大震災とサッカー「聖地」への招待

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駐英大使 林 景一

大震災の後の支援活動については、世界中の在外公館で館を挙げて取り組みが行われ、様々な感動的な話があると思う。そういう「いい話」の一つとして、昨年11月24日、被災地からの16人の高校生(岩手、宮城両県から各5人、福島から6人)が、ロンドンのウェンブレー球技場に招かれてサッカーをしたというお話をご紹介したい。

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(「東日本大震災復興支援 被災地高校生サッカーマッチ」 という電光掲示板も掲げられた)


私は、高校、大学とサッカー部に所属し、7年間、文字通りエネルギーと時間をこのスポーツに注いだ。そういうサッカー好きにとって、ウェンブレー(Wembley)というのは「聖地」である。私が高校一年生の時、1966年のワールドカップ・サッカーがイングランドで行われ、地元イングランドがドイツ(当時西独)を破って優勝する。その決勝戦を含め、主要試合が行われたのがウェンブレー球技場であり、その後大改装されたが、今でも、国際試合か、カップ戦の決勝など重要な国内試合にしか使用されない特別の球技場である。私も、国際試合やカップ戦を数回観戦に行ったが、9万人収容のスタジアムには独特のオーラがある。球技場関係者によれば、代表でもない普通の選手がここで試合を許されたという記録、記憶はないとのことであった。

昨年、大使としての信任状を女王陛下に捧呈して二週間余の3月11日、東日本大震災が発生し、その後、在英大使館も、館を挙げて、情報発信、弔意受付と謝意表明の手紙書き、義援金募金活動の支援などに追われた。ウェストミンスター寺院での追悼式には二千名近い人が来てくれたし、「英日婦人会」と被災児支援のために行った公邸でのバザーには五百名近くの参加者を得て、一日で25万ポンドを集めたりもした。

そういう数ある支援活動の中で、サッカーの母国から、サッカーで被災者を支援するというのは自然な発想であった。新任大使として、各方面に挨拶回りをすることになっていたが、その中に、イングランド・サッカー協会(Football Association。略称FA)のバーンスタイン会長への表敬訪問を組み込んだ。同時に、震災支援についてお願いをしたいということも申し添えた。バーンスタイン会長は、やはり新任で、ワールドカップ招致活動敗退後の協会立て直しに多忙を極めていたが、快く応じてくれた。

当日、ウェンブレー球技場の中にあるFA事務局本部での約30分の表敬は、予定時間を大幅に超過して1時間にもなった。私は、東北の被害状況を詳しく説明した。会長は、ニュースを丹念にフォローしており、細かい質問をしては、大変なことだと唸り、また、日本国民の冷静で規律ある対応がすばらしいと賛辞を繰り返した。最後に、私は、日本大使として、また一人のサッカーファンとして、世界のスポーツであるサッカーの面で、特に発祥の地イングランドから何か支援がなされればすばらしいと思うので、ぜひご協力をお願いしたいと述べた。会長は、大震災については心を痛めており、何かできないかと思っていたところであった、ハント文化・スポーツ大臣からも手紙を受け取っており、貴使来訪に合わせて何かできないかと検討してきたところである、として、その場で3項目の支援策を提案してくれた。すなわち、①イングランド代表のサイン入りユニフォームの寄贈、②近くウェンブレーで行われる、イングランド・オランダ戦という好カードのボックス席切符(12人分)の寄贈、そして、これは少し大きいが、と前置きして、③ウェンブレーのピッチの半日使用許可、という三点である。

このうち、前二者については、先述の大使公邸でのバザーに寄贈され、計4000ポンドで売れた。問題は、ウェンブレーのピッチ使用権であった。この贈物ついては、全く予想しておらず、正直なところびっくりして、どうしてよいか分からなかった。当初、私は、権利を企業や個人に買ってもらって義援金を集めるという案に傾いていた。しかし、11月24日(木)という平日の午後の日にち指定や、大勢の観客を入れないという条件がついていたこと(恐らく、観客を入れると、多数の警備、清掃要員を動員せねばならず、FAにとって多大の負担が生じるため)もあり、紆余曲折を経てお金集めのアイデアは断念した。その代わり、被災地の高校生チームを招いて、日本代表でもなかなかプレーできない「聖地」でサッカーをしてもらうという、「お金で買えない思い出」をプレゼントしよう、そして、そのことを報道してもらって被災地に激励のメッセージを送ろうというアイデアに辿りついた。しかし、これにも多々関門があった。

まず、選手の選抜である。どこにどう接触して誰が誰と試合するかを選ぶのかが皆目見当がつかず、手がかりもなかった。ところが、運のいいことに、8月末に、たまたま小倉日本サッカー協会会長の来英があった。これは、戦前にFAから、日本サッカー普及のために日本協会に寄贈された銀杯が、戦争で行方不明となったのを、同協会創立90周年に当たり、FAが復刻して再寄贈するための式典出席が目的であった。滞在中に食事をご一緒した際、大使館作成の企画書を提示して、恐る恐る協力を求めた。会長は、その場で全面的な協力を快諾、選手選抜は、被災地三県の各サッカー協会が調整してくれることになった。また、宮城県出身の元全日本代表、加藤久氏を監督として派遣していただけることになったのは、特に心強かった。これで一気に動き出した。まさに銀杯贈呈式様々であった。

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復刻銀杯贈呈式 (左から筆者、サー・ボビー・チャールトン、小倉会長、バーンスタイン会長)


次は、資金の確保である。もちろん当初の予算はゼロであった。まず、在英日本商工会議所にお願いして共催を引き受けてもらい、企業に協力を呼びかけてもらった。曲折はあったが、最大の難題であった渡航費用について、全日空から、選手・役員18名の日英間往復フライトの無償提供というまことに有難い申し出があった。日本サッカー協会が、国内移動費用を負担してくれた。ロンドンでの滞在費用も大きな悩みであったが、帝京ロンドン学園との話し合いで、同校高等部サッカーチームに被災地選抜チームの対戦相手となってもらうこととし、同時に、全寮制である同校の寮に選手たちを受け入れ、宿泊と食事を無償提供してもらうことが合意された。対戦相手と滞在費問題が一挙に解決した。ロンドン観光を含むバスでの移動や昼食代などその他の費用も、他の多くの支援団体、日系企業のサポートでまかなわれることとなった。

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選手・来賓の集合写真


当日、ウェンブレーは、英国の冬らしい、寒くて変わりやすい天気であったが、幸い雨は降らなかった。観客こそ、帝京ロンドン学園関係者、報道関係者などごく限られた人たちであったが、立派な来賓が来てくれた。まず、ハント文化・スポーツ大臣が多忙の中、来場してくれ、主催者側を代表する私の挨拶と、バーンスタインFA会長の挨拶に続いて、スピーチをしてくれた。それも日本語であった。若い頃日本で生活したことがあるとはいえ、5分ほどの長さの日本語の挨拶を原稿なしでやってくれた。自ら被災地を訪問したこと、実はサッカー線審のトレーニングを受けていることを明らかにし、「本当は自分がこの試合の線審を務めたかったのですが、公務で時間がなくて残念です。ただ、今日は自分の先生たちが線審をしてくれます。」と言って審判用のイエローカードとレッドカードをポケットから取り出し、「こういうカードは見たくないので、フェアプレーをしてください。」とユーモアも交えながら激励をしてくれた。ロンドン五輪を担当し、次代の首相候補の呼び声もあるだけのことはあると思わせた。

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激励挨拶をするハント大臣



それから、人気チームのマンチェスター・ユナイテッド(マンU)の伝説的名選手である、サー・ボビー・チャールトンも、わざわざ当日車で3時間かけてマンチェスター市から駆け付けてくれた。サー・ボビーは、1966年ワールドカップの覇者イングランド代表チームの中心選手であり、同年の欧州最優秀選手、常勝マンUひと筋で、チームをリーグ優勝や欧州選手権など数々の栄冠に導いた人物である。同時に、彼は、1958年、ヨーロッパ選手権のためマンUの選手全員が乗った飛行機が、ミュンヘンの山中に墜落し、多数の死者が出た「ミュンヘンの悲劇」の生存者でもある。また、日本にとっても、2002年ワールドカップ招致の支援をしてくれるなど、日本サッカー普及の恩人の一人でもある。
しかし、超多忙の人気者である彼が偶然にそこに来てくれたわけではない。先述の日本サッカー協会小倉会長の来英時の復刻銀杯贈呈式に、たまたま私もサー・ボビーもゲストとして招かれていた。その際、ダメ元で、被災地高校生を招いたチャリティ試合があるので、ぜひ来賓として来てほしいと頼んでみた。彼は、趣旨を聞くと、その場で手帳を取り出して日程を確かめた上、11月24日の欄に、自らJapan/Wembleyと書き込んでくれたのだ。これまた銀杯贈呈式のお陰である。

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激励挨拶をするサー・ボビー・チャールトン


さて、自らもdisasterから生還して偉大な選手となったサー・ボビーは、震災の生存者である若き選手たちに、自分は福島の「Jビレッジ」(サッカーのナショナル・トレーニングセンター)の名付け親であるとして、日本のサッカーとの絆を紹介した上で、選手たちと同じように、自分が十代でウェンブレーで初めてプレーをした時の経験を交えて、激励のスピーチをしてくれた。そして、寒風の中、試合を最初から最後まで観戦し、終了後には、自ら一頁目に署名したサイン帳を選手一人一人に手ずからプレゼントしてくれた。試合中、日本人の若い選手たちのプレーの水準が、往時に比べて高くなったことを称賛していたのが印象的であった。

選手たちを代表して、齋藤一樹主将(福島県立小高工業高校3年生)が、堂々たる英語で、臆することなく、「最後の一秒まで諦めることなく全力でプレーします。」と挨拶をしたのがすばらしかった。試合後、「最初はウェンブレーでプレーできることの実感が湧かなかったが、ピッチに立ってみて鳥肌が立った。家が壊されて避難所を転々として、サッカーを諦めかけたが、諦めなくてよかった。これからも一生続けて行きたい、」という彼の声を聞いて、私は、このチャリティ・イベントの目的は達成されたと感じた。

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東北選抜チーム斎藤一樹主将の挨拶


試合では、東北選抜チームが、対戦相手の帝京ロンドン学園チームとロンドン・ジャパニーズFCチームに圧勝した。イエローカードが一枚も出ない、フェアな試合だった。最後まで誰もが力を抜かず、諦めない試合をしてくれた。彼や彼の仲間たちが、このイベントの思い出を胸に、一生サッカーを楽しみながら、力強く、そして粘り強く被災地の復興と再生に貢献してくれることを祈りたい。

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Goalへ!!!



サッカーは、疑いなく世界で最も人気のあるスポーツである。ルールがもっとも簡単なスポーツであり、ボール一つでできる。だから世界共通の言葉にもなる。そうした真のグローバル・スポーツ、サッカーの発祥の地、イングランドで、多くの人の善意によって、このようにすばらしい被災地支援イベントを実現できたこと、その場に立ち会えたことを幸運に思っている。同時に、もう少し若かったら、ゲスト・プレーヤーとして、1分間でもよいので、ウェンブレーのピッチに自分も立って、東北選抜と一緒にプレーしてみたかったなと、ふと思ったのは、不謹慎であろうか。(以上は、筆者の個人的感想、見解である。)(2012年2月13日寄稿)