保護する責任とリビヤ決議

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人権人道担当大使 上田秀明 

1、アラブの「民主化」のうねりが続く中で、リビヤのカダフィ政権に対して国連安保理決議に基づく空爆が継続している。3月17日に採択されたこの決議1973号は、東日本大震災の直後であったため、日本での注目度はさして高くはなかったが、国際社会が「保護する責任」(responsibility to protect, 略してR2P)の観点から行動をとった事例として国際的には注目されている。
国際社会(といっても欧米先進国)は、1990年代初めの旧ユーゴの紛争での民族浄化やルワンダの虐殺などに際して無力感を味わい、90年代末にコソヴォや東チモールで再び同様の事態に直面した際に、「人道介入」について議論を活発化した。
アナン国連事務総長(当時)が、いかなる時に人道的な軍事介入が行われるべきかをより明確にすることを呼びかけたのを受けて、カナダの提案で「介入と国家主権についての国際委員会」が設置され、2001年12月に報告書を提出した。
その要点は、「国家主権は責任を意味し、人々を保護する主要な責任は国家自身にある。しかし、内戦などにより民衆が深刻な被害を受けている際に、当該国家が被害を回避したり防止しようとせず、又はすることができない時には、国際社会による『保護する責任』が不干渉原則に優越する。」とするもので、その根拠を国連憲章や人道法、世界人権宣言などに求めていた。これについて先進国側は介入の決定は安保理決議に求めるとの前提で支持する国が多かったが、伝統的国家主権を尊重する中国をはじめとする途上国から強い反発があった。

2、 カナダは、この課題を2000年の国連ミレニアム総会および2005年のフォロウアップ首脳会議での合意事項にすべく活発な外交を展開した。そのころ日本は、人間の安全保障を打ち出しており、カナダの目指すところが人間の安全保障の一側面ともいえることは理解しつつも、途上国の反発を考慮して、意識的に2つの概念を分けて議論した経緯もある。様々な議論を経て、2005年の首脳会議の成果文書に、保護する責任と人間の安全保障がともに含まれた。
保護する責任については、パラ138で、「 各々の国家は、大量殺戮、戦争犯罪、民族浄化及び人道に対する犯罪からその国の人々を保護する責任を負う。・・・国際社会は、適切な場合に、国家がその責任を果たすことを奨励し助けるべきであり、国連が早期警戒能力を確立することを支援すべきである。」とされ、139 で、「国際社会も、・・・憲章第6章及び8章にしたがって、適切な外交的、人道的及びその他の平和的手段を用いる責任を負う。・・・仮に平和的手段が不十分であり、国家当局が(上記4つの)犯罪から自国民を保護することに明らかに失敗している場合は、適切な時期に断固とした方法で、安全保障理事会を通じ、第7章を含む国連憲章に則り、個々の状況に応じ、かつ適切であれば関係する地域機関とも協力しつつ、集団的行動をとる用意がある。」とするものであった。
これを踏まえ、2009年1月に事務総長報告が発表された。これは、上記成果文書の合意を説明するもので、国家に保護する責任があることを強調し、その能力向上のために国際社会が協力すべきであると指摘した上で、国際社会の対応については、国家が明らかに保護を提供できない場合に、適切な時期に断固とした方法で、集団として対応するのは加盟国の責任であるとしている。 そして、対応振りについては、何もしないかあるいは武力行使かという二者択一の選択である必要はなく、憲章第6章の平和的手段、第7章の強制的な手段、および/あるいは第8章の地域的取極との協力を含むとしている。 

3、この論議は、グローバル化が進む世界において、国家主権、とりわけ内政不干渉原則と人類普遍の原則たる人権・人道の理念とのコンフリクトを浮き彫りにし、グローバル・ガヴァナンスの観点からも厄介な課題である。国際法がここまで発展しており、国家の基本的な権利義務とされるものも絶対的なものではないことを示しているわけだが、R2Pの適応は「言うは易く、行うは難し」とみられてきており、現にスーダン情勢をめぐっては、中国が難色を示していた。 
ところが、チュニジア、エジプトに続き、リビヤで民主化を求める民衆の運動が起きた際に、カダフィ政権が空軍力をも用いてこれを弾圧するに及んで、安保理は、2月26日の決議1970号において、カダフィ政権により「一般市民に行われている広範かつ組織的な攻撃は人道に対する罪と同然でありうると考慮」するとし、「国民を保護するリビヤ当局の責任を想起」するとした上で、リビヤ当局に暴力の停止を求め、同国の状況を国際刑事裁判所の検察官に付託することを決定した。
さらに、事態が悪化するのを見て、3月17日の決議1973号では、「国民を保護するリビヤ当局の責任を繰り返し表明し」、依然として続く弾圧行為が「人道に対する罪と同然」でありうると考慮し、「事態は国際の平和および安全に対する脅威を構成すると認定して」、「憲章7章に基づいて行動する」と前置きした上で、加盟国に「文民および文民居住地区を守るために・・・必要なあらゆ措置を講じる権限を付与」するという決議を採択したのである(そのほかにノーフライ・ゾーンの設置、貨物検査の実施などを決定)。
英、仏が主導し、米が賛成し、中国、ロシアは棄権に回った。カダフィにはあまり奇矯な振る舞いが多く、アラブ連盟も見限った感があり、このような介入を支持したので、中、露も拒否権を行使しなかったのだろうと見られている。
潘基文事務総長は、3月18日付で声明を発表し、「安保理は歴史的決定を行った。1973決議は、その政府によって犯された暴力から市民を保護する責任を果たすとの国際社会の決意を明々白々に確認した。」と指摘している。
これに基づき、米、英、仏、伊など各国空軍(現在はNATOの責任で)による空爆が頻繁に行われて、反カダフィ政権側を支援している状況にあることは周知のところである。

4、この決議は、確かに保護する責任に言及した画期的な決議である。ただし、安保理が係る根拠として、国際の平和及び安全に対する脅威であるためであるとしている点は伝統的アプローチもとっている。そして決議の目的は、「停戦の即時確立、暴力ならびに文民に対するあらゆる攻撃および虐待の完全な終焉を求める」ものであり、「リビヤの主権、独立、領土保全および国の統一については安保理が公約」するとしており、カダフィ政権の打倒ないし排除は直接には言及されていない。また、リビヤ領域内への外国軍の占領は排除するとしているので、地上部隊によるカダフィ軍の排除は考えられていない。
しかしカダフィの態度からみて、政権交代が無くては保護する責任も果たせないのではないかと考えられ、いったいどこまで国際社会が介入すれば目的が達成できるのか、いかなる事態になったら平和と安全への脅威にならなくなるのかなど、終結点の見極めには微妙なものがあり、予断を許さない。ただし、国連人権理事会ではリビヤの理事国資格が停止されている。また、国際刑事裁判所の検察官がガダフィに対する逮捕状を発出している。
保護する責任の概念を擁護する人々は、このようなケースに適用できなければR2Pの意味がなく、ここが正念場であるとしている。批判する者は、欧米の価値観に基づく安易な介入を許すことになるし、武力諸勢力が国際社会の支援を得るためにむしろ衝突をおこすとの見方まである。
今やリビヤと同様の事態になりつつあるシリアについてはどう対応するのかという喫緊の問題があり、さらには、北朝鮮の状況、中国やロシアの少数民族「弾圧」はどうかという問題がある。後者について、P-5の国内問題にはR2Pが適応されないのであれば、途上国からは、ダブルスタンダードだと非難されるであろう。
なお、R2Pは、人間の安全保障の1側面であると見ることができようが、人間の安全保障に関する事務総長報告(2010年3月)においては、「武力行使は人間の安全保障の適用には予想されていない」としてR2Pと区別している。 日本としては、R2Pのための武力行使に参加することには制約があるが、今後の国連活動への参画の観点から検討を要するところであり、少なくとも関連する難民支援などには人間の安全保障の観点から一層の協力が求められると考える。(2011年7月3日寄稿)