「アラブの春」の先駆者チュニジア、民主化へ着実な一歩を進める

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駐チュニジア大使 多賀 敏行

1. はじめに
「今まで50年以上生きてきたが,生まれて初めて投票する。こんなにうれしいことはない」。これは,今年10月23日にチュニジアにおいて初めて実施された民主的選挙において,投票所となった小学校で,自分の投票の順番を待つチュニジア人女性が私に語った言葉である。チュニジアでは本年1月14日革命が起きた。23年間強権政治を行ってきた独裁者ベンアリの政権が崩壊したのである。

その後チュニジアでは,民主化移行のための取組を一歩一歩確実に進めてきたが、憲法を制定することになる憲法制定議会の議員217名を選出するための選挙(制憲国民議会選挙)を民主的かつ平穏裏に実施することが出来るか否かが大きな注目の的となっていた。ふたを開けてみると、選挙は大きな問題もなく無事執りおこなわれた。大変良いことであった。チュニジアは中東・北アフリカ地域における民主化を求める動きの先駆者であることから,同選挙が他のアラブ諸国に与える影響は極めて大きい。そのため、同選挙には国際的にも大きな関心が寄せられた。透明で自由な選挙の実施を確実にするため、チュニジア国内の民間団体をはじめ、多数の外国政府や国際機関,国際NGOが同選挙の監視活動に参加した。EUの監視団、アメリカのカーター財団の選挙監視団などがそうである。日本も浜田和幸外務大臣政務官を団長とする選挙監視団を結成し、投票所での監視活動を行った。私もその一員となって参加した。

2. 政変から制憲国民議会選挙までの民主化プロセス
2010年12月、高い失業率、沿岸部と内陸部の経済格差に対するチュニジア市民の不満が反政府デモとして発現した。チュニスの南約300kmの内陸にあるシディブジッド県で失業中で、野菜・果物の行商を行っていた26才のモハメッド・ブアジジ青年の焼身自殺に端を発したデモは,瞬く間に全国に広まった。独裁政権下で表現の自由を奪われ,大統領や政権に対する批判はタブーとされた社会において、市民がそれまでの沈黙を破り,社会公正や自由,尊厳を求めて立ち上がったのは驚くべきことである。ベンアリ大統領には首都チュニスをはじめ国内各地で広がる反政府の非暴力デモを弾圧によって抑えることはできず,かといって市民を満足させるような譲歩の道もすでに残されていなかった。ベンアリ大統領の1月14日の国外脱出により、ベンアリ政権は崩壊した。

中東・アフリカ地域の専門家も現場で外交に携わる者も殆ど誰も予想することができなかったこの政変は、たちまちエジプトやリビア、バーレーン、イエメン、シリア等の政治的、社会的に似通った状況下に置かれた市民を勇気付け、いわゆる「アラブの春」と呼ばれる民主化の波をアラブ地域に引き起こした。

 チュニジア革命はチュニジアを代表する花になぞらえて「ジャスミン革命」とも称されるが、チュニジア人自身はこの呼称を好んでいないようだ。ジャスミンの花からイメージされるような穏やかなものではなかったこともあろう。彼らは「自由と尊厳の革命」と呼んでいる。
政変後の民主化プロセスの中で最初の一番大きなステップとなったのは冒頭で触れた10月23日の制憲国民議会選挙であった。

3. 日本選挙監視団の活動
2011年10月23日は多くのチュニジア人にとって特別な日となったことは間違いない。チュニジア新憲法を制定する議会を選出するため、同日、チュニジア史上初の自由で民主的な選挙がチュニジア国内において無事実施されたからである。この選挙では認可された112の政党のうち約80が参加し、選挙方式は,選挙区ごとの議席数と同数の候補者が名を連ねたリストに投票する拘束式比例代表制で行われた。国内の27選挙区だけで 候補者総数は1万1000人以上になった。
同選挙に参加するため,朝早くから大勢の市民が投票所を訪れ、自分が投票する番を長蛇の列に並んで辛抱強く待ち続けた。


ブルギバ通りに面する 内務省 (ベンアリ時代の民衆弾圧の象徴的存在)
ブルギバ通りに面する 内務省 (ベンアリ時代の民衆弾圧の象徴的存在) 1月14日の昼頃、この前に一万人を超えるチュニジア市民が押しかけた。午後4時半ころ ベンアリは国外脱出した。

 

 

チュニス市随一の目抜き通り(例えて言えば、銀座通り)である、ブルギバ通りの東端に聳える時計台の広場 を背景にして
チュニス市随一の目抜き通り(例えて言えば、銀座通り)である、ブルギバ通りの東端に聳える時計台の広場 を背景にして 本使

 

 

 

我々日本監視団はチュニス市内及び近郊の8箇所の投票所を訪れたが、投票所で出会った市民の中には,投票するまでに2、3時間は普通、4時間以上待った人も稀ではなかったようである。もちろん、10月末でもまだまだ強いチュニジアの日差しの下で長期間待たされることに不満をもらす市民の姿もあった。しかし、全体としてどの投票所(小学校である)も,自分の声が新しい国づくりに反映されることに対する市民の喜びと熱気,高揚感であふれていたように感じる。まるでお祭りのような雰囲気でさえあった。翻って日本のことを考えた。市民の政治参加が当然のこととみなされていて、そのための準備やインフラが確実に整っている日本の状況がいかに恵まれているか、改めて実感した。


ブルギバ通りにある 「アル・キタベ書店」
ブルギバ通りにある 「アル・キタベ書店」 1月14日の革命後、言論の自由が認められ、それまで発売禁止であったベンアリ政権批判の書籍が店頭に並ぶこととなった。 この書店を言論の自由回復を報ずるメデイアが好んで取材した。

 

 

ブルギバ通りの歩道にある喫茶店
ブルギバ通りの歩道にある喫茶店 パリのシャンゼリゼ と雰囲気が似ている。チュニジアは1881年から1956年までフランスの保護領であった。

 

 

 

4. 選挙結果と今後の見通し
 制憲国民議会選挙では、選挙前の世論調査で最も有力視されていたイスラム主義政党「エンナハダ」が89議席(全217議席の約41%)を獲得して第一党となった。
 選挙前の世論調査結果や有識者の見方では、エンナハダが第1党になることは想定内であったが、同党がもともと支持基盤を持つ貧困層の多い内陸部だけでなく、苦戦をするとみられていた海岸部や都市部においても多数の票を集め、ほとんど全ての選挙区で首位となったのは驚くべきことであった。

今回、エンナハダが市民から幅広い人気を集めたのは、信教の自由を含む個人の自由の尊重や女性の地位の向上を前面に掲げ、改革開放路線を取ったことが大きい。今後、エンナハダがイスラム主義の傾向を強め、例えばアルコール販売の規制や一夫多妻制の復活、女性のヒジャーブ着用の義務などを提案したとしても(同党はこれらを提案しないと宣言しているが)、ブルギバ政権及びベンアリ政権時代に多分に西欧化したチュニジア社会において,これらの提案は簡単には受け入れられないだろう。また、チュニジアでは1956年に公布された個人身分法により,他のアラブ諸国と比較して女性のための権利の保障が格段に進んでおり、女性の社会進出も顕著である(大学生の56%、医者の約半数が女性)が、これらの分野で後戻りをするような政策を有権者が支持するとは考えにくい。

5. おわりに
 チュニジアは1月14日政変以降,着実に民主化の道のりを歩んできた。制憲国民議会選挙が成功裏に終わって、最初の大きな山場は越えた感があるが,これから1年以内に実施されることが期待されている新憲法制定や議会選挙、大統領選挙など,これから待ち受けている関門はまだまだ多い。最終的に安定した民主主義政府が樹立されるまでの道のりはまだ長いが、23年間続いた独裁政権を倒すほどの強い意志力を見せたチュニジア国民であれば、この目標を達成することも難しくないと今回の制憲国民議会選挙の成功を見た多くの人達は改めて思ったに違いない。私もその一人である。

※本文に記載している内容は個人的見解に基づくものです。 (2011年11月24日寄稿)

※本稿は、12月末発行の社団法人アフリカ協会機関誌『アフリカ』に掲載される同筆者のダイジェスト版です。チュニジア情勢のより深い分析は、同協会の機関誌『アフリカ』を併せてご覧下さい。
※お申し込みは、アフリカ協会HPまで:http://www.africasociety.or.jp/