満州事変、安保改定、2030年の日本

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             元欧州連合(EU)代表部大使 朝海和夫

最近、出淵勝次(母方の祖父、1931年の満州事変当時の駐米大使)、朝海浩一郎(父、
1960年の安保改定時の駐米大使)の日記を拾い読みした。昔と今とでは勿論大きな違いが
あるが、意外に変わっていないことも多く、今後の参考になることがあった。

満州事変

1931年9月に柳条湖事件が発生した時、米国に駐在していた出淵は「朝起キテ、、、夢カトバカリ驚カサレタリ、、、容易ナラザル事態、、、」と直感した(9月19日の日記)。早速「米国二於テ軽挙セサラムコトヲ希望スル旨切言」(20日)する一方、外務本省に対して「速二事件ノ真相ヲ発表スルコト、、、不然ハ米国ノ輿論硬化スヘキコト」などを意見具申する(22日)。

米側は当初、日本を追いつめすぎないよう抑制的に対応したが、日本軍が租借地からかなり離れた錦州を爆撃し遂には占領するに及び、日本の一連の行動を承認しない、という「不承認政策」を表明した(1932年1月)。出淵は「(スチムソン国務長官の)求メニ依リ面会ス、、、事件発生以来アラユル努力ヲシテ米国ヲ抑工来リタルカ、遂二今日トナリ遺憾此上ナシ。然約二反シテ錦州ヲ占領セル以上、致シ方ナシ。顧ミレバ自分ハ日本国代表トシテ余リニモ二枚舌ヲ遣ヒタルコトヲ、否、遣八ハシメラレタルコトヲ遺憾トス。」と記している(1月7日)。

歴史に「もしも」はないが、「もし」錦州占領などをしないで「不拡大」を堅持出来たならば、日米関係は全然違ったものになっていただろう。そうならなかったのは、軍部の独走のみならず日本の世論の高揚などの要素が複合的に作用していたと思う。駐仏大使ののち外務大臣を務めた佐藤尚武の回顧録(「回顧八十年」)によれば「(1931年11月に)日本に帰ってみると連盟にたいする非難轟々のありさまで、、、国際連盟が突如、日支の紛争に介入し、しかも日本の態度を全面的に否定していたのに対しては、-から十まで連盟許すべからずという空気が津々浦々まではびこってしまっていた」と驚いている。

昨今も「○○バッシング」が時々起きるが当時は「連盟バッシング」になっていたのだろうか。(もっとも、当時エジンバラ大学で研修していた朝海浩一郎(25歳)も鼻息が荒くて「連盟は仮に日本をして鉄道地域内に兵を撤せしむるに成功したりとして次で支那政府の無力により日本人の生命財産が侵犯せられたりとせば如何の責任を採らんとするものであるか」(11月7日)、「支那は連盟を、、、(租借権についての)条約侵犯の道具とし、これにより対日直接交渉によるよりは更に大なる利得を得んとする誠意なき態度、、、」(11月16日)と日記に語っている。

ちなみに、同日記によれば当時の英国の新聞は必ずしも日本非難一色ではなくタイムズ紙は概して日本に好意的で「(治安維持の)主権を効果的に行使していない中国が、主権を侵犯されたと主張出来るのか」などと述べていたようだ。)

上記タイムズ紙はともかくとして、満州事変についての日本の見方は欧米などでは理解を得られてなかったのだろうが日本は「海外広報」や「パブリックデイプロマシー」は不得手で(今も?)中国(中国人)に遅れを取ったらしい。エジンバラ大学の討論会に参加した朝海浩一郎は「大使館から資料をもらってきて、何だか余り冴えないような議論を読み上げたわけです、中国の番になって彼(中国人留学生)は、とってもはったりの利いた演説をやった。みんなやんやの喝采です。 中国側はそういう堂々たる演説をやってのけるのですね。 もう少し言葉を勉強しなければならんと反省」したそうだ(朝海浩一郎回顧録「司町閑話」)。

連盟で日本を代表していた佐藤尚武もかなりの苦戦したようで「国際世論の非難を一身に集めて悪戦苦闘、、、この時ほど苦しんだことは、およそ三十年の外務省生活の中で二度と経験したことはなかった」、「(中国の代表は)日本軍の侵略ぶりを詳細に述べたてて真っ向から日本に攻撃の矢を向け、、、挑戦してきた。この人もなかなか英語の達者な人で、支那側がこうした会議向きの数人の立役者をもっていたことは特筆しておかねばならない。」(「回顧八十年」)と述懐している。

アイゼンハワー大統領訪日招待取り消しなど60年代の日米関係

朝海浩一郎の日記には安保改定交渉については目立った記述はないが、アイゼンハワー大統領を日本に招待したものの安保反対運動で騒然となったため招待を撤回した件は度々日記に出てくる。「15、6万人もデモ隊が東京中を横行し反米的プラカードを掲げているようでは人前に顔を出す訳にも行かないので今日の英国の国際日レセプションは欠席した。」(6月11日)、「営々として積み上げた日米の友好関係にヒビが入らんとすることを思ひ、、、夜眠れざるものがあった」(6月18日)などだ。

アイゼンハワー訪日を想定して日本に一時帰国した際メデイアに取材されたが、招待取り消し後のインタビューでは、日本の理屈は国際的には通用しないとして「最近のデモは反岸、反安保であって反米ではないと言ったところで米国人が納得しますか」などと述べ、戦後15年日本は国民の勤勉等によって漸く国際的信頼を得るに至ったのにこうなったのは残念だ、「ある人によれば日本は技術力では20世紀、企業家精神では19世紀、政治では18世紀、、、」(文芸春秋60年8月号)と憤憑を隠せなかった。(普天問を巡る事態を草葉の陰から見ていたならば浩一郎はなんと言っただろうか、、)

ただし、不満は米国にも向けられており安保条約をめぐる日本国内の状況を説明しようとしてデイロン国務長官代理と会談した際の日記には「日本の状況をかなり整理して話したが途中で欠伸ばかりしていた。この程度の関心では、と情けなくなった」(1960年8月22日)としている。1962年の大平外務大臣とラスク国務長官の会談については「ラスクはベルリン問題と、、、キューバ問題につき積極的に話したが韓国問題、沖縄問題、○○問題(注、判読不能)については話を聞くだけで韓国問題についてさへ交渉の現状を先方から聞こうともしなかった。この辺に日米関係の一方的なところがあることをマザマザと見せつけられた」(9月24日)と述べている。

当時の日本は経済規模で世界の3%程度(名目)で第二位の経済大国英国の約半分だったが、今後日本経済が相対的に縮小して行くことを考えると、将来、日本が何かを言っても「欠伸」をされたり、質問がなかったりするのではないかと気がかりだ。

2030年

2010年の内開府の予測(「世界経済の潮流」)によれば2030年の日本経済は世界の3%(購買力平価)と見込まれる。ピークだった90年代の半分程度のシェアだ。中国などが経済的にも政治的にも台頭していることは周知のとおりで、世界は欧米から中国・新興国へと「パワートランジション」が起きつつある、ともいわれる。
こうした中で日本はどうすべきか。どうしてはいけないのか。
世界経済の3%と言えば1960年代並に戻るということではあるが、2030年の3%はその頃の英国とドイツを合わせた規模に近いことを、まず、想起すべきだろう。日本は決して小さな存在ではないので、自分を小さく評価し過ぎて縮こまったり「何でも節約しなければ」と思ったりする必要はないし、適当でもない。

人口減少(少子高齢化)に直面する日本は、出産を奨励するために保育所を増やしたり助成金を給付するのが良いだろうし、一人当たりの生産性も向上させなければならない(高付加価値のモノ造りに特化、サービス産業や農業の効率化など)。財政の健全化も疑いなく重要だ。同時に、日本は「以前より余りにも、、、国際関係に無頓着」だった、と敗戦濃厚となった時期の佐藤尚武の反省次代への警告(「回顧八十年」)を忘れてはならない。

30年代に痛感したように「中国人並み」の英語力 (国際性)を身につけなければならず、首脳・閣僚レベルの国際的な会合で通訳を介している場合ではない。外国から「欠伸」されないよう日頃から「ソフトパワー」(国の魅力)を磨かなればならずパプリックデイプロマシーにも投資する必要がある。パワートランジションの時代は不確実性が増す時代でもあるので外の動きにはこれまで以上に敏感でなければならないのは当然だし、外交と内政が従来以上に密接に関係しているだけに、「政治は18世紀」と嘆かれるような事態はあってはならないことだ。 (2011年12月26日寄稿)