総統選挙後の台湾

           元(財)交流協会台北事務所代表
           元駐オランダ・ブラジル大使 池田 維

 台湾は東シナ海と南シナ海を扼する位置にある戦略上の要衝である。その帰趨は日本を含む西太平洋全体のパワー・バランスに重要な影響を及ぼすこととなる。また、台湾周辺海域は日本にとって石油輸送路であるシーレーンに当っている。今日、中国は台湾をチベットと並び、中国にとっての「核心的利益」を有する重点地域と位置付け、経済、軍事、政治、文化などの各種手段を用いて台湾に攻勢をかけている。

選挙結果をどう見るか
本年1月14日に実施された台湾の総統選挙は、本年中に世界で行われる主要国指導者の選出の一環としても注目された。台湾は中国に対し、より接近しようとしているのか、あるいは、より距離を置こうとしているのか。総統選挙後に台湾大学で行われたシンポジウムに出席する機会があり、その際に、台湾の関係者たちと意見交換をすることが出来た。

台湾において総統直接選挙がはじめて行われたのは1996年のことであり、その時、李登輝元総統が選出され、民主化の進展を内外に強く印象づけた。今回の総統選挙は5回目に当たる。結果は、現職・国民党の馬英九総統が最大野党・民主進歩党(民進党)の蔡英文主席を破り、再選を果たした。両者の得票率は馬氏が51.6%(689万票)、蔡氏が45.6%(609万票)、親民党・宋氏が2.8%(37万票)となった。また、総統選挙と同時に行われた立法委員(国会議員)の選挙において、国民党は8議席減らし、民進党は8議席伸ばした。

6%という得票率の差をどう見るかについて、台湾人の評価はそれほど大きくは分かれていない。選挙直前に一時、多くの人々が予測した2~3%の差というほど接近したものではなかったが、4年前の選挙において馬氏が17%の差で圧勝したことと比較すれば、蔡氏は善戦したと見られており、民進党の党勢回復ぶりを示したといえる。このような選挙結果は、勝利を収めた馬総統が今後4年間の施政を行うに当たって考慮に入れざるを得ない点であろう。

今回の選挙の決め手となったものとして、政策上の争点以外に、全般的な組織力、資金力、メディア動員力などの諸点における国民党と民進党の相違点が挙げられる。現職総統を擁する国民党が、それらいずれの点においても民進党を上回っていたと見られているが、ここでは、とくに政策上の最大の争点であった対中国政策を見ることにしたい。
対中国政策については、どの政党の政策が人々により安定をもたらすかが選挙の焦点になった。結局、台湾住民の過半数である51%の人たちが変化よりも安定を望み、現状の継続を選択したと言えよう。

馬政権はこれまでの4年間に中国との間で経済協力枠組み協定(ECFA)を締結し、観光客や学術関係者の往来の自由化など経済・人的往来面での交流を促進してきた。このような対中国宥和政策が台湾経済に裨益し、ひいては中台間の政治的安定をもたらした、との馬氏の主張が受け入れられた形となった。

国民党と民進党の対中国政策の違いは「1992年コンセンサス」をめぐって明確になった。このコンセンサスとは、92年にはじめて中台間でハイレベルの接触が行われた時、中国は「一つの中国」の原則を主張し、他方、台湾の国民党政権は「一つの中国、各自解釈」を主張した、という同床異夢の内容を持つものだ。つまり、中国にとっては「一つの中国」とは「中華人民共和国」を意味し、台湾にとっては「中華民国」を意味する。これに対し、蔡氏は、「92年コンセンサス」の存在そのものを否定し、将来、全台湾で広範な議論をしたうえで「台湾コンセンサス」を作る、と主張した。

中国は選挙期間中、陰に陽に国民党の立場を支援し、もし政権交代が行われ、「92年コンセンサス」がなくなれば、中台間の安定的基礎が失われ、関係は後退すると発言して、独立指向の民進党を牽制した。とくに選挙期間後半に中国と取引のある大企業のCEOたちが次々に「92年コンセンサス」支持を公然と表明したことは、国民党に有利に働いたと見られる。たとえば、台湾の運輸大手の長栄グループの総裁は「このコンセンサスがなければ、台湾の生存は難しい」とまで述べた。「92年コンセンサス」はあたかも「踏絵」のような役割を果たしたのである。

さらに、中国は経済活動のため中国に滞在する台湾人ビジネスマンたちが総統選挙の際に帰国し、投票できるように航空券を減額するなどの優遇措置を取り、選挙に干渉した。
また、米国の一部関係者(たとえば、元米国在台協会事務所長ダグラス・パール)まで、選挙期間中に「92年コンセンサスがあれば、米中は共に安心できる」との趣旨の「個人的」発言を行い、民進党が強く反発する一幕もあった。
振り返れば、96年の総統選挙の際には、中国は軍事演習と称して、台湾周辺海域に何発かのミサイルを発射し、2000年の選挙の際には、独立指向の「民進党にはみじめな末路しかない」(朱鎔基)などと恫喝した。その頃に比べれば、今回の中国の手法はより穏便ではあったが、総統選挙に干渉した、という点ではなんら変わりはない。今回は、経済(ビジネス)を「人質」に取ったと言えば言い過ぎだろうか。
このような選挙中のやりとりは台湾の有権者たちにかなりのインパクトを与えたに違いない。ちなみに今日、中国は台湾にとっての最大の貿易相手であり、台湾の対外投資の約6割は中国(香港を含む)との間で行われている。

今後の課題
二期目に入る馬英九総統は中国との間では、「統一せず、独立せず、戦わず」の現状維持策を続けることを明言している。これまで4年間に馬政権は中国との間では、経済を中心に種々の協議を進めてきたが、経済面での協議は、主権に直接関係しないだけに比較的容易に進めることが出来た。しかし、今後の課題は、中国が要求してくるであろう政治問題、軍事問題にいかに対処するか、と言う点であろう。
馬総統は選挙期間中の昨年10月、「再選されれば、中国との間で和平協定を結ぶことを考えたい」と発言した。これに対し、台湾内部で直ちに強い反発が起こり、支持率が10ポイント近く急落するという事態を招いたことがある。そのため馬氏は、協定締結の前提として、立法院(議会)での議決や住民投票にかけることなどを公約せざるを得なかった。

中台間の「和平協定」の意味は明確ではない。しかし、一般に、中国は台湾に対し、「台湾関係法」に基づく米国からの武器供与を停止させ、見返りに、台湾に向けられた中国のミサイルを撤去するとのアイディアを打ち出すかもしれない、と噂されている。ただし、ミサイル撤去などを検証することはまず出来ないし、また、台湾としては米国との合意なく、米国からの武器購入を一方的に停止するなどということは出来ないだろう。そして、なによりも、馬政権としては、台湾住民の極めて敏感な反応に十分な考慮を払わなければ、順調な政権運営は困難になるだろう。

今日、各種アンケートが示すように、台湾住民の85%以上という圧倒的多数の人々は独立でも統一でもない「現状維持」を支持している。「現状維持」とは、端的に言えば、国連のメンバーではなく、国際的に孤立してはいるが、中国の統治下にない、という台湾の現状の継続を意味している。また、台湾の人たちのアイデンティティという複雑な問題については、自分を「台湾人」であると考える人は92年には18%であったが、その後右肩上がりに増加し、2011年には54%になった。他方、「中国人」であると考える人は、この同一時期の間に26%から4%へと減少した。(国立政治大学の調査)。

今回、総統選挙に敗れた蔡英文氏は民進党のなかでは、台湾の主権は守りつつも独立を前面に打ち出すことなく、中国との対話を目指すことを主張した穏健派の指導者であるが、「台湾コンセンサス」は意味が明瞭ではない、と批判された。今後、民進党としては、中国との関係や距離をいかなるものに策定するかという課題に向き合わねばならないだろう。蔡自身、選挙敗北後の検討会のなかで、「今後、中国と交流する中で、中国の実体をよりよく理解する必要がある」と述べている。(なお、民進党は1991年、「台湾共和国」の建国を目指すとの独立綱領を採択し、その後、「台湾はすでに主権が独立した国家である」との決議文を採択した政党である。)
中国の対台湾政策の核心は、台湾独立を阻止し、あわよくば台湾を「第2の香港」のような地位に持って行き、将来の統一への布石とすることである。そのために、今後一層政治的、経済的攻勢を強め、台湾をさらに取り込むための方策を取り続けるだろう。そして、独立への動きに対しては、武力行使を辞さないとの構えを表明している(2005、「反国家分裂法」)。

「台湾はやがて中国に飲み込まれてしまうのではないか」という人たちは少数ではあるが、台湾の中にもいる。しかし、これまでの台湾の歴史を見てくれば、台湾の人たちが鋭いバランス感覚を持ち合わせていることがよくわかるし、さらには、今日の台湾の民主主義がそれほど脆弱なものとは到底思えないのである。台湾の人たちは中国大陸をビジネスの相手としては重視しているが、かつての戒厳令の時期(1949~87)を想起させるような一党独裁体制には全く魅力を感じていない。(逆に、中国からの台湾への来訪者たちは、台湾の選挙や政治を見て、その自由で民主的なところに衝撃を受け、羨望の念を持つのが普通である)。

今回の民主的選挙を通じ、台湾の選挙民が馬氏に与えた信任は多分、中台間の経済関係を大きく変えることなく、「現状維持」の大枠を守りつつ、中国とつきあう、ということであろう。「現状維持」がいつまでも続くという保障はないが、台湾を取り囲む国際情勢、なかんずく、中国自体の状況が大きく変わるまで、現状を維持する以外ない、と考えている台湾人は少なくない。その意味からも、馬政権の対中交渉能力が真に試されるのは、これからである。

日本と台湾との外交関係が断絶して40年になるが、今日、両者の関係は全体として良好かつ緊密である。どのアンケートをとっても、今日、台湾の人たちの「一番好きな国」は日本である。2300万人の人口を持つ台湾の一般市民からの東日本大震災への義援金は200億円という世界最大の規模に達した。もちろん、善意や同情は金額の多寡によって量られるものではない。とは言え、この動きは台湾の人々の日本人への親近感や激励の気持ちを如実に傳えるものとなった。日本人との間に歴史的にも地理的にも深く長い絆を持つ「隣人」が存在するという事実を、私たちは忘れないようにしたいものである。     (了)