―急変するミャンマー情勢と日本―

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             元駐ミャンマー大使 田島高志

 ミャンマーでは2011年3月30日にようやく民政移管が実現した。テイン・セイン新大統領の率いる新政府は、民主化、国民和解、開放化への改革を驚くほど急速に進めており、それに対応する国際社会の動きも活発化している。眞に好ましい方向への変化である。

ミャンマーは、地政学的にも重要な位置にあり、歴史的に世界で最も親日的な国の一つであり、かつミャンマー人は生真面目で慎ましく勤勉で親しみ易い等の観点から、日本にはミャンマーの民主化と経済発展に建設的な役割を果す責務があると私は主張して来た。よって最近の変化には感慨が深い。新政府成立後間もないので、不十分な理解と判断もあり得るが、ご依頼により、簡単に私の観察を記述させて頂きたい。

1. 新政権成立への経緯
 1988年に国内の混乱を鎮圧した国軍は軍政を樹立し、1990年の総選挙ではアウン・サン・スー・チー(以下スーチーと略す)女史の率いる国民民主連盟(NLD)が圧勝したが、NLDへの不信感から政権を委譲せず、先ず新憲法を制定する方針をとり、1993年以来国民会議による新憲法草案の策定作業を進めた。経済面では自由化と開放化政策をとり、かなりの成果を挙げたが、1997年のアジア経済危機と欧米の経済制裁とにより、経済は停滞に陥った。
 その後軍政は、国内の安定化を見て2003年に民主化のため7段階のロードマップを発表し、2008年の国民投票を経て新憲法を採択し、2010年11月総選挙を行い、内外の予想通り軍政側の政党USDPが圧勝した。
スーチー女史について軍政は、1989年に自宅軟禁とし、断続的に釈放と自宅軟禁措置を繰り返し、2010年の総選挙後に刑期満了を理由に3度目の釈放を行った。

 このような経緯を経て、2011年1月に国会召集、2月国会はテイン・セイン首相(当時)を大統領に選出し、組閣終了後3月30日に新政府が発足し、民政移管が実現した。この段階では、民政移管は表面上であり、実権は依然裏に存在する国軍にあるとの観測が内外で有力であった。

2. 新政府成立後の変化

(1)大統領の就任演説と民主化
ところが、3月31日にテイン・セイン新大統領の行った就任演説は、「自由公正な民主国家の建設に最大限努力する」との民主化目標を言明し、「新政府は新しい政策と法律により、国と国民のために取り組む」「各政党やグループに対しミャンマーの民主主義の発展のために新政府との協力を求めたい」と国民和解への姿勢を示し、「国民生活の向上を期し、市場経済体制の構築に向けて税制、政策決定、法整備等を進める」と宣言した。外交面では「引き続き非同盟政策を維持し、全ての国との友好関係を維持する」と述べ、「国民の基本的権利の保障」「農民及び労働者の権利に関する法整備」「教育、保健分野の法整備」等を基本方針とする旨表明した。いずれも軍政時代には見られなかった表現であり、民主化政策の表明であり、実態が伴えば真に歓迎すべきことと受け止められた。

(2)政治犯の釈放とスーチー女史との対話
その後5月に政治犯約50名の釈放、7月にアウン・チー労働相とスーチー女史との対話、8月にはテイン・セイン大統領とスーチー女史との対話、9月にテイン・セイン大統領が国民の意思を理由に中国の投資案件ミッソン水力発電所建設計画の一時凍結を決定、10月に6,359名の恩赦を発表、11月に政党登録法改正法の公布、それに基づきNLDが政党登録を申請、2012年予定の国会議員の補欠選挙でのスーチー女史の立候補と当選を可能とした。テイン・セイン大統領は「NLDが政治の舞台に戻ることを喜ぶ」「スーチー女史の国会参加を歓迎する」と述べ、女史も「テイン・セイン大統領を信頼している」と述べた。

女史の地方への移動及び外国人との面会も自由化された。2012年1月には著名な政治犯ミン・コー・ナイン氏以下多数の政治犯及び7段階ロードマップの起案者キン・ニュン元首相等の服役囚651人が一斉釈放された。

(3)報道の検閲廃止とデモ行進の解禁
8月に上下両院で労働組合の結成を認める「労働組合法」が承認され、11月にはデモなど平和的抗議行動を認める「平和的集会・行進法案」が両院で承認された。海外に滞在するミャンマー人の帰国を歓迎する旨の方針が示され、著名な反政府活動家の一時帰国が実現した。

(4)少数民族との停戦と和解
テイン・セイン大統領は、武装少数民族に和平協定を呼びかけ、9月に最大の軍隊を保有するワ州連合軍(UWSA)及びシャン州武装組織と和平協定を交わした。11月には3つの武装組織との停戦に原則同意し、その後カレンの1大隊とも停戦したと伝えられ、和平が徐々に実現している。

(5)経済改革の推進
   8月に政府は二重三重の為替問題解決のためIMFに支援を求め、10月にIMFは世銀を含む代表団を送り協議を進めた。9月には農民に農地を譲渡、賃貸、相続する権利を認める法案が国会に提出され、民間銀行に外貨両替窓口の開設を認め、国営銀行の東南アジアに支店開設を認めた。外国投資法を改正し、外資に国有地のみでなく民有地の賃貸を認めることとした。

3. 変化の背景
 このような正に民主主義が根付き始めていると言える急激な変化の背景は何であったかを考えて見たい。

(1) ロードマップの達成感と希望
  軍政は設立当初から、その目的は国家の秩序を回復し発展の基盤を構築した上で民政移管を行うことであると表明し、国内が安定化してきた2003年に民主化ロードマップを発表した。少数民族問題等の紆余曲折を経てようやく新憲法、国民投票、総選挙、新政府と予定のロードマップを仕上げ、いまや達成感に満ちているように見られる。ミャンマーのエリートである軍指導層は愛国心が特に強いことを考えれば、軍政が長引いたのも単なる権力欲からとは思われず、軍政を自力で終焉させたいま、新国家建設への自信と希望を強く持って動いているのが新政府の姿であると思われる。

(2)スーチー女史の変化
新政府は、成立後間もなくスーチー女史に対し、今後の民主化方針についてアウン・チー大臣が何度も面談して詳しく説明し、さらにテイン・セイン大統領自身も直接熱心に説明し、女史の理解と協力を得ることに努めた。それが功を奏し、スーチー女史は従来の態度を大きく変え、「自分は大統領を信頼している」と発言するようになった。

これで新政府としても安心して政治犯の釈放を一層進める条件が整い、政党登録法を改正してスーチー女史を初めNLD党員の国会への参加の道を開くことが出来た。これは、新政府側の真摯で真剣な態度により、スーチー女史の眼が現実的な方向に開けた結果によるものであり、今回の急激な変化を前進させる最大の要因になっていると言えよう。

(3)世界情勢の変化の体得
   ミャンマーには、植民地時代以降の経験から強い外国人不信の傾向がある。 ネウイン時代には、他国の干渉を避け一国社会主義という極端な閉鎖政策をとった。 外交は独立当初から非同盟政策であり、アセアンにも当初は加盟しなかった。 しかし、世界はグローバル化が進み、一国のみでは発展を期し得ないことを次第に体得し、開放化による国際的な相互協力の推進が不可欠であることを理解したものと思う。

そのような中で、アセアンの仲間からさえもミャンマーに民主化を要求する声が高まっており、特に2014年のアセアン議長国就任の要請に対しては、議長国インドネシア外相がミャンマーを訪問して民政移管の真相を探り、真の民主化への変化を求めて強い圧力をかけたことが考えられる。

(4) 中国への警戒感
   欧米から経済制裁を受け、日本の援助も制限的であったため、止む無く中国の支援に依存したが、ミャンマーは元来共産主義の中国には警戒心を持っていたこと、最近は中国依存が深くなり過ぎ、援助の実態にも疑念を持ち始めていたものと思われる。冷戦時代の米国からの援助、日本の製品の優秀さ等も記憶にあり、欧米及び日本との協力関係の復活への強い期待もあったと思われる。加えて、中国の海洋進出への周辺諸国の警戒心、米国の安全保障政策の対アジア重視などもあり、例えばミャンマーの国土を縦断する形のパイプラインルートの権益が中国に握られるリスクにも気づいて来たとも思われる。

 上記4点の基本的要因が連動して、ミャンマー情勢の劇的な変化の背景を構成しているように判断される。

4. 国際社会の対応

(1)中国・インド
 中国は、欧米諸国とは異なり、政治的経済的に徹底したミャンマー支持の政策をとり、蜜月関係を発展させた。新政府成立直後の4月には賈慶林政治局員が訪緬し、5月にはテイン・セイン大統領が最初の外国訪問国として中国を訪問した。ただ、9月新政府の突然の大型水力発電所計画凍結の決定に対しては権益の保障を要求し、人民日報も反論を掲載した。10月ワナ・マウン・ルイン外相は急遽訪中して楊外交部長、習近平副主席と会談し、適切な処理に合意した。11月ミン・アウン・ライン国軍司令官が訪中した際、習近平副主席は両国の軍事交流の強化を提案、包括的戦略的協力関係に務めたいと述べた旨伝えられた。今後の推移が注目される。
 インドは、中国に対抗してミャンマーとの経済関係を進展させて来た経緯があり、6月にクリシュナ外相が訪緬し、ミャンマーからは10月にテイン・セイン大統領が訪印した。

(2) アセアン諸国
アセアン諸国はミャンマーの新政府成立に歓迎の意を表明し、11月ミャンマーの2014年のアセアン議長国就任を決定し、欧米に対し制裁解除を促す態度も示した。タイのカシット外相は、訪緬の際に外国外相としては初めてのスーチー女史との会談を行った。さらに10月タイのインラック首相はミャンマーを公式訪問した。

(3) 欧米諸国
米国のオバマ政権は、制裁が効果を挙げていないことを認め、「関与」と「圧力」を併用する政策に転じていたが、新政府成立後キャンベル次官補が「国内で劇的な変化が起きている」と述べた程の新たな動きを見て、9月以降ミッチェル「ビルマ」特別代表を頻繁に訪緬させ、11月クリントン国務長官は、「ミャンマー政府が真の改革を推進するなら米国はパートナーになる、」と発言した。

11月オバマ大統領はスーチー女史と電話会談を行い、クリントン国務長官をミャンマーに派遣した。クリントン長官は、12月1日テイン・セイン大統領及び閣僚等と会談、大統領の改革計画の説明に支持を表明、民主化の進展に応じ相応の措置を講じると述べた。2012年1月13日には主要な政治犯の釈放を見て、大使の相互派遣の意向を表明した。長官は、米緬関係の改善で緊密な中緬関係が犠牲になることはないとの配慮を示したとも伝えられた。クリントン長官はスーチー女史とも懇談し、少数民族代表とも面会した。米国は、政治犯の釈放、少数民族との紛争解決、核及びミサイルの北朝鮮との軍事協力の解消を条件として、制裁緩和へ動き出したと言えよう。

11月EUのアシュトン外交・安保政策担当代表は「政策の抜本的見直しに着手している」と述べ、英国のミッチェル開発大臣が閣僚として数十年ぶりに訪緬し「英国はミャンマーとの関係を抜本的に見直す用意がある」と表明した。また、ヤンゴンでEU主催の金融改革、貧困撲滅のワークショップが開かれ、リップマンEU大使が「EUはこの国で起きている重要な変化を支持し奨励したい」と述べた旨報じられた。

(4) 日本
日本政府は、地政学的に重要な位置にあるミャンマーとの関係を重視し、新政府の改革措置を民主化と国民和解に向けた前進として評価し、その流れが確実なものとなるよう支援して行くと表明している。6月に菊田外務政務官が訪緬し、新しいページを開きたいとして、人的交流、経済協力、経済関係、文化交流の4分野について意見交換を行い、経済協力では、今後民主化及び人権状況の改善を見守りつつ、民衆に直接裨益する基礎生活分野(BHN)の案件を中心にケース・バイ・ケースで検討の上、実施する旨新しい基本方針を表明した。

また、2007年の長井健司氏死亡事件の真相究明を要請した。
7月に超党派の若手政党関係者グループ20名を訪日招聘し、10月にはワナ・マウン・ルイン外相を招聘し、玄葉外務大臣と会談。玄葉大臣より、民主化への動きを力強く支援したい、人的交流では、NLD関係者も政党として合法化された後に招待したい、貧困撲滅に注目し「人材開発センター(日本センター)」案件、バルーチャン第2水力発電所補修案件等のため調査を行う旨述べた。

11月に首都ネーピードーで両国局長級の日・ミャンマー経済協力政策協議が開催され、開発政策と援助政策について幅広い討議が行われた。

11月野田総理は、バリ島での日アセアン首脳会議でテイン・セイン大統領と会談、アセアン議長国就任決定を歓迎、民主化、国民和解への努力を評価し、大統領の努力への日本の支援を表明し、ミャンマーの総合開発調査を実施する旨及び文化交流につき遺跡修復・保存の専門家を派遣する旨表明した。また、長井氏死亡事件についての真相究明を要請した。総理より2012年日本で日メコン首脳会議開催の際に大統領の訪日を要望したのに対し、大統領は、努力する、総理にもミャンマーを訪問して頂きたい旨の発言があった。

12月玄葉外相は日本の外相としては9年ぶりに訪緬し、テイン・セイン大統領及びワナ・マウン・ルイン外相と会談し、民主化の動きを評価し、一層の進展を促し、4分野の日本からの協力を確認し、総合開発に関しテイラワ港の調査も実施予定である旨述べるとともに投資協定の協議開始に合意し、北朝鮮との関係に注意を促し、長井健司氏事件の真相究明を要請した。さらに、スーチー女史とも会談し、日本政府の方針を説明し、女史の訪日を招請した。女史より、ミャンマーへの支援は少数民族への裨益も忘れないで欲しい、ミャンマー国内の投資関連の法整備が重要との発言があった。また、テー・ウーSPDC総書記と会談し、日本人商工会議所関係者とも意見交換を行った。12月には、JICAが主催し、経済改革支援のためミャンマーの若手行政官等約30名を招聘して経済・金融、貿易・投資、中小企業、農業に関する東京ワークショップを開催した。

2012年1月枝野経済産業大臣は、首都ネーピードーでの閣僚級経済産業対話に出席し、インフラ整備・産業育成とエネルギー・鉱物資源開発の2分野での包括的支援策とそのための2年間で5億ドルの貿易保険枠を発表した。
今後政府は人材育成等技術協力に加え、円借款の再開も検討すべきであろう。
民間の動きとしては、9月に日本アセアンセンター主催の投資調査ミッションが、政府と経団連共催の訪ミャンマー官民合同ミッションがそれぞれ派遣された。民間の商社等が個別に調査団や視察団を派遣するケースは激増している。
海外各国産業界は、ミャンマーの変化に注目し、新たなビジネスチャンスを求めて積極的に動いている様子が顕著である。在京ミャンマー大使は、ミャンマー人は日本製品や技術に憧れているが、日本の大企業は米国の制裁緩和の段階に応じて徐々にミャンマーへ進出のようであり、それは止むを得ないが、中小企業は米国に気兼ねなく今からチャンスを捉えるべきであり、美味しい所が他国に先手を打たれてしまうことが心配だ、と述べている。

5. 今後の注目点
 新政府の民主化への動きは、順調に滑り出したが、今後の課題は少なくない。
紙数に余裕がないので、一つだけ指摘するならば、長年の独裁政治の直後であり、民主的国家運営は半世紀ぶりで全く不慣れのため、今後表面化する可能性のある例えば軍と政府、国会と政府、与党と野党、軍内部、政府内部、中央と地方等の意見の相違が常に平静に調整、克服されて行くかが注目される。ミャンマー人は生真面目であるために弾力性に欠けるところがあり、感情的な面もある。すなわち、今後は民主化か否かではなく、民主化、開放化のスピードや具体的政策措置の意見の相違の調整の問題が深刻になる可能性を見る必要があり、日本を初め諸外国の支援は、忍耐強く、法整備や制度構築及びその運用等のソフト面を重視しつつ丁寧に行われるべきであると思われる。
(2012年1月16日寄稿)