リトアニアからの熱い思い

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前駐リトアニア日本国大使 明石 美代子

私はこの2月、3年8カ月にわたる任務を終えリトアニアから戻ってまいりました。残念ながら日本では一般的に言ってリトアニアという国はまだまだ知名度が高くありません。ですから私がリトアニアの話を始めるときには、バルト海に面した旧ソ連邦の国、「日本のシンドラー」杉原千畝領事代理がリトアニアの当時の首都カウナスにあった日本領事館で執務していたこと、そしてナチのユダヤ人迫害から多くの在欧のユダヤ人を救ったことなどについて話したりしています。また最近日本ではユネスコの世界遺産に対する関心が高まっていますので首都ビリニュスが世界遺産に指定されていると付け加えることにしています。中にはベルリンの壁崩壊の年の8月23日に起こったバルト三国の『人間の鎖』をテレビ報道で見たという方々もおられます。その『人間の鎖』とは当時まだソ連邦の一部であったリトアニア共和国市民がエストニア共和国、ラトビア共和国の市民とともに、時間をあわせ北はタリンからリーガを経てビリニュスを結ぶ全長650キロの高速道路に集まり手をつなぎ文字通り人間の鎖を作り独立を訴えたのです。当時、この3つの共和国間の交信はソ連当局の厳しい統制下にあり、特に反体制運動は更に厳しく制圧されていたことを考えれば『人間の鎖』の完成は奇跡に近いこととして世界中に報道されました。当のバルト3国自身にとってはこの『人間の鎖』の成功は大きな自信となり、連帯して独立回復を勝ち取る運動へと向かうきっかけになったことは間違いありません。

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600キロに及ぶ人間の鎖
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Baltic Way, 23 August 1989.
600キロに及ぶ人間の鎖
Photo–Jonas Juknevičius (Lithuanian Central State Archive)


リトアニアの人口は約320万人、首都ビリニュスは約55万人、西はバルト海に面し、北にラトビア、南はポーランドとロシアの飛び地カリニングラード、東・南東はベラルーシに囲まれた国で我が国の6分の1、北海道よりやや小さい領土をもつ国です。

1991年エストニア、ラトビアと共に長いソ連支配から独立を回復した国ですが、13世紀には大公国として出現しバルト海に面する一帯を支配,最盛期の15世紀はバルト海から黒海に至る広い領土を持ち、バルト三国の中では最も長い独立の歴史を持っている国です。しかしその後はポーランドとの連合を経て、三度の領土分割の結果18世紀末から1918年までおよそ120年に及ぶロシア帝国支配が続きました。そしてロシア革命後の1918年に達成した独立は1940年のソ連侵攻によりわずか20年強で奪われ、その後ドイツに、そして再びソ連に支配・編入されるという複雑な歴史を歩んできました。それゆえ独立回復を果たした1991年以来今も自らの歴史を振り返りながら独立国としての誇りと自信を忘れまいとする努力があらゆる分野で続けられています。

実は我が国とリトアニアとの関係は1921年にさかのぼります。 しかし、1940年のソ連編入から1991年10月の外交関係再開までの間は両国関係は断絶しておりました。1997年首都ビリニュスに日本国大使館を設置、大使は駐デンマーク日本国大使が兼轄し、臨時代理大使が駐在していましたが2008年大使館を格上げし、私が初代本任大使として常駐することになりました。天皇陛下からの信任状奉呈式では、当時のアダムクス大統領は歓迎スピーチの中で天皇皇后陛下のご訪問に続いた日本からの初代本任大使着任を高く評価し深い感謝の気持と両国関係の未来に大きな期待を表明しました。そして式典に続く懇談ではたいへん暖かく私の手を握り「貴使のおいでを本当に長い間待ち続けていました。お目にかかれて喜んでいます。ようこそ」と述べられました。失礼ながら私はそのような歓迎の言葉は儀礼上の言葉と淡白に受けとめていました。しかし必ずしもそうではないことをその後離任の時まで折に触れ改めて思い起こさせられることになりました。リトアニアとしてはそれほど日本からの駐在大使を待ちわびていたということなのでした。


ところで私の信任状奉呈のすぐあとロシア大使の信任状奉呈が予定されていましたが、正にその当日朝になってキャンセルになっていました。その理由についていろいろな憶測がありましたが、アダムクス大統領自身が昨年末出版した回想録の中で次のように説明しています。リトアニア語から英語に翻訳してもらったものを日本語に訳しますと「2008年6月30日、私は前代未聞の外交措置をとらなくてはならなかった。 本日、日本国大使とそれに続きロシア大使の信任状奉呈が予定されていたが、私は外交顧問に対しロシア大使の信任状奉呈をキャンセルするよう指示した。 ロシア人のハッカー行為により、リトアニアのインターネットはロシア語や、ロシアの国旗やロシアのシンボルであふれている、このような状況の中で外交的な会話など出来るものではない。私はこのような行為を許さないと決意した。」

信任状奉呈の記念写真を改めて見直しますと大統領の表情が幾分緊張していると言えなくもありません。結局ロシア大使の信任状奉呈は2週間後に実施されました。もともとアダムクス大統領はパルチザンとして第二次世界大戦後もソ連占領後のリトアニアからドイツにのがれ抵抗を続け、その後米国に移住してリトアニアの独立運動を支援した人ですので、その反ロシア精神は筋金入りです。


当時既にNATO、EUへの加盟を果たし独立回復後の経済発展もある程度達成し一息ついていた時にロシア側の情報撹乱の嫌がらせ、そしてロシアのグルジア侵攻はリトアニアに衝撃をもたらしたことは明らかでした。

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実際、2008年8月のロシアによるグルジア侵攻ではアダムクス大統領は直ちにエストニア、ラトビア、ポーランドに呼び掛け現地に飛び世界に向けロシアに対する徹底的非難を発信し、その後外相をグルジアにそしてEUに向かわせEUからより厳しい対ソ非難を導き出すため速攻外交を展開するなど、ロシアに対する払拭しがたい警戒心を見せつけていました。

その年の10月総選挙で生まれた中道保守の現政権は親米、 積極的EU・NATO外交を展開し、2012年までの外交綱領では小国リトアニアの生き残る道として、自由と民主主義という価値観を共有する国々との連携強化、ベラルーシ、ウクライナ、グルジアや南コーカサス地域の民主化推進を支援して仲間を増やすこと、またアフガニスタンやイラクにおける社会復興への支援などによって国際社会での存在感を示すことなどが決められております。翌2009年アダムクス大統領が引退した後、国民は女性の大統領グリバウスカイテを選出しましたが、同大統領は財務相、財務担当EUコミッショナーを歴任し外交官としての豊富な実績を生かしながら精力的に外交路線を継続しております。

独立20年の小さな国ですが昨年2011年には民主主義共同体閣僚会議とOSCE閣僚会合を相次いで開催し、ホスト国としての役目を無難にこなし、今年はバルト三国協力、北欧バルト8カ国協力の議長国のほか、2013年後半のEU議長国としての役割を果たすため活発な外交活動を進めております。更に国連においても第67回国連総会の議長ポストへの挑戦、2013年の国連安保理非常任理事国選挙への立候補など野心的外交日程が続きます。


さてこのような環境の中、私も先ずはとにかくvisibilityを高めることを第一に、リトアニア国内の視察・巡回で可能な限り広範囲にわたり多くの人々と交流することに努めたわけですが、誰に会ってもどこに行っても予想をはるかに超えた歓待ぶり、メディアのインタビュー攻めにはうれしいと同時に戸惑いを感じるほどでした。正直なところリトアニアでは日本のプレゼンスは未だまだ小さく、進出日本企業数は僅か4社、在留邦人は58名にすぎず、地理的な距離感がそのまま人の交流の少なさに反映されているので、日本に対する関心をいかに掘り起こし高めるかが優先課題と考えていましたので、それはうれしい見当違いでした。

それにしてもなぜこれほどの親日感があるのか、日本文化に対する熱いまなざしや憧憬は半端ではありません。自己流ながら生け花や,日本庭園、墨絵を楽しんだり、
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日本の伝統武道を修練したり、また老若男女が俳句を作って楽しんだりしています。大統領や政府要人、国会議員,経済界トップのほとんどから「日本は私たちの夢です、あこがれです。」「日本はお手本」といわれます。何を企画しても大変な人気なので外交団の間からその秘訣を問われたこともありました。本当になぜなのか、実はそこにはきちんとした理由があったのです。

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リトアニアの皆さんが挙げる理由は世代により多少異なり、また日本の経済力、技術力が素晴らしいからという無難な回答もありますが、驚いたことに100年以上も前の日露戦争での日本の勝利を挙げる人が多いことです。今の日本人にはぴんと来ない話だと思います。当時のヨーロッパ諸国にとっては遙か彼方のアジアの小国日本が強大なロシア帝国との戦争に勝ったことは相当のインパクトを持って受け止められたようでした。この傾向はバルト地域を含むポーランドや北欧諸国に見られるようですが、特にリトアニアでは長い間ロシア帝国の圧政に苦しんでいた若い愛国者達に大きな勇気と希望を与えたようです。なかでも愛国心に燃えるステポーナス・カイリース青年は

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日本こそリトアニアがめざす目標との思いから、当時日本関係資料が整っていたサンクト・ペテルスブルグからロシア語の資料を取り寄せリトアニア語版の小冊子3冊に書き直し出版したのです。その小冊子は今もビリニュスの国立科学アカデミー図書館に保存されています。そういうリトアニア語の書物があったからこそ「日本」に対する特別な思いがたとえ細々であっても100年という歴史の荒波を乗り越えてリトアニアの人々の心に残ったのだと思います。

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最近ノンフィクション作家の平野久美子氏がこの「日本論」を紹介する著書『坂の上のヤポーニヤ』を出版しました。当時のリトアニアにとって日本はそれこそ“坂の上の雲”だったのでしょう。


そして次に挙げられた理由は、日本はナチスのユダヤ人迫害から在欧のユダヤ人を助けた杉原千畝領事代理の国だからということです。

当時リトアニアの首都であったカウナス市内には杉原領事代理が執務し居住していた建物が残っております。

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11年前から現地の非営利団体・杉原財団がカウナス市やカウナス大学の支援をえながら杉原ハウス(仮称)として運営しています。建物は日本領事館の内装を残した展示場とカウナス大学日本学センターからなっておりますが、展示場は我が国政府の支援もあり充実した内容となっております。

日本からの訪問者はもちろん、世界各地からユダヤ系の人々が訪問し、カウナス市の有力な観光誘致スポットとなっております。
日本に対する親日感情の根拠となる3番目の理由は、リトアニア独立回復直後に日本政府が実施した技術協力や文化無償協力への深い感謝の気持ちです。特にソ連撤退後の新生リトアニアにとって音楽アカデミーでの楽器や、国立美術館,コンサートホールなどの視聴覚装備には手が回らなかった状況でしたので、文化無償協力による日本からの支援は大きな効果をもたらしました。先の歴代臨時大使の賢明な選択に感謝しなくてはなりません。幸運にも私はその果実の恩恵に浴したわけですが、それほど日本の支援が多くの国民から喜ばれ感謝されているという点を私たち日本人は知っておかなければなりません。

もうひとつ忘れてはならない歴史的事実を指摘する人々もいます。先の大戦後ソ連のリトアニア占領がはじまると同時に大量のリトアニア人がシベリアに追放されましたが、生死をさまよっていたリトアニア人を助けたのがシベリア抑留中の日本人だったということです。私も生存者から話を聞く機会がありましたが、日本人の勇気から生きる力を得たと語っていました。今でも多くの人々がシベリア追放の暗い過去を抱えている現実を見れば、シベリアでの日本人との心の絆が日本のイメージ形成に資していると考えても不自然ではありません。


このような親日的なリトアニアにとって昨年の東北大震災は信じられないほどのショックで受け止められました。震災を知った多くの人々は大使館の前に花束を置き沢山のローソクに灯がともされました。何かしたいがどうしたらいいのかという電話が殺到しました。お見舞いの言葉や千羽鶴の束が届けられ、義捐金運動、チャリティコンサート,ミサなどが各地で開催されました。なかにはリトアニアへの移住を勧める意見も聞かれ、優秀な日本人をぜひ受け入れたいと真剣に提案する人々にも会いましたが、リトアニア市民にとっても他人ごとではない気持ちが強く伝わりました。

現在リトアニアではエストニア、ラトビアと共に原発建設計画を進めていますが、震災後の福島原発事故はむしろ日本人の技術力の高さを再評価させることとになり、日本企業(日立・GE社)と真剣な交渉を続けております。2月末クビリウス首相は日本政府からエンドースを取り付けることを目的として訪日し首脳会談を行いました。原発建設はリトアニアにとりエネルギー安全保障の最重要案件であり早い時期の契約成立を目指しています。そうなれば確かな背景に裏付けられたリトアニアの日本に対する熱い思いも日本に伝わり両国関係は急速に発展していくものと信じております。そしてこれからは日本とリトアニア両国が情緒的な関係から戦略的互恵関係に展開しながら、共に信頼するパートナーとして世界の平和と安定のために貢献することを強く願うもので、またそれは両国が描く将来像であると確信します。(3月26日寄稿) 
※本文に記載している内容は個人的見解に基づくものです。

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