南アフリカ今昔物語

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元駐南アフリカ大使  古屋昭彦

南アフリカ今昔物語 

その1.
南アフリカは、今多様な人種、民族の共生を目指すこの国は、レインボー・ネーションとも呼ばれ、1991年のアパルトヘイトの撤廃後、94年の初の民主的な選挙を経て、ネルソン・マンデラ新生南アフリカの初代大統領の就任を見、対話による紛争解決と人種融和の象徴ともいえる国です。
94年の後も、99年、2004年、2009年の総選挙を実施し、マンデラ、ムベキ、に次いで、現在は、ズマ氏が、3人目の大統領になっています。与党アフリカ民族会議(元々、アパルトヘイト抵抗団体が政党になったもの)が、圧倒的な力を持っており、国内政治は安定しています。立法は、ケープタウンに、行政は、プレトリアに、司法はブルームフォンテインにと、三権が、物理的にも分散されているのが特徴的です。

貧困、エイズ問題を抱えていますが、アフリカ大陸の全GDPの約20%を占め、金、ダイヤモンド、希少金属など豊富な鉱物資源を持つアフリカ最大の経済大国です。貧困層の黒人をいかに能力のある人材として育てるかが重要な課題です。日本にも人材育成の面で協力が求められています。
日本との関係は、1918年、アフリカ大陸で初めての公館がケープタウンに設置されたことから始まります。1937年には、プレトリアに日本国公使館が、設置されたが、大戦のため、1942年、国交断絶となり、同公使館は、閉鎖された。戦後、アパルトヘイト体制のため、領事関係のみにとどまっていたが、上記のごとくアパルトヘイトの撤廃を受け、92年に外交関係が再開し、
今に至っています。それから、わずか20年ですが、人的往来は活発です。まず、政府間では、閣僚級の政策対話である日・南ア・パートナーシップ・フォーラムがあり、民間企業間では、日・南ア・ビジネス・フォーラムがあり、更に、最近、大学間協力のためのフーラムも生まれ、両国関係発展のための3本柱となっています。

南アフリカにとって、日本は米、英、独、中国と並んでトップの貿易相手ですが、とりわけ、南アの輸出相手として、1-2位の大事な国です。南アから日本への輸出で面白い点は、レア・メタルに次いで、完成品の自動車が第2位だということです。これは、右ハンドルのBMWやベンツのある車種のものが南アで生産され、日本へ輸出されているのです。
南アフリカは、面積で日本の約3倍、人口で半分弱というさほど大きな国ではありませんが、石油以外は何でもあるといわれる豊富な鉱物資源は日本にとって極めて重要な点でしょう。また、2010年に、アフリカで初めて、FIFAワールドカップ・サッカー大会を開催したことからも注目を集めました。今後も、南アフリカは、我々にとって、大事な国です。

南アフリカ今昔物語  その2
歴史を振り返る――日本との接点は?

1.序  歴史的背景
(1)15世紀の終りころから、ヨーロッパの列強は、香辛料等を求めて、インド洋航路へと向かい出しました。これは、大航海時代と呼ばれています。まず、オランダが、東インド会社を設立し、インド洋航路の中継地として、喜望峰付近にあるケープタウンに寄港し、その後内陸のケープ地方に入植します。次いで、英国が、アジア貿易に参画します。以上の様な当時の世界の動静を踏まえた上で、南アフリカと日本の歴史を表にしてみました。

南アフリカ

日 本

1488年 ポルトガル人 デイアス喜望峰発見         
1467年 応仁の乱
1543年 ポルトガル人種子島漂着
1603年 徳川家康 江戸に幕府を開く
1652年 オランダ ケープを植民地化
1867年 ダイヤ発見 1867年 大政奉還
1868年 明治維新
1880年 第1次ボーア戦争
1886年 金発見
1894年 日清戦争
1899年 第2次ボーア戦争
1902年 第2次ボーア戦争終結   1902年 日英同盟

(2)1850年代のアジア
まず、中国は、1851年以降15年間、太平天国の大農民革命があり、混乱しており、加えて、英仏の侵攻を受け、いわゆる1856-1860年には、第2次アヘン戦争が起き、敗れた中国は、北京条約により、中国市場を欧米に全面開放せざるを得ず、いわば、半植民地化されました。また、インドでは、
1857年、東インド会社のインド人傭兵であるセポイの大反乱が起きましたが、英国軍の前に敗退、1858年、ビクトリア女王が、インド皇帝になり、ここに、英国の植民地化が完成します。

(3)1860年代の日本
徳川幕府末期の1860年代、特に、その前半は、生麦事件に代表される尊王攘夷派が台頭し、国内は混乱の中にありました。他方、1864年には、英、仏、蘭、米の4国連合艦隊が、17隻の軍艦と兵員5000人以上の大軍で下関に進軍、長州藩は、あっさり降伏しました。日本は、国内も混乱し、国外も欧米列強に狙われるという危険な状況にありました。1865年、長州では、高杉晋作、木戸孝充が、薩摩では、西郷隆盛、大久保利通が、倒幕の指導者になり、土佐の坂本竜馬らの仲介もあり、薩長連合を結成し、更に、攘夷どころか、英国に接近し、英国も薩長に新しい日本の政権を樹立させ、英国の影響下に置こうとした。他方、仏は、幕府側を支援した。1866年、至る所で、農村の百姓一揆が起こり、ここに至って、有力大名の考えに変化が起こります。

1867年、将軍徳川慶喜は、形だけの<大政奉還>を願い出ます。薩長連合側は、それでも武力で幕府を倒す準備をします。

――――ここで、南アフリカで、ダイヤモンドが発見――――
1868年、薩長連合側のクーデターが成功し、将軍制が廃止。明治元年となる。
1869年、東京へ遷都、近代化への出発!

2. 本論
上記の背景からも、おわかり頂けるように、19世紀後半、欧米列強は、アジア貿易の主導権を握ろうと競い合いました。特に、英国は、インドや中国を植民地化していき、最後の目的地は、金の産出する国と考えられていた日本だったのです。その意味で、英国にとって1860年代前半は、インド、中国を治め、いよいよ、<日本侵攻の時>だったのです。

(1) 英国の日本植民地化への歯止め
1860年代、日本は、幕府と維新軍の勢力が二転三転する混乱の真っただ中にありました。この頃、英国は、インドや中国での民族闘争の経験から教訓を学び、<日本を軍事的に圧迫して勝っても、決して日本人を服従させることはできず、いかなる融和も不可能>と判断し、対日圧力を緩和し始めます。むしろ、その外交・軍事政策を考え直して、明治維新政府の後ろ盾となって、新しい日本の指導権を握ろうと考え、明治維新軍を応援します。

(2) 英国の南アフリカへの侵攻
同じころ、南アフリカでは、1867年に、ダイヤモンド、1886年には、金が発見されました。英国は、これらの貴重な資源を獲得しようと、当時ボーア人と呼ばれたオランダ系の移民と2度にわたり、大戦争をします。この時、英国は、40万人以上の軍隊を南アフリカに派遣し、相当な被害をこうむります。それゆえ、英国は、疲弊し、日本への侵略のために、本格的な戦争をする状況ではなかったと言えます。ちなみに、当時、横浜にいた英仏のパトロール隊は、わずかの2000人だったのです。

(3) 結論
日本と南アフリカの当時の状況を一緒に考えると、こうなります。
英国は、明治維新政府を応援し、維新後の日本と友好関係を形成しました。他方で、南アフリカでは、ボーア戦争が長期化し厳しい損害を受けた英国は、名誉ある孤立政策を捨て、アジア進出を断念し、最終的に日本と同盟関係を結びました。これは、正に、ボーア戦争が終結したのと同じ年、1902年の事だったのです。2度にわたるボーア戦争の激しさを見ても、英国の政策変更の背景に日本より近い南アフリカで発見されたダイヤモンドと金の存在があったと考える方が、極めて自然だと思います。この英国の政策変更と支援の御蔭で、日本は、順調に近代化へと歩み出し、植民地化をまぬがれたわけですから、ひいては、南アフリカのダイヤと金にお世話になったと(明治の日本人も現代の我々も)感謝してもいいのではないかと思うわけです。この視点から考えれば、日本が現在もレア・メタルなどを輸入していることからも、<南アフリカのダイヤ、金、プラチナなどの貴重な鉱物資源>とは、150年もの長きにわたり、重要な関係を維持し続けているのです。(2012年4月20日寄稿)