第1弾 ベトナムと云う国―「日越自然の同盟関係」

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元駐ベトナム大使 前OECD大使 服部則夫

 1973年4月に約2週間南ベトナムのサイゴンに滞在した司馬遼太郎は、その著書「人間の集団について」(中公新書)の中で、「・・・ベトナム人というのは堪えられぬ程にいいやつである。」「ベトナムは懐かしい。一度そこに滞留した人は誰もが言う。私もこの稿を書き終えるに当たって,溢れるような感じでそれを思っている。それは丁度野末で自分の知らなかった親類の家を見つけたような気持ちに似ている。いつか又帰れると言う、たとえそういうことが無いにせよ、その思いを持つだけで気持ちが救われると言うそんな人々がいる国である。」とベトナムについての想いを記している。

 ベトナムを知る日本人も、日本人を知るベトナム人も、お互いに良く似ていると言う。勿論、日本人ならこんなことはしないだろうにとか、何でこの程度のことに気付かないのだろうというような点は決して少なくないし、日本人と異なる面も多い。そういうことでは無く、人間関係の間合いの取り方、何かに反応する時の顔つき、目つき、雰囲気など、同種の文化的、歴史的、民族的体験あるいはDNAを持っていないと到底ありえないような同質性を有しているのである。私は他のいくつかのアジアの国々(比、中国、インドネシア)でも勤務した経験があるが、ベトナムでのこのような体験は特別である。

 私は2002年から2008年まで約5年半の長きに亘り、駐ベトナム大使を務めたが、その間の経験の一端を語ることにより、私の見たベトナムと云う国、ベトナム人と云う人々
を御紹介したく、皆様のご参考にしていただければ幸いである。

1. 「大使着任に際して」
 わが国とベトナムは2013年に外交関係樹立40周年を迎えるが、ベトナムがカンボジアに出兵していた1989年までは、日本は西側民主主義国家の一員として、ベトナムに対し厳しい政策を取っていたこともあり、日越関係は良くなかった。カンボジア和平が成立した後、1992年にわが国はベトナムへのODAを再開し、そして1995年にベトナムがアセアンに加盟したことなどを契機に、漸く日越関係は少しずつ発展することとなった。


IMG5.bmp日・北ベトナム外交関係樹立交渉妥結の歴史的写真 (1973年於パリ 中山賀博代表とヴォーバンスンベトナム代表)

私が大使として着任した2002年11月当時、日越関係はすでに良好であったがこれはわが国がODAをもって対越重視の姿勢を示していたことが大きく貢献していた。しかし投資あるいは貿易額はいずれも未だ非常に低いレベルに止まっていた。

私は1994年経済協力局審議官として、ベトナムへの初の大型経済協力調査団の副団長(団長は木内元大使)として始めて訪問し、そのとき得た印象から、後に「石川プロジェクト」と呼ばれ、同国の経済開発政策に大きな貢献をした「ベトナム経済総合開発調査」を発案し実施した他何度か世銀の対越年次協議に代表として参加した経験はあったが、大使として赴任するに当たり、改めて日本にとってのベトナムとは如何なる位置付けかを考えた。そして達した結論は両国間は「自然の同盟関係」が成り立ちうる稀有な関係にあるのではないかと言う事であった。

つまり政治、経済、文化等あらゆる面で基本的利害の対立は無く、一方にとっての利益は同時に他方にとっての利益でもあるような関係、地政学的にも歴史的にも東アジアで両国の置かれた立場(特に対中国大陸)の類似性に加えベトナムにとって日本からのODAは当時全体の三分の一を占め、その経済社会開発に於いて極めて大きな役割を果たしており、又わが国とのFDIや貿易もその潜在的重要性は大きいこと、人口8600万で近い将来1億に達するアセアンの大国としてのベトナムの持つ重み等、そして何よりも同質性の高い両国民性等、政治体制の違いを乗り越えて最も近しい関係になる多くの理由がある。私はこれを「自然の同盟関係」と呼び、大使としての最大の任務はこの関係を実のある実質的なものにし、ベトナム人にも同じ認識を持ってもらえるようにすることに有った。

 私は大使着任に当たり、自らにいくつかのノルマを課し、又着任後のベトナム人記者との懇談でそれを敢えて明らかにもした。そのいくつかを挙げる。


IMG1.jpg2003年着任挨拶ヴォ グエン・ザップ将軍と夫人、ヴォディン・ビエン氏 と

(1)ODA
先ずODAの増額である。ベトナムほど日本のODAが効果的かつ真面目に使われている国は無く、いわば日本のODAのショウウィンドーでもあり、ニーズも高くそして何より、その感謝度は並ではない。(日本のODAプロジェクトには必ず日本とベトナムの国旗をあしらった大きな看板が立てられている。日本のODAである事をひたすら隠す国もお隣にある)私はこのODAの大幅な増額を図るべく最大限の努力をする旨、またインフラ建設のみならず人造り特に日本への留学生の数が飛躍的に増加するような方法を考えたい(インドネシアとマレーシアに対する円借款留学生と同じやり方が念頭にあった)等約束した。

(2)投資環境改善―日越共同イニシアチブ
次にベトナムの投資環境の改善である。途上国の経済発展にとってODAは単なるその基盤整備の為であり民間投資なくして持続的経済発展は有り得ない。然るに、ベトナムの当時の投資環境はインフラの未整備は言うに及ばず、投資許可、税制等をめぐる法律や行政手続き面での問題は多く、優秀かつ勤勉で安価な労働力、政治的社会的安定等近隣のアセアン諸国よりも格段に魅力的であるにも拘わらず、ベトナムへのFDIは伸び悩んでいた。この投資環境を「飛躍的に」改善しない限り経済発展は遅々としか進まないと考えた結果、私はベトナムの投資環境改善の為の「日越共同イニシアチブ」をベトナム政府(先日引退したヴォ フォン フック計画投資大臣)に提案した。

当時日本側は外務、経産の審議官クラスでのベトナム政府との協議の場はあったが、このような事務的でルーチンなやり方では通商上の日々の問題の処理はおろか創造的なことは望めない。投資をめぐる制度上、政策上の諸問題を全てリストアップし、その一つ一つの改善の為の処方箋を出し、期限を決めて実現する、、日本側が勝手にやるのではなく、対等な立場で双方の協議、協力によりこの作業をする、そして先ず何よりもこれは自分たちの為であるという意識をベトナム側に持ってもらった上での作業で無いと意味が無い。

日本側は政府だけでなく実際に投資をし苦労している民間の参加が不可欠であることから日本経団連およびハノイ、ホーチミンの日本商工会の参加、および投資環境改善にはODAの活用が必要なことからJICAやOECF(当時)さらにはJETROにも参加してもらった、文字通りのオールジャパン体制を敷いた。当時、日本経団連のベトナム経済委員会の 宮原賢次委員長(住商会長)に私との日本側共同議長を引き受けていただいたが、口説き落とすのに苦労したのを思い出す。(引き受けて頂いた後の、力強いご協力には多いに感謝している。その後岡会長、加藤社長と歴代の住商幹部が引き継がれている。)

先方はフック計画投資大臣が議長となった。このようにして始まった作業は、約半年後に約100項目の問題点を洗い出し、その夫々に対する改善策がベトナム側の合意のもと作られ両国の首相に報告された。その多くに実現の期限が付されていた。これはいわばベトナム経済の構造改革であり、合意に達するには先方の関係省庁には強い反対があった。

どの程度の項目が実現するか、私は必ずしも楽観的ではなかったが1年後の2004年暮れに行ったレビューで、100項目中9割近くが実現あるいは実現するとの評価がなされた。法人税、個人所得税の軽減からワンストップサービスさらにはバイク部品の輸入制限の撤廃等、中には法律の改正が必要なものもあり、正直言って私には嬉しい驚きであり、このとき私のベトナム人に対する信頼は大きく高まった。

自分たちにとって何が得か、利益となるかが理解できれば柔軟にそれを受け入れ、実行するだけの柔軟性と現実性を有している。又この作業はある意味でかなりの内政干渉であったが、如何に最大の友好国の大使とはいえ私の提案を受け入れてくれたのは、日本に対する信頼と期待が如何に大きいかを示している。

尚この共同イニシアチブの有効性からその後も続けられ現在第4次の作業中である。日本側の取りまとめと先方との交渉等非常にタフな作業が上手く行ったのは、当時の日本大使館次席北野充公使(現総括審議官)に負うところ大であることを感謝と共に付言したい。
この共同イニシアチブによる投資環境の改善の効果は大きく、2005年以降の対越FDIの伸びは著しく、ベトナムの今の発展に大きく貢献したのではないかと自負している。

2.自然の同盟関係
 さて「自然の同盟関係」であるが2004年7月久方ぶりに日本の外務大臣(川口順子)がベトナムを訪問することとなり、私はこの機を捉え、「日越戦略的パートナーシップ」に外相間で合意し、共同声明に書き込むことを目論んだ。国際社会に復帰したとは言え、社会主義体制の下、全方位外交を標榜する国として、如何なる国とも「戦略的――」と言われるような関係には無かった(ロシアとだけはベトナム戦争中の恩義もあり一応そのような関係にはあったが、経済を始めとする実質面での戦略性は無かった)が、実質的には日越は戦略的な協力関係にはあることは認めつつも、共同声明で対外的に発表することには賛成が得られなかった。私が少し事を急ぎ過ぎたのかもしれない。

そして2006年10月のグエン タン ズン首相の公式訪日を前に私は再度ズン首相訪日の際、共同声明で「戦略的パートナーシップ」を謳いたいと提案した。ズン首相は私を招致し、自らこの点についての、私の考えを質した。私の発言を注意深く聞いた後ズン首相は戦略的と云うからには、日本がベトナムの経済社会開発に強くコミットしてくれることが無ければならず具体的にはベトナムにとって死活的な重要性を有する次の3つのプロジェクトに対し日本のODAを含めた協力をコミットしてもらいたい、又さらに経済面のみならず安全保障面での協力も深めていくこと等を意味するのであれば「戦略的パートナーシップ」に合意することは可能である、3つとは「ハノイーホーチミン間新幹線」「ハノイーホーチミン間高速道路」「ホアラックハイテクパーク」であると述べた。


IMG2.jpg2006年9月ズン首相訪日於奈良


ベトナムに新幹線、と云うことを聞いたのはそのときが初めてであり正直言ってかなり驚いたが、よく考えると南北に長い地形から国土のバランスの取れた開発の為には鉄道と道路の大動脈が必要なことは理解でき、又計画から実現まで最低10年以上かかることを考えれば別に大それたことでは無かった。
ズン首相の考えを聞いたあと共同声明発出に至るまでの詳しい経緯は省略するが、本省や国土交通省の理解を得るのに多いに苦労したが結果は共同声明にこれら3プロジェクト名を明記し日本として最大限の協力をする旨謳い、戦略的パートナーシップも明記することが出来た。

最高意思決定機関であるベトナム共産党政治局(14名)内には日本との戦略的パートナーシップ関係に入りしかもそれを対外的に明らかにすることには慎重論もあったとも聞くが、ズン首相としてはこれを押し切ったということでも有りこれら3大プロジェクトに日本が誠実に協力していくことがズン首相引いてはベトナムの日本への信頼を増していくことになろう。因みに調整型であまり個性を前面に出さないベトナムの他の指導者とは異なり、ズン首相は強いリーダーシップを感じさせる。

新幹線については私はズン首相に日本が協力するからには、ハード、ソフトのワンパッケジですよ、と念を押したのに対し、よく理解している、「ベトナムと云う家の鍵を日本に預けます」、と述べたことが強く印象に残った。その後、JR、国交省を含む日本側関係機関の足並みを揃えるのに多いに苦労したが、JICAの事前調査に漕ぎ着け、一昨年、ベトナム政府は国会にプロジェクトの承認を求めた。このときは国会の承認は得られなかったが、ハノイからホーチミンまでの1800キロを一挙に事業化するという非現実的な案であったことが理由であり、新幹線の必要性についての認識に変更は無く、近くハノイおよびホーチミンを両基点とした夫々ずっと距離を短くした、より現実性の高い案として、再度国会にかけられることになっていると理解している。   

南北高速道路はすでに区間を切ってADBの協力も得ながら建設が進んでいるのでいずれ完成しよう。ホアラックハイテクパークもJICAの調査も行われインフラ建設も徐々に進み、日本やローカルのハイテク企業の投資が少しずつ進展している。

 こうして日越は2006年「戦略的関係」に入ったわけだが、それ以降ズン首相は私に会う度、日本にはあらゆる面で特別の配慮をする旨言ってくれたが、実際、例えばハノイ市内のハノイ市所有の超一等地(国際会議場横)がホテル用地として外国企業の入札に付された案件があった、日本企業と韓国企業が最後に残り、正規の条件以外のオッファーの差もありハノイ市長はほとんど韓国に決めようとしていたが、そのとき私はハノイ市長のみならずズン首相に直接働きかけた、その結果急転直下日本企業が落札した。

そのほかにも例えば三菱重工のMRJ計画があるが2007年当時、どこからも大口の購入予約が取れず三菱や経産省は焦っていた、そこで何とかベトナム航空にと言うことになり、私も自ら運輸大臣や商工大臣に働きかけた、その結果しかるべき部品生産のローカライゼーシオンを条件に、何機か忘れたが将来購入の約束が取れた。2011年レアアースの開発権を日本に与えたこと、原発建設での日本への配慮等、戦略的関係だからこそであることを忘れてはならない。

3.インドシナ地域の要
 インドシナ半島では軍事政権下にあったミャンマーが民主化の方向に大きく舵を切りつつあり、漸くODAおよび民間投資による開発が進むことになろう。これによってインドシナ半島が一つの広域経済圏として発展する政治的環境が整うことになるが、すでにベトナム中部のダナンからラオス、メコン河を越え西に向かう東西経済回廊はミャンマー部分を除き完成しており東北タイのコンケンから南のバンコックまで立派な道路で一直線、さらに華南からベトナムあるいはラオス、カンボジアを夫々南に縦断する道路網も完成しつつある。(バンコックから部品をハノイ周辺の組立工場に輸送するのに以前は船で6泊7日かかったのがトラックで2泊3日に短縮)この華南を含むインドシナ地域経済圏では北ベトナムは丁度扇の要にあたり、インドシナ半島を縦に横に道路網が整備されるに伴い今後益々その重要性は増していくであろう。

4. 2005年安保理改組問題
もう一つ越の対日重視を物語る事実を紹介したい。
 2005年わが国は国連安保理常任理事国入りを目指し、G4(日、独、印、伯)で、おそらく戦後のわが外務省として最も大掛かりな外交努力を展開した。結果はご承知のとおりだが、米国の出方の読み誤り、アセアンの一致した協力が得られなかったこと等、当時日中関係が最悪だったとは言え、外務省は致命的な誤りを犯した。特に戦後ODAを中心として営々と築いてきた筈のアジアとの関係でその一致した支持が得られなかったことは、大きなショックであったが、アセアン10で最後まで日本支持を貫いたのはシンガポールとベトナムのわずか2国であったことは余り知られていない。

特にベトナムは日々、中国からの現実の脅威(1500キロの陸上国境および海上国境のトンキン湾や南シナ海での中国の実力行使)にさらされつつ、歯を食いしばってその圧力に耐えながらの日本支持であり、それがよく分るだけに大使として私は本当に嬉しかった。(当時タクシン政権のタイ、マレーシアなどはほぼ完璧に中国シフト、インドネシアは自らも安保理に色気を出していたとの理由はともかくわが国の懇請にあいまいと言うか時には敵対的な言動をしたのは許しがたい。)

5.日本語教育
 次に述べたいのが日本語教育である。
私は着任後の教育訓練大臣への表敬訪問の際、中等義務教育課程での日本語採用を要請した。ベトナムの義務教育は日本と同じく9年(小学5年、中学4年)であるが当時、外国語は英語、仏語、ロシア語、中国語からの選択であった。私は日本との関係を重視するなら日本語も加えてしかるべきである旨、全国一斉には無理だろうからハノイやホーチミンでモデル校をいくつか選び、試験的にやっては如何、教師やカリキュラム作成は日本が責任を持って協力するからと迫った。

駄目もとであったが、結局 先ずハノイの1校の課外授業として2003年から「中等教育における日本語教育試行プロジェクト」が立ち上げられ、2005年からはハノイ、フエ、ダナン、ホーチミンの計8校で第1外国語として日本語が採用されることになった。2010年時点で中学校12、高校10で約4千名が学ぶに至っているが、今後これがさらに増えるか否かは、これら日本語を学んだ者が将来日本語を生かした職業につくことが出来るか否か、日本語教師の数が足りるか否か等にかかっている。今やベトナムでは日本語は英語の次に人気があるといっても過言ではなくなってきている。

6.日越間の歴史
 さて少し歴史を遡ってみたい。

(1)阿部仲麻呂
ハノイは一昨年(2010年)、ベトナムの首都1000年祭を祝ったが、1000年以前は中国(唐)の領土で、当時ハノイはタンロンと呼ばれ唐の安南都護府が置かれていた。遣唐使として長安で長年を過ごした阿部仲麻呂は日本に帰るべく中国南部の寧波を船出したが難破してベトナム中部の港町ヴィンに漂着した。そして再び、長安に陸路戻ったが、その途次タンロンを通過したことは容易に想像できる。

その後西暦768年彼は安南都護としてタンロンに赴任したと言われる。(ベトナム文化芸術中央委員会作成資料による)2004年ASEM首脳会議出席でハノイに来られた小泉総理は到着後空港からの車の中で私に、「ここに阿部仲麻呂がいたのかーー」と感慨深げに云っておられたのを思い出す。現在、ハノイ市のど真ん中でタンロン遺跡(ユネスコ遺産)の発掘が行われているが、いずれ阿部仲麻呂の名前が書かれた木簡などが発見されることを楽しみにしている。。

(2)ホイアン日本人町
 15、16世紀には多くの日本人が東南アジアに雄飛した。タイのアユタヤ、インドネシアのバタビア、ルソン(フィリッピン)等、そしてベトナムの地にも渡り、中部のホイアンには日本人町が作られた。現在は日本の協力で修復され昔の町並みを取り戻し、毎年ホイアン日本祭りが開催され多くの観光客を集めている(ユネスコ遺産)。

(3)東遊(トンズー)運動
 1905年日本は大国ロシアを破った。フィンランド、トルコを始めとした多くの被抑圧民族を鼓舞したが、ベトナムも例外ではなかった。現在、ホーチミンと並んでベトナム民族の偉人として尊敬を集めているのがファン ボイ チャオである。彼は独立運動の指導者であったが1904年越南維新会を組織して自ら訪日しフランスの支配下にあったベトナムの青年に日本への留学を呼びかけた。これが「東遊運動」である。

留学生の数は270名にも達し東京同文書院や振武学校などで学んだ。日本政府は当初彼らに寛容で財界人、大隈重信などの政界人は財政的支援をした。しかしフランスから見れば抗仏運動と映り、1907年の日仏協商後日本政府は彼らを弾圧、取締りの対象とし、多くの留学生は日本を去った。(日本に残った数十人のベトナム人は多いに困窮したがそれを財政的に救ったのは静岡県袋井市浅羽町の医師、浅羽左喜太郎と言う人物で有った事実を付言する)

このように、同じアジア人としてベトナム人の熱い希望に応えられなかったことは、私の中では日本人の大きな「借り」と意識されている。

(4)ボーグエンザップ将軍
私は1968年大卒で所謂ベトナム戦争世代であるが、その世代にはボーグエンザップと云う名前はよく知られていた。「赤いナポレオン」と称された。彼率いるベトミン軍は1954年ヂエンビエンフーにおいてフランス軍を完膚なきまでに打ち破り、フランス統治は事実上これをもって終止符を打った。政治はホーチミン、軍はザップとベトナムの誇るべき歴史上の英雄である。着任間もない頃、ボーヂエンビエンと称するベトナム人がある人の紹介でやってきた。話しているうちにそれがザップ将軍の息子であることが判明し、彼は正に1954年生まれでヂエンビエンフーにちなんで命名された由。私は父君は何時亡くなられたかと聞いたら、まだ存命だとの事なので、是非ご挨拶したいとしたところ早速訪問が実現した。

当時すでに92歳ぐらいだったと思う。夫人と二人の息子家族そろって歓迎してくれた。私にとっては大いなる感激であったが、なぜこの話をするかと言うと、太平洋戦争終結後、数百人にも上る旧日本兵がベトナムに残留し、ザップ将軍率いるベトミン軍に加わり、教育や訓練面で多いに貢献したと言う事実を紹介したかったからである。インドネシアで日本軍がスカルノやハッタを中心としたペタを育成し、さらに戦後の独立戦争にも協力した話は知られているがベトナムでも同じような話があった。

尚ザップ将軍の夫人は日本人医師の手で白内障手術をしたとの事であとで調べたら、ここ10年間ボランチアで裸足の医者をベトナムでやっている眼科医服部匡志氏であった。又2008年私は離任の際再びご挨拶できた。(今尚存命)


IMG4.jpg2008年離任挨拶 ヴォグエンザップ将軍と夫人

(5)ベトナムの歴史教育
私は着任後ベトナムの中学、高校でどのような歴史教育(なかんずく日本について)が行われているか教科書の記述を調べた。驚くべきことに、太平洋戦争中日本がベトナムを占領していた事実などは一言も述べられておらず、他方、明治維新以降の日本の目覚しい発展に多くの記述がなされており、日本に対する大きな評価が明確に読み取れる内容であった。、しかし、日越間に所謂「過去の歴史問題」が無かったわけではない。両国関係が好転する90年代以前においては、ベトナム人はよく「200万人餓死事件」を口にした由。太平洋戦争末期敗色濃厚の日本軍はベトナム(と云うかインドシナと云うか)で米や肥料の徴用を行い、結果として多くのベトナム人が餓死を余儀なくされたという出来事である。今でこそ彼らはこれを口にすることは無いが、我々の胸の奥底にはしっかりとしまって置くべきと思う。

7.ベトナム人とは?
(1)2005年中国において
反日の嵐が吹き荒れていた頃、ベトナムの指導者は日中関係の行方に大きな関心を持ち、首相や外相などは私と会う機会には、よく日中関係についての質問をした。こちらの一通りの説明を聞いた後、ベトナムは過去よりも未来を見ている、過去について言うならば、中国にもフランスにもアメリカにもそして日本にも言いたいことは山ほどある、しかしそれでは明るい未来は築けない、と述べた。

司馬遼太郎はベトナム人を称して「川原に生える葦」と言ったが、大きな力は身体をしならせながらやり過ごし、したたかに生き延びる、言い換えれば非常に現実感覚が優れていると言うことであり、今の自分たちにとって何が損で何が得かを嗅ぎ分ける能力に優れていると言うことでもある。他方「義理」とか「恩」とか儒教の価値観をも強く持っている。以前、渡辺喜美議員は「ベトナム人は義理堅い、昔、親父(故美智雄氏で日越友好議連会長)に世話になったベトナム人が日本に来るとわざわざ栃木の親父の墓参りをしてくれる、こんなのはベトナム人だけだ」と言っておられるのを聞いた。(ベトナム語で有難うは「カムオン」と云うがこれを漢字で書けば「感恩」である)

私がベトナムを去ってほぼ4年がたつ。ベトナムの後OECD代勤務となったが、フック官房長官(現在副首相で政治局員、ズン首相の後継No.1)やニャン副首相(現在も)フン外務副大臣(現駐日大使)など、OECDメンバーでもないのに、色々理由を作ってパリまで会いに来てくれた。私は退官後度々ベトナムに出張しているが、ズン首相も副首相も大臣も会ってくれる。昨年12月にズン首相訪日の際も短い滞在にも関わらず、わざわざ私の為に時間を割いてくれた。これも彼らが「義理」や「恩」を大事にしているからであろう。
 ベトナム人は優れて受動的である、中国人のような攻撃性はその遺伝子にほとんど持ち合わせていないようだ。謙虚と言うか控えめと云うか、目立ちたがらないと言うか、バランスを大事にし極端を嫌う、例えば、優秀な企業家とか国家に貢献した経営者とかが表彰されるとする、その場合絶対に一人だけが特に優秀と言うことにはしない、必ず複数が対象になる、と言った具合に。

1979年中国は不遜にもベトナムにレッスンを与えると言って、ベトナムに攻め入った、結局中国はさんざんにやられて引き上げたわけだが、このときも先ずベトナムは北京に使節団を送り、中国の顔を立てている。これがベトナムのしたたかさである。
司馬遼太郎は日本人とかベトナム人を「植物的」、中国人を「動物的」と捕らえ全く異質であるとしている、大乗仏教徒が人口の9割でその全てが儒教徒と言っても良いベトナム人と日本人はまことに似ている面が少なくないが(私はお互いのDNAの9割ぐらいは共通では無いかとすら思う)、片やほとんど完璧に受動的であるのに比し、我々日本人は基本的には受動的だが時にものすごい攻撃性を見せる、現実性に乏しく、お調子者でノー天気ですらある、この違いはどこから来るのか?一方は大陸と接し日々揉まれてきたこと、小国であること、であるが片や日本は島国で国際的に揉まれることが比較的に希薄であったこと、大国であろうとしたこと、等が故か?しかしそれにしても、なんとよく似た肌感覚か。

(2)南北統一
1975年サイゴンが陥落しベトナム戦争は終結した。その結果今の版図になったわけだが歴史上これだけ広い国土を有するのは初めてである。統一されたが北部、中部、南部の間の違いは大きい。性格、言葉、食べ物等あらゆるものが異なる。南の人々は北に征服された、北の人々は南を解放したと思う。文化的にも北はやはり中国の影響が強く残り、中部や南はカンプチアの影響が残る。(中部のダナンではお腹を出したセクシーなヒンズー系ダンスが見れる)指導部の人事では今まで常に3地域のバランスを取ることが重要であった。
書記長、首相、国家主席を分け合った。しかし2006年の党大会で初めてこのバランスが崩された。中部がいなくなった。

これは戦後30年を経て漸く厳格なバランスを取らなくても良いくらい安定してきたとの理解が可能である。昨年の党大会でも、北は書記長だけで首相、国家主席はいずれも南。政治局員の構成を見ても南優位となっている。やはり経済重視からも必然的にこのようになるのであろう。しかし例えば新幹線を北から始めるのか南から始めるのかも依然として国内政治上配慮が求められてはいるようだ。

8. これからのベトナムは?
これからのベトナムはどこへ行くのか?社会主義の標榜を何時かなぐり捨てるのか?
ベトナムは少しずつではあるが確実に変化している。
ベトナムにも政治犯はいるし、一党独裁であり体制批判や党批判はご法度と言うようなタブーもある。汚職もあるし、その弊害も大きくなってきている。しかし中国のような党や政府官権の目に余る横暴や民衆抑圧と言うようなものは夙に耳にしない。

私は中国とベトナムは統治体制は基本的には同じだが手法は全く「似て非なるもの」と思う。片や圧政的、抑圧的、乱暴で性急であるが片や民衆を気にした「ポピュリズム的社会主義」で時間をかけて、出来るだけ穏便にゆっくりと、である。だから経済発展のスピードもベトナムは比較的にゆっくりしている。例えば開発とは土地の収用に始まる破壊と建設であるともいえるが、ベトナムでは土地の収用手続きは至って民主的でしっかり代金も払うし、時間もかける、ある朝いきなりブルドーザーが現れると言うようなことは有り得ない。あるとき私はハノイの党書記(No.1で政治局員)にハノイの町は通りが狭くていり混じっており、これではモータライゼーシオンに対応できない、あなた方の体制ではなんでもやれるのだから、今、都市計画を根本的にやっておくべきでは無いかと云ったのに対し、我々はそのような乱暴な手法で何でもやれるわけでは無い、と言っていた。

私は2006年の第10回共産党大会の際、ハノイにいたが、5年前の第9回大会に比べ指導部の選出方法に、見かけだけ、とも云えようが、例えば国家主席ポストに複数候補があるとか(党大会での選出時点では一人に絞られてはいたが)大会で指導部の意見に反論もあったとか、の新しい現象があった。この大会を前にベトナム共産党は日本を含む幾つかの国に政治体制のあり方についての調査団を派遣した。

日本に来た調査団は、帰国後、日本の政治体制は一つの参考になる、自民党の一党支配だが、自民党には幾つかの派閥があり、夫々違ったことも云っているが最終的には一つの党として機能している、と云う趣旨の報告をしたとも聞く。つまり私はベトナムはそろそろ一億人にもならんとし、しかもベトナム戦争後に生まれた35歳以下が60℅以上を占める国民の多様化する価値観を今までのように押さえ込むことの無理を敏感に認識し、何らかの方法でゆっくりと時間をかけて変わろうとしていると考える。目に見える変化が現れるにはあと何年かかるかは分らない。しかしベトナム人らしく穏便に微妙なバランス感覚で何らかの調和にソフトランヂングするであろう。

9.雑題
(1)ロータスロード
蓮は謂わばベトナムの国花である。仏の国でありベトナム航空の翼には蓮の花、5月6月ともなると、ハノイの池、湖などは蓮の花が一面を覆う。「古代蓮」又の名を「大賀蓮」というのをご存知か?戦後間もない頃、千葉県検見川で古代の木造船が掘り出され、中から数粒の干からびた蓮の種が発見された。東大の大賀一郎博士がそれを生き返らせたのがいわゆる古代蓮。自民党の二階俊博議員は、おそらくその古代蓮の故郷であろう中国にその古代蓮を里帰りさせ、蓮園(海南島)を作ったと私に言われたので、是非、蓮の国であるベトナムにもその古代蓮を持って来て頂けないか、「ロータスロード」を造りませんかとお願いした。同議員は二つ返事で応じ、種と蓮根をベトナム政府に寄贈し、農業省の協力も得て、丹精を込めたが、上手く根ずかなかったのは残念であったがそれでも日本とベトナムは蓮が内蔵しているある種の美意識を共有しているのではなかろうか。因みにホーチミンの生まれた村の名はゲアン省の「蓮の花村」である。


(2)服部匡志眼科医
「ベトナム」の赤ひげ、と称される眼科医がいる。2002年私の着任の少し前から服部医師はベトナムでの眼科治療を始めた。日本での医師の椅子を投げ打ち旅費から滞在費、治療用の器具、薬剤等すべて自己負担の行動であった。これは日本での学会で出会った一人のベトナム人眼科医のたっての要請に突き動かされての事であった由。彼は普通の眼科医がやらない、といよりは、技術的に難しくてやれない、「硝子体内視鏡手術」の第一人者で、この内視鏡手術をやれる医者は日本に数人、フランスやアメリカでもやはり数人しかやっていないとも聞く。(東京の大学病院を始め大きな眼科病院でもこの手術はやれない)

服部さんはいわば「ブラック ジャック」的存在で、時々日本に帰ってきて、彼のいくつかの拠点病院で彼の手術を待つ多くの患者の手術をして、お金を稼ぎその金でベトナムで無料奉仕をする、彼に失明を救われたベトナム人は5年前の時点で6000人を越える。前記のボーグエンザップ将軍の夫人を始め、共産党や政府の要人も多く含まれている。日本にいたら巨万?の富を築けたのに、と彼は笑っている。私は彼の志に打たれ、私のできる協力すなわち、「草の根無償」をかなりの件数使って彼が拠点とするハノイの国立眼科病院を始め地方の病院に医療器具の援助をしたり、知り合いに寄付をお願いしたり日本のテレビなどのマスコミで取り上げてもらったりして応援をさせてもらっている。

ここで余談を一つ。私はベトナムの後OECD在勤となったが2009年突如網膜剥離になった。たまたま東京にいる時で、都内のさる大学病院に駆け込み、何もわからないまま、翌日緊急手術を受けた。その3週間後パリのアメリカンホスピタルで術後の検査をしたところ、同じ目の別の個所に剥離が生じている、おそらく最初の手術の影響ではないか、自分(フランス人の女医)は内視鏡手術を専門にしており、フランスではじぶんの他にはあまりいない、自信はある、との事だったので、すぐ服部医師に電話をして、相談した。彼は帰れるなら帰ってこい、自分がやるから、しかしフランスでも内視鏡でやるのなら信頼してそちらでやっても良いのではないかとのことであった。従来の古典的術法ではまた失敗する恐れがあり、結局フランスでやった。おかげさまで上首尾で今は以前と変わらず見えている。彼との縁を感じた。(その後様々な目の難病に悩む日本人を彼に紹介している。)

(3)杉良太郎ベトナム特別大使
2005年5月杉良太郎氏は当時の町村外務大臣により「日越」親善大使に任命された。1980年代後半から、ベトナムに関わり始め、自らベトナムとの文化交流を目的とする財団を造り、日本語教育を始めとする交流を行う他、孤児や聾唖者の学校に対し慈善活動を継続的に行ってきた。(一部にはこれを杉の売名行為だと中傷する者も少なくなかったとの事だが私は全くそうは思わない、中傷する前に自分もやってみろと言いたい)これらの活動は賞賛に値し、外務省が親善大使を委嘱する事に全く違和感は無い。その後杉氏は私に対し、自分はベトナムの為にやっているのであり日本側だけの親善大使では片手落ちだから、この際ベトナム政府からも「越日」親善大使に任命してもらいたく、大使の尽力をお願いしたいとの要請があった。

これまで長く戦禍の中にあり、1975年ベトナム戦争後漸く南北統一国家を作ったとはいえ、その後もカンボジア出兵もあり、国際社会の中で孤立してきた。1986年ドイモイ政策を打ち出したとはいえ経済開発に専念し外交面では出来るだけ目立たない形で近隣国との関係維持に精一杯で、とても外国人を親善大使のようなものに任命するなどと言う事は、まず考えもつかず、勿論前例など皆無であった。

「親善」大使とは云え日本のように気軽なものではない。先方も苦労しながら各種法律、法令、慣習等に照らし検討してくれ(長く科挙制度を採用してきたベトナムは恐ろしく文書主義、前例主義である)、結局最終的にベトナムの在外大使の任命と同様、国家主席(元首)が任命する形で応じてくれた。後にも先にもベトナムが外国人をこのように任命したことは無い。杉氏が今後も無私の貢献を継続することを期待したい。

(4)コシノ ジュンコさん
コシノさんはベトナムのファッシオン デザイン分野で大きな貢献をされており、2004年からは毎年開催されるベトナムの若手デザイナーによるデザインコンクールの審査員を務め、優秀者を日本の文化服装学院に留学させていた。私は来年(2013年)日越外交関係樹立40周年記念事業として日本のオペラ「夕鶴」のハノイ公演をコシノさんのご協力(オペラ実行委員会副会長及び衣装製作)を得て、実施することにしている。

10.日越関係の現状と今後

(1)現状
ベトナムにとって最も重要な国は、日本、アメリカそして中国である。旧宗主国フランスとの関係は他のヨーロッパ諸国と大差は無い。ラオス、カンボジアなど正に生命線と言うべき関係は別である。対米関係は非常に良好、ベトナム戦争の後遺症は時々、枯葉剤の問題が出てくることは有るが、ベトナム戦争後の世代が70℅近くを占めていることもあり、余り感じられない、むしろ中国を念頭に置いた安全保障の観点および経済関係の緊密化から対米関係は極めて重要。

ベトナム人は正直に言えば中国(人)が嫌いだ。面従腹背で言葉で言わないだけだ。(こちらから水を向けても中国については余りコメントしたがらない)しかし、最近の南シナ海(のみならず余り報道されないが越中海上国境のトンキン湾での漁業問題)での中国の乱暴な振る舞いは耐え難いレベルにまで達しており、一時学生、市民は反中デモを連日行った。(当然当局の意向も受けて)私は政府直轄都市のハイフォン市人民委員会特別顧問を仰せつかっているが、昨年11月同市の人民委員長(市長)は、こちらから聞きもしないのに、最近、ベトナムは中国に弱腰だ、もっと軍備を増強し守りを固めるべきだと市民から突き上げられている旨語っていた。

これは大きな変化だ。(因みにハイフォンは漢字では、「海防」と書き、歴史的に中国に対する海の防人であった)

過去何千年にも亘って中国から何度も侵略され常に大きな脅威に晒されてきた国として如何に同じ社会主義を標榜しているからと言って、脅威感が薄れているわけではない。他方経済面では良いにつけ悪いにつけ関係は増してきている。中国との間合いの取り方は大変難しい問題であろう。因みに現在の14人の政治局員の中で明らかに親中派(あるいは反中派)と目される人物はいない。中国との微妙な関係を物語る出来事を一つ。

ベトナムは2008年頃だったかボーキサイトの採掘権を中国に与えたがその後中国はボーキサイト鉱山のあるベトナム中部のハイランド(高原都市ダラット付近)に数千名(一説によれば1万人近く)の中国人労働者を送り込み(査証も取らず)辺りを柵で囲い、あたかも租界のごときものを作ってしまった、労働者と称して人民解放軍の兵士も混じっているに違いない、このまま放置すると領土が取られかねない、等国内政治上の問題になり、大方、お引取りを願ったそうだが、昨年来日したボーキサイト鉱山所在地のラムドン省の役人によれば、依然としてかなりの中国人が残っている由。このような中国のやり方も脅威感、嫌悪感を高めている。

しかし好き嫌いに拘わらず中国との関係は重要である。一言でいえばベトナムは中国が怖い、我慢するしかない。政治指導部も腹の中はともかく、中国の怒りを買わないよう細心の注意と表面上の礼儀を尽くすと言うのが鉄則のようだ。(従って越中関係は特に、表面だけ見ても正しくない)以前からの不文律として、共産党書記長は「北」出身者が、首相は「南」出身者がなっているが(国家主席や国会議長は実務を担当するポストではないという意味で必ずしも実権を伴うポストではなく、地域間あるいは権力関係のバランスを取るとの観点から選ばれてきた)これは書記長は主に中国共産党との政治的関係を担当し、首相は主に経済問題を見るとの役割をも勘案してのことである。  

対米関係であるが、1995年外交関係が樹立されたが、この際にはベトナム戦争中空軍パイロットとしてハノイ上空で撃墜されて長くハノイ市内で収容所(当時米兵の間ではハノイヒルトンと称された)生活を余儀なくされたジョン マケイン上院議員が大きな努力をした。しかしその後もアメリカは対越ODAは行わず、又人権について時折問題にする等もありお互いにローキーであったように見受けられる。2000年代中ごろからは例えばインテルが大規模半導体工場をホーチミンに作るなどアメリカとの投資、貿易関係も緊密化しだし、又対中国の観点からのアメリカのプレゼンスの必要性の再認識もありベトナムにとって対米関係の重要性は日に日に高まっている。人口の70%近くがベトナム戦争後生まれた世代でもあり、ベトナム人一般の対米感情は、むしろ大変良いと見ていいのではないか。

 日本はと言えば、ベトナムにとっては、何らの警戒心無しに頼れる唯一の大国であり気前の良い兄貴と映っていよう。玉に瑕は腕力が無いことか?、対中姿勢が弱腰であることか?(ベトナムとしては、日本にもっと強い対中姿勢を取ってもらいたい)

ベトナム政治局総体の考え方として日本との関係を最重視すると言うのはあると思うし大国の中で最も信頼もされているのは間違いない。個々のベトナム人のレベルで見ても、私は5年半もいて、日本が嫌いだとか、悪く思っているとか日本に何らかの悪意を持っていると云うような人間にはついぞお目にかからなかった。(雰囲気でわかる)むしろほぼ全員が親日であり、日本に憧れていると言っても過言では無い。

幸いわが国の対越ODAは年々増額され、インド、インドネシアと共に3大被援助国に数えられている。昨年から中所得国になったがまだ当分ODAは必要であり、今後もこのような前向きな政策を続けるべきであり、仮にこれが減額されるような場合、日本の変節とも受け取られかねず注意が必要である。(ODAはベトナムが日本の対越姿勢を見る際の重要なバロメーター)

(2)今後
今の良すぎる位良好な関係をどのように維持し、より強固なものにするか?アセアンは中国との間合いの取り方で各国異なる、したがってわが国との間合いの取り方も違う。2020年には一億人に達し、経済規模も格段に大きくなった戦略的パートナーベトナムのわが国外交に置いて有する重要性は益々大きく、我が国の対アセアン外交の橋頭保にも成りえよう。少なくともベトナムはわが国との関係についてはすべからく前向きであり好意的である。しかし期待も大きい。

ズン首相の3大プロジェクトはもとより、まだ当分の間ODAでの最大限の協力の姿勢を崩さないこと、少なくとも年一回ぐらいはトップレベルでの交流を行うこと、安全保障面での協力(すでに大臣レベルを始め対話はある程度進んでいるが)を可能な限り具体的に進めること、わが国のポップ カルチャーなど文化面での日本からの発信に力を入れること等、ベトナムでの我が国の有形、無形でのプレゼンスの強化に努めると共に普段の努力によってベトナム側の期待が裏目に出ないようにしなければならない。特に人の交流は大切である。現在日本にいるベトナム人留学生は中国人、韓国人についで多く3千数百名を数える(その多くが私費)。

ここで特記したいのは、平成24年度からスタートする日越EPAの下での看護士、介護士受け入れを是非とも成功させなければいけないと言う点である。インドネシアおよびフィリッピンからの受け入れは見事に失敗した。日本は受け入れると言っておきながら実際は乗り越えがたいハードルを作り、そもそも入れるつもりなど無かったとしか考えられない。これが一流国のやることか?ベトナムについてはわが方の多少の反省もあり事前の日本語教育により多くの時間をかけることにはなったが基本的な制度は同じ。これも失敗したら、もう2度と誰も来なくなる。ベトナムともまずくなる。私は以前からベトナム人看護士特に介護士が日本には必要であり又儒教で年寄りを大切にすることから介護には最も向いていると考えてきた。現在、私はベトナム政府(保健省)の要請もあり、出来るだけ多くのベトナム人が日本での試験に合格できるようなベトナムでの制度構築の相談に乗っている。

11.ベトナムの問題点
これまでベトナムのどちらかと言うと良い面ばかり紹介してきた。悪い面はどうか?
最大の問題は、蔓延りつつある汚職である。ベトナム人社会は恐るべき「贈答社会」である。誰も彼も人に物をあげたがる(例えばこれを悪用しているのが、「teacher’s day」と称して先生に感謝する日がある、これは先生に心付けをする日、つまり親に子供のために先生に賄賂をしなさいと云っているようなもの、しかも以前は一年に一回だったのが最近は二回になった由)心付けが大型になり陰にこもったのが賄賂、だから余り罪意識はないのかも知れないが、数年前ズン首相自らが委員長になった賄賂取締りの委員会を作らざるを得なくなるほど、大きな問題になっているが下火になるような気配はない。

ベトナムの死亡原因の第一は勿論、交通事故(あのバイクの波を見ればうなずけよう)だが、病気ではエイズである。ベトナムの場合、薬の注射回し射ちが原因らしい。交通事故死は毎年2万人近くにも及ぶがもっと問題は死なないまでも脳をやられる者の数は定かではないが数万人にも達ししかも若者が多く、国の発展にとり大いなる損失である。このような益々増大する各種社会問題に事実上ほとんど手が回っていないように見受ける。

科挙制度の名残か恐ろしく官僚的、大使が政府の誰かに面会を申し込むときは、まず口上書をくれ、となる。電話で用事を済ませることは言葉の問題は有るがまず不可能、とても堪らない。と長く日本に住むベトナム人に云ったら、日本のほうが官僚的で手続きが大変、と言われた。まあ、あげつらえば色々有ろうが、「あばたもえくぼ」、良い面を強調し悪い面は出来るだけ目をつむりやり過ごす、これが大事だ。


12.総括
以上長々と思いつくまま、ベトナムについて語ってきた。ベトナム社会は表に出る部分だけ見ても駄目だが、隠された部分はなかなか外国人には見えて来ない。(社会主義体制である事もあるが)時々気を許したベトナム人がしてくれる裏話は表に出ているストーリーとはまるで異なる場合が多い。(昨年の党大会で決定された現指導部の人事についても、ここでは詳らかには出来ないが決してすんなり落ち着いたわけではなく、それこそ血みどろの権力闘争の結果であり、我々としてもそのような経緯をも念頭に置きながら、誰とどのような関係を持ちお付き合いをしていくか考えないと、こちらの望んだような結果にはならないこともあり得る。)

又以上は日本大使としての立場から見たベトナムとも言え、別の立場であれば又違ったベトナムが見えるであろう。我々日本人は他国あるいは他国人を語る場合、無意識に日本人は完璧で聖人君子であるとの前提に立っている、「中国人にだまされて商売乗っ取られた、ベトナム人に金を持ち逃げされた、ベトナム人は立小便をする」などなど、それじゃ日本人は騙さないのか、つい昔は立小便していたではないか。だから私は余り悪い点は敢えて見ないようにしたし今回も語らないようにもした。

ベトナム人は愛すべき人々だ。アジアで日本に真正面から(squarely)接しているのはこの国ぐらいのものである。戦後数十年日本は賠償に始まり巨額のODAをアジアに注ぎ込んだ。インドネシアの、タイのフィリッピンのマレーシアの今あるのは誰のお陰か?それも綺麗さっぱり忘れ安保理問題と言う日本にとっての一世一代の賭けに彼らはチップをはろうともしなかった。しかし他人を恨む前にわが身を反省しなければいけない。つまりわが国の戦後アジア外交を、である。「金の切れ目は縁の切れ目」にならないよう、ベトナムとも失敗したら、もはや浮かばれない。後輩諸君、知恵を出せ、汗をかけ、そして国を想え。!! (了)  (2012年3月8日寄稿)