復興発信使からの報告

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           日本国際放送特別専門委員 高島肇久

はじめに
2012年2月から3月にかけて、日本から20人の「復興発信使」が世界14か国22都市に派遣された。顔ぶれは大学教授、NGOスタッフ、地方公務員、シンクタンク研究員など様々で、中には仙台を拠点とするカナダ人と日本人の J-popバンド「Monkey Majik」のメンバー4人もいた。派遣元は外務省。東日本大震災で世界から寄せられた支援に対してそれぞれの言葉で感謝の気持ちを伝えると共に、復興に向けて頑張る日本を紹介してもらおうと委嘱したものだ。

この内「Monkey Majik」の4人は仙台で大震災に遭遇したが幸い全員無事で、直後からボランティア活動を続けると共に被災者支援のチャリティ・コンサートを何回も開き、内外から高く評価されている。今回はカナダ側からも強い働きかけもあって「復興発信使」の委嘱を受けたということで、2月19日、21日にトロントとオタワで無料コンサートを行い、被災地での経験を分かち合うと共に、音楽を通じて世界との絆を強めてこられた。

本稿の筆者は日本の情報を世界に発信するテレビ国際放送の仕事に携わっている他、外務省の外務報道官として日本外交のスポークスマン役を務めたことがあるという理由で「復興発信使」の委嘱を受け、マレーシアとフィリピンを訪問した。訪れたのはクアラルンプールとマニラで、講演会、メディア・インタビュー、ラジオ・テレビ番組への出演等を通じて、東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所事故関連の最新情報を伝えると共に、被災地での私自身の見聞をもとに、住民、地域社会、そして企業が未曽有の大災害からいかに立ち直ろうとしているかを出来るだけ具体的に話そうと試みた。その内容と現地メディアの報道ぶりを報告することで、「復興発信使」が何をしたかの一端をご紹介しようと思う。

もとより20人の「復興発信使」は、それぞれが違う場所で、各々自分の言葉で東日本大震災に関する思いと経験を各国の人々に伝えるという任務を担っていたものであり、私の報告はあくまでも私自身が担当した2か国での交流を紹介するだけで、本事業のごく一部を伝えるに過ぎないことをはじめにお断りしておきたい。

日本はどう伝えられていたか
 「復興発信使」としての仕事を報告する前段として、東日本大震災について諸外国ではどのような報道がなされたかを振り返っておきたい。

2011年3月11日午後2時46分にマグニチュード9.0の大地震が襲う前、日本は世界のメディアからほとんど忘れられた存在だった。在京外国特派員は「どんな記事を送っても本社のデスクは受けてくれない。日本のニュースはニュースにならない」とあきらめの言葉を口にし、東京支局閉鎖の動きが続いていた。そこに起きた大震災。各国特派員は被災地に飛んで津波に押し流された町や村の惨状を発信し、日本発のニュースが世界中を駆け巡った。その中で各国のメディアが注目したのは、被災地の人々が苦難の時にあっても他人への思いやりを忘れず、秩序を保ち、静かに耐える姿だった。

今、世界の多くの地域では、大きな災害が起きると略奪や暴動が頻発することが珍しくない。しかし、東日本の被災地の人々はそれとは対照的に、あたかも人間の尊厳を体現するかのような毅然さを保ち、そのことが世界の人々の共感や賞賛を呼ぶことにつながって行った。

また、今回の大震災はデジタル技術が進んだ日本で日中に起きたことから、至る所でカメラに記録され、津波が市街地を飲み込んで行く様子がハイビジョンのテレビで生中継されるなど、様々な映像が瞬時に世界中を駆け巡って自然の凄まじい力を見せつけた。こうした要因も手伝って、東日本大震災で日本に寄せられた世界各国からの支援はかつてないほどの大きさになり、外務省のまとめでは133の国と地域、国際機関から175億円を超す義援金や援助物資が送られて来ている。

しかし、外国メディアの報道ぶりは東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故以後大きく変わり、日本政府の対応の遅れを厳しく非難したり、放射能拡散の危険をことさらに強調したりするものが目立つようになった。その内の一つ、イギリスの大衆紙は「放射能禍でゴーストタウンになった東京にイギリス人女性が取り残され、水も食料も手に入らないでいる」という記事を一面に掲げ、日本在住の外国人が「事実無根で、余りにもひどい」と厳しく批判したほどだった。

こうした行き過ぎた報道が、日本への懸念や不安を海外で高め、外国人の日本からの大量脱出、中国での食塩買占め騒動(放射能被害の防止に食塩が役立つとのネット情報がきっかけ)、放射能雲が間もなく到達というフィリピンでのチェーンメール騒ぎなどの引き金になったことは否めない。また日本を良く知るアメリカの政治学者は「米国内では福島第一原発事故以後、日本政府が言うことは信用できないと思う人が増えた」と指摘している。

「復興発信使」の派遣には震災から1年たった日本の状況を一人一人の言葉で率直に語ってもらうことによって、対日不信感を鎮めたいという狙いも込められていたようだ。

マレーシア・フィリピンでの「復興発信」
東南アジアでの復興発信を担当することになった筆者は2012年3月11日から1週間の日程でマレーシアとフィリピンを訪れ、クアラルンプールの国立マラヤ大学とマニラのアジア経営研究所で筆者自身が撮影した被災地の写真や筆者が所属している日本国際放送(JIB)のテレビ番組などを紹介しながら2時間の講演と質疑応答を行った。またマレーシアで新聞、ラジオ、テレビ9社の個別インタビュー、フィリピンの新聞8紙の記者・コラムニストとの懇談を行った。この内、講演会には両国の防災行政の関係者、学生、研究者、NGOスタッフなどがそれぞれ300人以上参加した。

またマニラの講演会場は2011年12月の台風で1,000人近い死者が出たミンダナオ島のカガヤンデオロの大学とインターネットのテレビ中継で結ばれ、そこからも30人余りの学生と市役所職員が参加してくれた。

onp.gifマレーシアのスター紙が伝えた高島復興発信使の講演(2012年4月6日)

講演では最初に、震災から1年たって元気を取り戻した日本と日本人のエピソードを紹介した。その一つは国際的にも活躍する日本のシャンソン歌手クミコさんと宮城県石巻市の楽器店の物語。東日本大震災の当日、石巻でコンサートを予定していたクミコさんは公演前に地震と津波に遭遇し、何とか逃げることは出来たが、それ以来シャンソンを歌う気力を失ってしまった。しかし、津波の直撃を受けた石巻の楽器店が、外国人ボランティアの協力で店内に残ったピアノを修理してもう一度弾けるようにしようと頑張っている話を知り、そのピアノが直ったら石巻でのコンサートを開こうと決意して半年後に実現したという話だ。このコンサートには石巻のママさんコーラスも参加し、津波で亡くなった3人のコーラス仲間の写真をステージに飾って、亡き友と一緒の歌声でクミコさんの復活公演を盛り上げた。最後に大震災後に作られた「きっとつながる」という歌が披露されると、聴衆の目には涙が浮かび、会場は感動の嵐に包まれた。

クアラルンプールとマニラで多くの聴衆が興味を示してくれたのが、被災したハイテク工場がいかにして速やかに操業を再開したかの実例だった。
その一つは、宮城県大和町(たいわちょう)のデジタルカメラ製造工場。地震で生産ラインが壊れ、会社の経営陣は工場再開には数か月以上かかると覚悟した。ところが地震の翌朝になると土曜日というのに工場の従業員が続々と出勤して後片付けを始め、10日後には被害が少なかった工場内の区画に生産ラインを再建して、地震からわずか12日で生産再開に漕ぎつけてしまった。

この工場で作られるカメラは地震の1週間前に発売されたばかりの最新鋭機で前評判が高く、日本国内はもとより国外でも購入予約が殺到していた。従業員は全員が自宅に何らかの被害を受けていたが、自分たちが作るカメラの出荷を途絶えさせてはならないと、地震の翌朝、自宅を後回しにして工場に出勤してきたもので、その内の一人はインタビューに答えて「我々の職人魂には絶対にあきらめないという信念がある。それが『メード・イン・ジャパン』の『メード・イン・ジャパン』たる所以だ」と述べていた。

東日本大震災が教えたこと
一方、マニラの会場とインターネットテレビで繋がっていた台風の被災地カガヤンデオロからは「東日本大震災で日本が学んだ最も重要な教訓は何か」という質問が寄せられた。これに対して筆者は「自分は防災の専門家ではないが、日本国民は大地震の時には直ちに高台に避難することがいかに大切かを改めて学んだと思う」と述べて「釜石の奇跡」と呼ばれる以下の出来事を紹介した。

あの日、釜石東中学校の生徒222人は地震の揺れが収まるとかねてからの訓練通り500メートル先の高台に向けて一斉に走り出した。隣の鵜住居(うのすまい)小学校では361人の児童が教員の指示では校舎の3階に集まったが、釜石東中学校の生徒が走り出たのを見て直ちに後を追うことにした。両校の児童生徒は、一旦は目指す高台に集合したが、揺れの強さから更に高みを目指すことになり、中学生が小学生の手を引きながら走り続けた。二つの学校は児童生徒が避難した直後に高さ10メートル近い津波に呑み込まれたが、一人の犠牲者も出さず全員が助かり、日頃の訓練の成果が見事にあらわれた。

マニラの講演会場では津波がひいた後の釜石の写真を紹介したが、鵜住居小学校の3階の教室の窓に津波で流されて来た自動車が突き刺さっている写真が写し出されると、会場全体が息を呑んでスクリーンを見つめていた。

釜石市は2004年のインド洋大津波の現地調査をした片田敏孝群馬大学教授の指導で、小中学校のカリキュラムに防災教育を取り入れて定期的に避難訓練を実施している。その結果、今回の大震災での児童生徒の犠牲は学校を休んでいたごく僅かの子供たちに限られ、登校していた約3,000人は全員の無事が確認されている。

東日本大震災の津波は各地で想定外の高さに達し、ギネスブックに記録された世界最深の防波堤が倒れたり、万里の長城と呼ばれた巨大堤防がやすやすと乗り越えられたりして津波被害を食い止めることの難しさがいやが上にも示される結果となった。そうした中で、生命を守る上では一刻も早い高台への避難が極めて有効であることが実証されたわけで、この点に加えて、日頃の教育と訓練、速やかな情報伝達がいかに大切であるかが、大震災の教訓として改めて日本全体で共有されたように思うと報告した。

原発事故への関心
マレーシア、フィリピン両国の講演会場とメディア・インタビューで厳しく質問されたのが福島原発事故の問題だった。その根底には両国の原子力政策があった。
両国とも今はまだ原子力発電は行っていないが、フィリピンの場合、1984年に完成したまま一度も商業運転をしたことのない封鎖中のバタアン原子力発電所があり、この原発を動かすかどうかの論争が続いている。一方、マレーシアではこのところの急速な経済発展で電力不足の心配が取りざたされるようになり、最初の原子力発電所を2021年に稼働することを目標に、具体的な計画を推進し始めたところだった。その最中に発生した福島原発事故は両国で重大な関心を呼ぶところとなって、筆者の講演やマスコミ・インタビューでは「我が国の原発計画をどう思うか」という質問が相次いだ。

これに対して筆者は「福島の事故以来、日本では原発の安全性が国全体で論議されるようになり、これに伴って定期点検のために運転を停止した原発の再稼働が出来ない状態が生じている。その結果、2012年5月には日本国内にある発電用原子炉54基の全てが停まることになりそうだ」という現状を伝えると共に「日本では原発が電力需要の3割を賄ってきたが、これが全て停まるとなると電力不足の問題が深刻化する。太陽光発電や風力発電が脚光を浴びてはいるが、今直ちに原子力による発電にとって代わることは出来ず、節電の必要性がますます高まる一方、今年の夏はかなり暑い夏となることを覚悟せざるを得ない状況だ」と述べた。

 また両国の原発計画については、国連の潘基文事務総長が「福島の事故があったからと言って、原子力発電をすべて否定することにはならない。原子力発電は有用なエネルギー源であり、安全性を一層高めることが求められている」と述べたことを指摘して「エネルギー政策は各国それぞれが決めるものであり、原子力をどう位置づけるかはその中で決まるものだ。日本では福島原発事故について政府、国会、民間の三つの調査委員会がそれぞれ独自の原因究明を行っており、すでに報告書を公表したところもある。マレーシア、フィリピン両国はこれらの日本の調査結果を参照されながら、原子力政策を決めて行かれるものと思う」との考えを伝えた。

まとめ
帰国後、クアラルンプールとマニラの日本大使館からは、筆者が行った講演やインタビューを基にした新聞記事のコピーやラジオインタビューの録音が送られてきているが、その中に「日本のジャーナリストが世界に感謝」という見出しを付けたものがあった。今回のマレーシア、フィリピン訪問で筆者が一番伝えたかったことは「諸外国からの支援に日本全体が深く感謝し、励まされている」という点であったが、このた記事が出たことで多少、安堵の気持ちを味わっている。

世界各地の日本大使館では、東日本大震災から1年を機会に震災関連の広報活動を強め、元気を取り戻した日本を世界にアピールしている。その中で、日本から世界14か国に派遣された20人の「復興発信使」がメッセンジャーとしての大きな役割を果たしたことは間違いなく、派遣にはそれなりの意味があったといえるだろう。しかし、これで終わったわけではない。

前述した通り、筆者が訪れた東南アジアでは、自分たちも東日本大震災での日本の経験に学びたいという意欲が強く、特に防災と原発問題についてはその思いが切実だった。これに日本がどう応えて行くかは日本にとっての大きな課題であり、各国から寄せられた物心両面の多大な支援に対する返礼になるはずだ。筆者の講演やインタビューを伝えたマレーシアとフィリピンの新聞記事の中には、福島の原発事故を念頭に「日本が透明性を持って、すべての事実を包み隠さず公表することを強く望む」と書いたものがあったが、これこそが東日本大震災と福島原発という大惨事を経験した日本が国際的に果たすべき最大の責務であることは言うまでもない。 (了) (2012年4月27日寄稿)