リー・クワンユー講演集」を読んで

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元駐シンガポール大使 橋本 宏

2011年9月、シンガポールのCengage Learning Asia社から“The Papers of Lee Kuan Yew , Speeches, Interviews and Dialogues,1950-1990”が刊行され、同月末リー元首相出席の下、同地において出版記念会が開催された。

これは、1950年のロンドンからの帰国に始まり、シンガポールがマレーシアから分離独立した1965年の首相就任から、1990年の首相辞任に至るまで40年間にリー氏が行った演説、記者会見、対談等を包括的に編纂した全10巻にも及ぶ大部の記録である。

リー元首相は、首相引退後上級相に、そして2004年には顧問相に就任し、2011年5月に閣僚職を辞するまで、通算46年間シンガポール政府部内にあって、その建国と発展を直接指導してきた。

また、国際舞台でもその発言には常に一目が置かれていた。40年にわたるその発言録は、シンガポールの歴史にとどまらず、東南アジア及び世界の動きを辿る上で、極めて重要な資料となっている。 リー元首相は、シンガポール占領期から敗戦、復興と発展、そして経済的停滞へと進んで来た日本の姿を身近に見てきたこともあり、この発言録を通じて浮かび上がるリー元首相の見た「日本の戦後史」は、極めて興味深いところである。

リー元首相自身の説明によれば、同元首相プレス担当秘書のYeong Yoon Ying女史の提案を受け、本書の刊行に踏み切った由で、1990年から2011年までの間の発言録の刊行も予定されていると聞いている。リー元首相も認めているように、本書は決して読みやすいものではないが、戦後の東南アジアや国際政治の変遷を学ぶ上で大いに参考になる資料であると考える。

今般、株式会社雄松堂書店は、Cengage Learning Asia社との共同企画として、主として官庁や大学図書館、企業図書館向けに、日本でも英語版を販売することとし、2011年12月14日、同社及びCengage Learning Japan社との共催で日本発売記念行事が行われた。

筆者は来賓挨拶の一翼を担い、外務省アジア局地域政策課長、南東アジア第2課長時代及び駐シンガポール大使としての同国勤務中に得たリー元首相の思い出を話す機会をいただいたので、リー元首相が、わが国の総理大臣をも惹きつける見識と政治家としての魅力を持っていたこと、わが国における英語教育普及の重要性やゆとり教育への疑問を呈した鋭いコメント、日本経済の停滞に対する懸念と市場開放の重要性の指摘、日本より早期に国を挙げてのIT発展やバイオテクノロジー研究開発に着手した先見性等について、個人的に得たエピソードを紹介した。

最近筆者は、今回の全集の対象とはなっていない、Lee Kuan Yew 氏に対する新たなインタビューをまとめた“ HARD TRUTHS to Keep Singapore Going”(published by Straits Times Press,2011)を読む機会があった。
同書の序文においてリー・クワンユー元首相は、「経済と国防は密接にリンクしている。強い経済なしに強い国防はあり得ない。強い国防なしにシンガポールは存在できない。シンガポールは隣国によって脅される衛星国になってしまう。400万人以上の人口を有する小さな国という狭い土台のすべての上に、強い経済と強い国防力を維持するために、政府は、最も優秀、最も献身的、最もタフな人たちによって指導されなくてはならない。」と述べている。

リー・クワンユー氏のこうした見解は、シンガポールの抱える歴史的、地政学的脆弱性(マレーシアからの分離独立、スカルノ大統領時代のインドネシアからの軍事的圧力、水供給、砂の輸入等の制限という隣国からの圧力、シンガポールの民族間の軋轢、きわめて乏しい天然資源、小さな小国等々)に対する同氏の危機意識とこれを克服しようとする強い意思を反映したものと言えよう。
同氏が、建国当時も今もシンガポールの置かれた基本的状況に変わりはないとし、現代の若い人たちが歴史から学ぶ重要性を訴えていることに、この発言録の持つ現代的な意味がある。現在の日本の政治的、経済的、社会的現状を見るとき、リー・クワンユー氏の発言振りを他山の石とし、独立心の重要性を考えていくことが、日本国民にとって必要であると改めて考える。 (2011年12月26日寄稿)