起業家
元駐ブルガリア大使
日本カーボンファイナンス(株)特別顧問 福井宏一郎
今年も暮れになった。今年の「なでしこジャパン」の女子ワールドカップ優勝は快挙だった。澤穂希キャプテン以下の笑顔を思い起こすと気分が晴れやかになる。だが・・・全般的に日本が暗い。若い人に職がない。高齢化と人口減少でどこの地方都市も沈下する一方だ。国内では一人勝ちの東京でさえ長期的には人口が減る。将来に備えて何かを変えようにも、既得権益の壁をなかなか越えられない。加えて国難の東日本大震災だ。一方、目を転じればどこの国だって問題山積だ。連日ニュースに登るアメリカ、EU、中国も深刻な問題を抱えている。人口の多い国はどこだって国論の集約は難しいだろう。他の国も負けず劣らず問題を抱えているが、日本のように暗くはない。日本の暗さと閉塞感は独特である。
この秋の10月にサンフランシスコに飛んで、若い頃に留学したスタンフォード大学ビジネススクールの卒業35周年のクラス会に出席してきた。卒業してから5年ごとに母校で3泊4日のクラス会をやるのがこのビジネススクール卒業生の恒例になっている。一学年300人ほどのうち今回は100人ほどのクラスメートとその配偶者が集まり、学内のビジネススクール用の宿泊施設で3日間共に過ごし旧交を温めた。成功したクラスメートは校長(学校)にため息が出るほど多額の寄付をし、仲間の拍手を受ける。成功者を讃えるアメリカ文化の明るさだ。
スタンフォード大学ビジネススクール
このビジネススクールは東海岸のハーバードビジネススクールと並んで元気印の象徴のようなところだ。特にスタンフォードはシリコンバレーに立地し、昔から在学生に起業の基礎を教えるコースが充実していた。もちろん、起業家輩出は何もビジネススクールの専売特許ではない。ヒューレットやパッカードは工学部出身だし、ビル・ゲイツはハーバート大学中退だし、スティーブ・ジョブスはリード大学に半年在籍しただけだ。だが起業を目指す若者にとって同じような志を持つ仲間に囲まれて財務やマーケティングなどの広範な分野の基礎を叩き込まれる2年間は恵まれた環境だ。
今年はビジネススクールが広大なキャンパスの中のすぐ近くに新築移転された。その新校舎を案内してもらうのも今回の楽しみの一つで、さっそくツアーに参加した。前よりも敷地も建物の数も充実して美しい配置になっている。この新校舎になり、ビジネススクールの名前はナイト・マネージメント・センターとなった。総工費約4億ドルのうち最大の1億ドル強を寄付した卒業生のフィル・ナイト(Phil Knight)を顕彰したものである。そこまで多くなくても巨額の寄付をした人にはそれぞれの建物に名前がつけられて壁に名前が書かれている。新校舎建設は卒業生の寄付で十分にまかなえたようだ。
校舎に取り囲まれた広場の真ん中にはフィル・ナイトの言葉が石に彫られて埋め込んである。 ‘There comes a time in every life when the past recedes and the future opens. It’s that moment when you turn to face the unknown. Some will turn back to what they already know. Some will walk straight ahead into uncertainty. I can’t tell you which one is right. But I can tell you which one is more fun.’ 「未知の世界に踏み込め、そっちの方が面白いぞ」とは、ビジネススクールの環境で語られると「大樹の陰に寄らず起業せよ」という意だろう。大樹(既知の世界)とは、例えばウォールストリートのインベストメントバンクが思い浮かぶ。こちらの紳士たちは最近強欲すぎると評判を落としているが、これまで実際に多くの秀才たちを引き付けていた。
石に彫られたフィル・ナイトの言葉
フィル・ナイト(1938–)は現在世界最強の企業の一つといわれるナイキ(スポーツ用品)の創業者だ。ナイトは1962年にスタンフォードビジネススクールを卒業(MBA)すると日本の神戸にやってきた。オレゴン州での高校・大学時代に陸上の中距離選手として活躍したナイトは運動靴に注目していた。神戸のまだ小さい会社だった鬼塚タイガー(現アシックス)の運動靴が安くて性能がいいのに感銘を受け、鬼塚社長に面会し、その場で米国西部での鬼塚タイガー運動靴の販売権を獲得した。そしてオレゴンに帰り、自分の陸上のコーチだったバウワーマンと一緒にブルーリボンスポーツ社(ナイキの前身)を設立し、タイガー運動靴の輸入販売をする一方で自社ブランドの開発も進めていく。これがナイキの始まりである。
以降、バスケットのマイケル・ジョーダンやゴルフのタイガー・ウッズのようなスーパースターを自社ブランドの宣伝に使い、スポーツ用品にファッション性を持ち込み、ナイキは簡潔なロゴと共にスポーツ用品で圧倒的なブランドイメージを確立した。だがその過程では、恩人のはずの鬼塚タイガーから初期の段階で技術者を引き抜いたり、委託生産をする途上国の工場の過酷な労働条件が問題になったりしている。オレゴン大学やスタンフォード大学には巨額の寄付をしているが、ビジネスはビジネスで、やり過ぎと思えるくらい妥協しないという事か。
ナイキ起業に大きな影響を与えたアシックス創業者の鬼塚喜八郎(1918年–2007年)の方はどうだろうか。亡くなる前年の2006年に鬼塚が故郷の鳥取県で講演した記録を読む機会に恵まれた。鳥取県が私の故郷でもあった縁である。そこには終戦後間もない時の起業にいたる感動的な回想が語られていた。日本には日本らしい起業家の精神があり、無残な敗戦から立ち上がった起業家たちがいたのだ、そういう感慨に耽らせるような講演録だった。
終戦の年の昭和20年の暮れ、鳥取の実家にいた坂口(鬼塚の旧姓)喜八郎宛に、神戸の鬼塚という身寄りのない老夫婦から手紙が届いた。神戸は焼け野が原になり食うものがなく困っている、神戸に来て助けてくれないか、との内容である。坂口はビルマに出征する戦友から、自分に万一の事があったらいずれ養子縁組して死に水を取ってやるはずの神戸の老夫婦の面倒を見てくれないかと頼まれたのを思い出した。坂口はこの時27歳、陸軍がなくなって実家に戻ってきた末っ子である。昭和21年に汽車のススで真っ黒になりながら神戸に着いて、とりあえず戦友の生死が分かるまで老夫婦を養うために働き出した。昭和22年10月になってこの戦友戦死の公報が入り、老夫婦に頼まれて戦友との約束を果たすべく鬼塚の養子になる。僅か半世紀ちょっと前の話だが、実の家族の間でも暗いニュースが相次ぐ今の日本から見れば別の民族の精神を見るようだ。
そして神戸の焼け跡闇市で青少年が非行化しているのを見て、青少年がスポーツに打ち込めるようないい靴を作りたい、と運動靴の製造に乗り出す。最初は大変だったが、考えに考え、改良に改良を重ねて安くていい品質の運動靴を作り出していく。1960年のローマオリンピックで貧国エチオピアの無名のアベベ選手が裸足でマラソンを走り優勝して世界を驚かせたが、翌年日本にやってきたアベベに裸足のように軽い靴だと説得して自社の靴を履かせることに成功している。フィル・ナイトが鬼塚に会ったのはその翌年だ。後年ナイキ社が有名スポーツ選手を使って成功したビジネスモデルを鬼塚はそのずっと前に実践していた事になる。経営方針は家族主義と目標に向かってのスパルタ主義で知られたようだ。
最近の私の経験を契機に二人の起業家のことを考えてみた。犯罪やスキャンダルや重箱の隅をほじくるようなあら捜しの報道にうんざりしている時は、社会に価値を生み出した成功者の事を考える方が精神衛生によい。何かと暗い日本で起業が相次ぎ成功者が目に見えるようになればこれは大いに明るい要素だ。起業で話題になるのはネット関連が多いが、サービス業や農業だって変革の時だろう。長期的な人口減という厳しい環境の中では日本の各地域が危機意識を持って変革を受け入れ、新しい制度と環境を整えて起業を促す必要がある。外国から見れば日本は何といっても豊かな社会を実現した立派な先進国だ。だがそれは危機意識を持って変化する現実に対処しなければ続かない。急に大きな話の展開になってしまった。まず、小さい事例でも成功者を讃える明るい心を持つことから始めたい。そのような例をまわりで話題にして少しでも明るくしたい。
(2011年12月15日寄稿)