を続けています。稲作をするヌペ族の田では日本式の簡易灌漑農法が普及しています。北朝鮮の農業専門家はもう居ないようです。飲用水についてカーター財団に照会したところ、寄生虫が流行する村落内に井戸を掘り、沼に薬を散布し続けた結果、飲み水を媒介にするギニア・ワーム寄生虫はここ2年ナイジェリアでは症例が無いそうです。
ワンリ・アキンボボイエの手紙
ナイジェリアの可能性とベンチャービジネス
街は雨季で下水溝が溢れ、道は茶色のプールみたいだ。車が通るたび頭から水を浴びる。アキオの知っているラゴスは全然変わらない、残念だけど。尤も、君は40年前のラゴスを知っていて、空港までの路も橋も雑踏も変わらないと言ってボクを驚かせた。もっと驚いたのは無論三年前君を訪ねて日本を見て回った時の事さ。ショックを受けた。人はここまで完璧に、綺麗に出来る!
さて、君の質問に答えよう。この国の将来を聞かれたが、ボクは、輝く様な可能性に満ちていると確信しているね。ラゴスの街の雑踏を見てくれ。路肩で、人ごみで、空き地で、あらゆる場所であらゆる物が、ピストルから便座まで売られ、盗まれ、追い掛けられているじゃないか。人の汗と怒号と駆け足の音がもしGNPの先行指標だとしたら、ラゴスは世界一だ。ボクは米国留学から帰国してナイジェリアをじっくり見て考えた。何をしようか。可能性があって、国民に合っているのが観光と芸能と警備だ、これからのビジネス・チャンスだと判断して会社を立ち上げた。ラゴスのプライベート・ビーチにホテルを、市内にクラブ・レストランを建てた。そこで客に演劇と音楽ショーを見せるために劇団と楽団を作った。メンバーは全員(歌手を除いて)ボクがラゴスの路上で見付けて、厳しく躾けてから音楽と演劇を修練させた若者だ。
昨日までは家もない乞食でも今じゃ礼儀正しいだろう?地面に顔を付け、両の拳で胸を支え、つま先だけで体を支え、キミの言う「腕立て伏せがつぶされたような格好」でグッドモーニングと挨拶しただろう。あれが南部の伝統的な最高のお辞儀で、王族への挨拶だ。あれが出来るから、彼等は座っても立っても見事な挨拶をする。何処へ出しても恥ずかしくない連中で、ぼくの自慢だ。日本からもツアーが来ると思う、いつか。警備会社は別に創業した。益々多くの銀行から現金輸送を委託されている。政治家の防弾車の改造も利益を出す。警備員は軍隊の秩序で訓練し昇進させている。要人警備と現金輸送では強盗団と銃撃戦を交わすから、最高の防弾設備を施した車両に、催涙弾ミサイルを発射出来る床下機銃座を付けて運転させる。惜しまず実弾射撃訓練を繰り返し、射撃戦なら「絶対に勝つ」水準まで腕を磨いてあるから、街の不良共から一目置かれている。昇進は給与に反映して、雇用年数に応じた住宅資金の低利融資制度も作った。皆が制度があると知っている事、いつかは自分も恩恵に与ると思う事が大事なんだ。士気が高いだろう。
ところで女性歌手のアラを日本に連れて行きたい。とてもスピリチュアルだろう。伝統楽器トーキング・ドラムを女性で初めて、長老から学んだことがキッカケだな。ラゴス大学の法学部卒なのに、ヨルバ族の魂を歌いたいという。有名になってユネスコにパリまで呼ばれたり、米国で有名歌手とレコーディングしてるけど、何故かどんどん謙虚になるんだ。舞台で伝統の音に浸るほどそうなるらしい。日本人の心に通じる何かがあると思わないか?
ナイジェリアと日本の文化の共通点
そこでボクはアラが主演する戯曲を作った。君は見たね。史実に基づく奴隷王子の流離譚だ。ヨルバ族に伝わる伝統や芸能には日本と似たものがある。日本のお祭りに似た祭りもある。「イファ占い」は左手の中に握りこんだナッツを右手で八回掴み、そこに現れる偶数奇数の八位置を記し、64種類のパターン毎に伝わる詩章を術者が歌いながら占うから、日本の筮竹八卦に似ていると思う。年功序列が重んじられる日本では今でも村の長老が若い者の話を、祭りの夜などに聞く、というがナイジェリアでも同じだ。相談でも、取り調べでもない、唯長老が集まって茶を飲みながら、ゆっくり時間をかけて耳を傾けると、いつの間にか村の揉め事は皆解決しているんだ。
三重県で見た上げ馬神事は、その結果でその年の豊作凶作を占うけど、ナイジェリア北部では伝統的首長エミールの王宮の前で3、4百頭の馬を責めてダーバという馬比べ神事をして占う。似ているね。そんな類似点が多いから、日本の長島温泉で見た七色の温泉と遊園地の複合観光施設をぜひラゴスにも作りたいと計画している。最後に、ボクの娘ニフェは7歳になった。君さえ良ければいつでも第二夫人として嫁に出すつもりで磨いているのを忘れないで欲しい。
プリンス・ジェリーの手紙
ナイジェリアの暮らし
わたしの暮らしは相変わらずです。火事で家が燃えてしまった後、アブジャ郊外に掘立小屋を建て、妻と赤子の3人、汲んで来た水で米を炊き、干し魚と少しの野菜で汁を作り親子水入らずの暮らしです。俳句や詩では食べられないけど、広告宣伝の方で時折収入があります。
小学校訪問と俳句コンテスト
あなたと小学校を廻って英語俳句コンクールを開催したことは今でも嬉しい記憶です。警備に神経質な小学校を12も廻れた事が驚きでした。校門で待ち受けて国旗を振り、歌と踊りで歓迎してくれた生徒たちを思い出すと、この国もまだまだ捨てたものではないと思えます。耳を澄まし、一言も聞き逃さないと食い入るような瞳を大使に当て、一心にメモを取る姿は、努力をすれば報われるんだ、という信仰を感じさせました。一体何歳であの子らが、人生に希望を捨て世の中は運とコネだと思ってしまうのか、残念な気がしてならないのです。
コンクールで第一席に入選した句は、砂粒の混じるじゃりじゃりした粉食や硬い玉蜀黍を常食にする子が、たまに食べる米飯の満足感を素直に表現したものでした。
eating a plate of rice/コメ食うて
makes me feel/ボクは世界の
I own the world/親方や(ビクター・テヒルメン)
ナイジェリア・ハイク・ソサエティはお陰で会員が増え、日本俳句協会からも認定を受ける事が出来ました。感謝しています。それから立て替えて頂いた、日本俳句協会の入会費については今しばらく待ってください。どうぞお元気で。 (2012年7月30日寄稿)
懐かしい手紙ありがとう。ボクは約束通り2期で上院議員を退いて弁護士事務所に戻っていたが、昨年頼まれて民間企業の会長を引き受けた。ナイジェリア最大の製造業のコングロマリットだけど、無論無報酬だ。此の国に大規模製造業を根付かせて雇用を生み出したい。そういう大きな方針を打ち出した。まずナイジェリアの今を君に伝えよう。オバサンジョ大統領が2期で退いた後に、国外に不安を与える大統領が続いたから君は心配しただろうね。
経済成長と過激派
経済成長率は2003年から2010年まで年平均7.6%で、インフレは13%、2ケタの下の方だけど、失業率は残念ながら相変わらず3割を超える。
人口は1億6千7百万人まで増えたが青年の職は増えていない。国民の平均年齢が19、1歳だというのに!事務所の所在する南西部ラゴス州でも、選挙区のある南東部アクワ・イボム州でも、教育を終えず、機会を得ないまま犯罪に手を染める若者が多い。
上院議員時代に議員歳費を基に始めた貧困家庭への奨学金はまだ続けているよ。父が始めた企業弁護士事務所の仕事で十分やっていける。
貧困は犯罪の温床だけれど、南部石油産地で武装した少数民族の若者が石油企業と外人を誘拐する問題、更に昨年から目立つ北部各州のボコ・ハラムの跋扈はそれだけでは説明がつかないと思う。デルタ州など南部諸州には30年来多額の公的資金が流入しているのに、電機や水など基礎インフラも無い。原理主義者がカノなど北部の回教州で調教している少年と若者は全寮制のイスラーム学校でリクルートされている。そこには誇りと尊厳の問題があると思う。
今では国民の半分が街に暮らし、派手な西欧文明に引き寄せられているのに、貧乏な若者の手には入らない。例え大学を出ても職がない。見せつけるだけで消費文明をピシャリっと拒絶されている。人間の心理はそれならこちらから願い下げだ、となる。ボコ・ハラムは北の村々に伝わるイスラーム信仰ではない。教条主義的で、理屈っぽく、個人主義的で、遠く親元を離れて寄宿舎暮らしで長老の言う事も利かぬ。神のみが絶対の権威であれば、自分は何でも神と決める、選ぶという思い込みが強い。
「西欧風の教育はハラームだ(神聖にあらず)」と決めつければ、(西欧文明を)全否定するようで耳に心地良いのだ。シェイク・ハッサン(君と食事した全ナイジェリア回教徒連盟会長の大学者だ)は、コーランのどこにも「自爆すれば永遠の命が約束される」とは書いてないと言った。少年達を心酔させ、学校や警察、教会を爆破して廻ったユスフという男は、4人の妻たちと贅沢に耽ってベンツを運転していた。これでは回教を利用したビジネスだ。彼は死んだが後継者たちが集団を乗り回している。アルカイーダとの関係は判らないが一部の回教国から資金が流れている、と言うのが恐らく真相だろう。
石油と経済改革
1960年独立直後タファワ・バレア首相は、枕元に、初めて採掘した茶色の液体の入った小瓶を置き、これでこの国の将来は安心だと息を引き取ったけれど、石油が経済を振り廻しここまで政治と社会を難しくするとは予想もしなかったろう。石油採掘に依存する国家運営を続けて農耕意欲が衰え、耕作率は3割まで下がった。どこに行っても見渡す限り平坦な土地が放置されている。独立までの穀物輸出国が今では輸入国だ。
原油生産量(日産2,2百万バレル)は、少数民族のパイプ破壊や誘拐など問題は山積していても、実は英米蘭企業が「国有化を一度も口にした事の無いナイジェリアを評価」しているから増産が続くだろう。随伴ガスの生産と液化では日本企業も参入の機会はあるのでは。石油産業は、透明化と製品自給率向上が課題だが、民政移管12年でどれだけ進捗したか、といえば遅いとしか言いようがない。非石油産業について言えば、助成策の効果と外資導入のお陰で、或る程度成長し多様化した。しかし連邦政府も州政府もまだ石油に依存している。連邦政府は36ある州政府と収入を折半している。
36州を更に6つのゾーン(政治利益地域配分)に分け、予算だけでなく大臣ポストも大使ポストも公平に分けている。何と言うか、パイの大きさ(GDP10年で倍)より分配の方に関心が集中するんだ、此の国の国民性は。ビアフラ戦争で3百万人の犠牲を払った国民は、地域配分の「公正さ」を憲法より重視する。
今ボクに出来る事は実業家として国の経済の基盤を築くことだと思う。経済インフラ整備と改革の続行については現政権の努力を注視する。5年前ボクは議会に居てオバサンジョ大統領の経済改革、民営化を助けた。あの頃アベオクタの大統領の私邸で君やエル・ルーファイ首都圏相と良く出逢って、三人でいろんな事を相談したネ。君は外交団の窓口だった。北部の貧しい出だけれど節を曲げないルーファイが、オバサンジョの参謀として政治配慮を外して容赦なく立案した改革パッケージだから、ボクも議会で政府を支えた訳だ。
ンゴジ(オコンジョ・イウエアラ蔵相)やオビ(エゼクウエシリ教育相)など世銀がUNDPの資金で送りこんだ経済改革チームの女性達も、献金を受け取らないから政治家に嫌われた。選挙資金はいらないからね。勇気のあるドラ(アキュンユイリ食品薬品規制庁長官)など、全国の市場でニセ薬の山を燃やしたから、追い詰められた企業から自宅に放火されヒットマンを送りこまれた。娘の手を引いて屋上に逃げたら、そこに「突然現れた警官に射たれた」ほどだ。当時流通する薬の8割までがニセモノで、ドラの妹もそれで死んだそうだ。ドラは妥協せず腐敗せず業者に憎まれたのだ。ボクは君も知る通り、政治活動は自分で賄うから、一切金を受け取らない。現金を詰め込んで膨れた麻のガーナ・バッグを全議員宿舎に配って廻る政治家も、ボクの宿舎の前だけは「疫病神の如く」避けて通っていた。
かつて、シラック大統領とブッシュ大統領を説得して2006年にパリ・クラブから公的債務のライトオフ120億ドルを取り付けた手腕を持つ、ンゴジがジョナサン大統領に請われて蔵相に戻ったよ。ビアフラ内戦の時、高熱の妹を背中に縛り付けて病院まで20キロの路を走り抜き、(待合室に数千人の患者が寝ていたので)4階の医者の部屋まで外壁を登攀して医師に直訴した逸話を持つ程の彼女の強い意志と、世銀副総裁の時の国際金融界人脈が再び役立つよう祈る。彼女の率いる改革チームを大統領がどこまで支えるかに今後は掛っているね。エル・ルーファイはハーバードで学位を取った後戻って政策を批判的に分析する研究所を立ち上げた。与党はボコ・ハラム跋扈を汚職事件の隠れ蓑に利用している、と近頃批判しているよ。
オバサンジョは自ら選んだ後継ヤラドゥアが病死して、政治基盤を持たないジョナサンが継いだ時汗をかいたが、昨年4月の選挙で彼が当選して安堵したようだ。ボクは2007年の時、大統領の取り巻きが憲法を改正して三選を目論んだのに強く反対して以来与党から声がかからないね。大統領より、州知事が問題なんだ。取り巻きは自分が三選したかったんだ。二選した現職に敵う対立候補などいない。憲法を変えてオバサンジョの経済改革を続けたとしても、国庫の5割を分配する特権を握る州知事が三選されて個人的な富を一層増大させるような事があちこちで起きれば、社会の不満はとても尖鋭化しただろう。
30年間で8回に及ぶクーデターの後で、12年間のオバサンジョの民主主義定着の実績は認めるけれど、これからは正に政治家が国民に民主主義の配当を分配しなくてはいけない。
ナイジェリアの今後
君はボクに此の国の将来を聞いた。当時君の公邸で日本の財務省のエライ人に紹介された時にも言ったけれど、ボクは断然オプティミスティックな見方を取る。アフリカ大陸の中の地政学的な状況を見れば、人口でも経済力でも、ナイジェリアがリーダーシップを取らなくて誰が取るのかね? 西アフリカ共同体から始めて大陸全体に経済的影響力を及ぼして利益を与え、大陸全体の発展を図るんだ。他にアフリカが希望を持つシナリオは描けない。
見るべきポイントは、軍事的安定とエネルギー、それに食料供給でナイジェリアが自給を達成し、西アフリカ共同体と協力出来るかだ。ナイジェリアは近隣国、周辺国の兄貴分として自覚と責任がある。これはどの政党も共通している。
プロフェッサー・ボゴロの手紙
地方政治の実態
バウチ州ではあなたの友達だったムアズ前知事が去って、多くの事が変わりました。農場から町まで彼が舗装した道は崩れ、代わりに新知事の友人の路が建設されています。政治にも雨季と乾季があって、その改善には年数が必要なようです。北の貧しい暮らしに変わりはありません。子供は裸足で畑仕事、遠くの河や沼から片道二時間かけて水を運んで親を助けます。食べ物はあるのですが、学校に行けません。自分も貧しく育ったムアズは、タファワ・バレア初代首相を尊敬して、教育に力を注いで呉れました。オバサンジョ大統領の力を背景にして経済改革を州レベルで進めて業績を上げました。大統領後継者に擬せられた事もありましたね。多数の学校と住宅を公費で建設しました。公設市場も整備しました。他の州知事のように豪華な私邸を各地に立てて妻たちを住ませる事はしませんでした。それはわたしの目から見れば、立派でしたが、残念ながら二期で退いて、彼の選んだ後継者は選挙で現知事に敗れました。現知事の方が満遍なく食べさせたからだと言われます。有権者はここでは、目の前の一椀の粥、一枚の紙幣に忠実を誓うのです。食べさせてくれる人がご主人です。南部イバダンの政治ボスとして高名なラミドゥは、文盲で高齢ですが、毎朝自宅で二千人に粥を振る舞うから、人望があります。イバダン・マーケットを歩けば声が掛り、贈り物の鶏が降ると歌われます。だから彼の決めた候補が市長や議員に当選するのです。
教育と政治改革
あなたはわたしに此の国の将来を聞きます。わたしは楽観的です。ボゴロ族は人口50万に満たぬ北部の少数民族です。全国に200以上ある主要民族とは比べるべくもありません。だから部族の皆が少しづつ、食事を節約して力を合せ私を大学に送ったのです。初めての大卒です。だからこそ教育の持つ社会的インパクトが実感できるのです。ムアズの功績が見えたのです。わたしは今もバウチ州立大学で教えています。教員養成です(神の御加護で新知事はわたしの教え子にも教職を与えてくれます)。英国の残した遺産のうち、教育と司法は質が良かったと言えるでしょう。わたしの先生も立派な方でした。でも40年経つと待遇が変わり、給料も遅配して質が劣化したのです。毎年わたしの教え子はバウチ州の小学校に散って行きます。そこで読み書きに加え、国民意識を教えています。もう南北の利益分配の時代を終わらせなければなりません。
加えて私は、ナイジェリア人の政治意識を育てる運動を始めたのですよ!選挙の時だけでなく、その前から意識して候補者と政党の主張、活動をウオッチする習慣を付けるのです。去年の選挙の際、本物の自由で、自主的な選挙を体験させたいと決意して、ボランティア組織『穏やかな選挙をナイジェリアに国民連盟』(NAPANナパン)を立ち上げました。百ナイラ札と棍棒でなく、自分の頭で考えてから投票所に向かおう、投票した後も結果を見届けようと呼び掛けています。昨年の選挙の後、野党が利益誘導で切り崩されて政権党ばかりが肥大するのに反対の論陣を張っています。多少効果はありました。反響は小さくなくて、欧米紙の特派員のインタビューを受け、新聞にナパンの活動が取り上げられました。
水の問題
最後に農業用水と生活用水の件ですが、どちらもあなたのイニシアティブは活かされて、ナイジェリア人のNPOが活動を続けています。稲作をするヌペ族の田では日本式の簡易灌漑農法が普及しています。北朝鮮の農業専門家はもう居ないようです。飲用水についてカーター財団に照会したところ、寄生虫が流行する村落内に井戸を掘り、沼に薬を散布し続けた結果、飲み水を媒介にするギニア・ワーム寄生虫はここ2年ナイジェリアでは症例が無いそうです。
ワンリ・アキンボボイエの手紙
ナイジェリアの可能性とベンチャービジネス
街は雨季で下水溝が溢れ、道は茶色のプールみたいだ。車が通るたび頭から水を浴びる。アキオの知っているラゴスは全然変わらない、残念だけど。尤も、君は40年前のラゴスを知っていて、空港までの路も橋も雑踏も変わらないと言ってボクを驚かせた。もっと驚いたのは無論三年前君を訪ねて日本を見て回った時の事さ。ショックを受けた。人はここまで完璧に、綺麗に出来る!
さて、君の質問に答えよう。この国の将来を聞かれたが、ボクは、輝く様な可能性に満ちていると確信しているね。ラゴスの街の雑踏を見てくれ。路肩で、人ごみで、空き地で、あらゆる場所であらゆる物が、ピストルから便座まで売られ、盗まれ、追い掛けられているじゃないか。人の汗と怒号と駆け足の音がもしGNPの先行指標だとしたら、ラゴスは世界一だ。ボクは米国留学から帰国してナイジェリアをじっくり見て考えた。何をしようか。可能性があって、国民に合っているのが観光と芸能と警備だ、これからのビジネス・チャンスだと判断して会社を立ち上げた。ラゴスのプライベート・ビーチにホテルを、市内にクラブ・レストランを建てた。そこで客に演劇と音楽ショーを見せるために劇団と楽団を作った。メンバーは全員(歌手を除いて)ボクがラゴスの路上で見付けて、厳しく躾けてから音楽と演劇を修練させた若者だ。
昨日までは家もない乞食でも今じゃ礼儀正しいだろう?地面に顔を付け、両の拳で胸を支え、つま先だけで体を支え、キミの言う「腕立て伏せがつぶされたような格好」でグッドモーニングと挨拶しただろう。あれが南部の伝統的な最高のお辞儀で、王族への挨拶だ。あれが出来るから、彼等は座っても立っても見事な挨拶をする。何処へ出しても恥ずかしくない連中で、ぼくの自慢だ。日本からもツアーが来ると思う、いつか。警備会社は別に創業した。益々多くの銀行から現金輸送を委託されている。政治家の防弾車の改造も利益を出す。警備員は軍隊の秩序で訓練し昇進させている。要人警備と現金輸送では強盗団と銃撃戦を交わすから、最高の防弾設備を施した車両に、催涙弾ミサイルを発射出来る床下機銃座を付けて運転させる。惜しまず実弾射撃訓練を繰り返し、射撃戦なら「絶対に勝つ」水準まで腕を磨いてあるから、街の不良共から一目置かれている。昇進は給与に反映して、雇用年数に応じた住宅資金の低利融資制度も作った。皆が制度があると知っている事、いつかは自分も恩恵に与ると思う事が大事なんだ。士気が高いだろう。
ところで女性歌手のアラを日本に連れて行きたい。とてもスピリチュアルだろう。伝統楽器トーキング・ドラムを女性で初めて、長老から学んだことがキッカケだな。ラゴス大学の法学部卒なのに、ヨルバ族の魂を歌いたいという。有名になってユネスコにパリまで呼ばれたり、米国で有名歌手とレコーディングしてるけど、何故かどんどん謙虚になるんだ。舞台で伝統の音に浸るほどそうなるらしい。日本人の心に通じる何かがあると思わないか?
ナイジェリアと日本の文化の共通点
そこでボクはアラが主演する戯曲を作った。君は見たね。史実に基づく奴隷王子の流離譚だ。ヨルバ族に伝わる伝統や芸能には日本と似たものがある。日本のお祭りに似た祭りもある。「イファ占い」は左手の中に握りこんだナッツを右手で八回掴み、そこに現れる偶数奇数の八位置を記し、64種類のパターン毎に伝わる詩章を術者が歌いながら占うから、日本の筮竹八卦に似ていると思う。年功序列が重んじられる日本では今でも村の長老が若い者の話を、祭りの夜などに聞く、というがナイジェリアでも同じだ。相談でも、取り調べでもない、唯長老が集まって茶を飲みながら、ゆっくり時間をかけて耳を傾けると、いつの間にか村の揉め事は皆解決しているんだ。
三重県で見た上げ馬神事は、その結果でその年の豊作凶作を占うけど、ナイジェリア北部では伝統的首長エミールの王宮の前で3、4百頭の馬を責めてダーバという馬比べ神事をして占う。似ているね。そんな類似点が多いから、日本の長島温泉で見た七色の温泉と遊園地の複合観光施設をぜひラゴスにも作りたいと計画している。最後に、ボクの娘ニフェは7歳になった。君さえ良ければいつでも第二夫人として嫁に出すつもりで磨いているのを忘れないで欲しい。
プリンス・ジェリーの手紙
ナイジェリアの暮らし
わたしの暮らしは相変わらずです。火事で家が燃えてしまった後、アブジャ郊外に掘立小屋を建て、妻と赤子の3人、汲んで来た水で米を炊き、干し魚と少しの野菜で汁を作り親子水入らずの暮らしです。俳句や詩では食べられないけど、広告宣伝の方で時折収入があります。
小学校訪問と俳句コンテスト
あなたと小学校を廻って英語俳句コンクールを開催したことは今でも嬉しい記憶です。警備に神経質な小学校を12も廻れた事が驚きでした。校門で待ち受けて国旗を振り、歌と踊りで歓迎してくれた生徒たちを思い出すと、この国もまだまだ捨てたものではないと思えます。耳を澄まし、一言も聞き逃さないと食い入るような瞳を大使に当て、一心にメモを取る姿は、努力をすれば報われるんだ、という信仰を感じさせました。一体何歳であの子らが、人生に希望を捨て世の中は運とコネだと思ってしまうのか、残念な気がしてならないのです。
コンクールで第一席に入選した句は、砂粒の混じるじゃりじゃりした粉食や硬い玉蜀黍を常食にする子が、たまに食べる米飯の満足感を素直に表現したものでした。
eating a plate of rice/コメ食うて
makes me feel/ボクは世界の
I own the world/親方や(ビクター・テヒルメン)
ナイジェリア・ハイク・ソサエティはお陰で会員が増え、日本俳句協会からも認定を受ける事が出来ました。感謝しています。それから立て替えて頂いた、日本俳句協会の入会費については今しばらく待ってください。どうぞお元気で。 (2012年7月30日寄稿)