ミンダナオ和平と日本の貢献

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          前フィリピン大使   桂 誠

8月4日、ミンダナオ和平に関しアキノ大統領と反政府指導者とのトップ会談が東京近郊で極秘裏に行われ、翌日、発表・報道された。「平和構築外交」が日本外交の重要な柱の一つとして打ち出される中で、日本は本件に多大の貢献をしており、それが、トップ会談の場として東京近郊が選ばれたことに繋がったことは間違いない。

1.ミンダナオ和平問題とは
スペインが来航するまでは、現在のマレ-シアから比のミンダナオ島にかけての地域は、イスラム教徒が各地にスルタンを擁して支配しており、スペインが比を植民地にした後も、この地域には統治は及んでいなかった。ミンダナオ島全域に統治が及んだのは、19世紀末に米国がスペインに替わって宗主国となった後である。さて1946年の比の独立後、ビサヤ地方(ルソン島とミンダナオ島の中間にある比の中部)から多数のキリスト教徒がミンダナオ島に入植し、イスラム教徒が次第に追いやられ土地を失っていったと言われている。イスラム教徒は比全土では人口の約5%しか占めないが、ミンダナオ島では約四分の一を占め、その一部が、同島の中部で中央政府に対し武装闘争を行うようになった。

1996年9月には、MNLF(Moro National Liberation Front)とラモス政権との間で和平が成立し、一定の地域で一定の自治権が与えられる代わりに、MNLFは武装闘争を終止したが、これに納得しない強硬派のMILF(Moro Islamic Liberation Front)は、武装闘争を継続した。1998年成立のエストラ-ダ政権は、MILFを武力で掃討しようとしたが成功せず、2001年成立のアロヨ政権は、交渉で問題を解決する方針をとった。

2003年7月には、政府とMILFとの間で停戦合意が成立し、2004年10月には、停戦監視のための国際監視団(International Monitoring Team。IMT)が、ミンダナオ島中部のコタバト市を拠点として活動を開始した。これはマレ-シア、ブルネイ、リビアの兵士約六十名からなるものであった。
和平交渉は、MILFに強い影響力のあるマレ-シアを仲介役としKLで断続的に行われてきたところ、MILFも独立を要求している訳ではなく、MNLFが1996年に得た合意よりも広い地域で、より高度の自治を得ることを要求しているものである。

2.日本の基本的考え方と貢献
ミンダナオ島は、北海道と四国を合わせた面積を持ち、土地は肥沃で豊富な鉱物資源を有し、台風が来ないという良好な自然環境にある。よってミンダナオ和平問題の解決は、比全体の開発の遅延の解消に大きく寄与する可能性が高い。また、MILFの中の強硬派は、アブ・サヤフ等のテロリスト・グル-プと親密であり、この問題の解決不調は、テロ対策にも悪影響を与えるものである。 このような考え方から、2006年7月の麻生外相(当時)訪比の際に、我が国がミンダナオ支援に大きく踏み出す旨が表明された。
具体的には、上記一.の国際監視団に、2006年10月より、非イスラム国家として始めて参加することした。この国際監視団は、国連平和維持活動(PKO)ではなく、自衛隊員を送る余地がなかったので、JICAの専門家にマニラの日本大使館に出向して貰い、更にマニラから、復興支援の担当として現地の国際監視団に送ることとしたものである。最初は一名、現在は二名が活発に活動し、現地で高く評価されている。

また日本は、対比ODAの一環として、ミンダナオ島の元紛争地域に学校、給水施設、職業訓練センタ-を草の根無償の形で建設する協力等を開始し、これをJ-BIRD(Japan Bangsamoro Initiatives for Reconstruction and Development)と称して継続、強化している。紛争終了前からこのような復興支援を開始するのは、「平和構築外交」において新たな試みである。「BIRD」は、平和をよぶ「鳥」となるよう願いを込めて、担当大使館員が考えた略称である。Bangsamoroは「イスラムの人々・国家」という意味である。既に40以上の学校等が建設され、筆者も、完成式の際に訪問する等、現地を三回訪問した。

  • ambassador_with_milf_chairman_ibrahim2.JPGMILF最高指導者であるムラド議長と筆者

このうち初回は、2007年10月に行ったものであり、コタバト市近郊にあるMILFの本部も訪問し、最高指導者であるムラド議長に面会した。停戦ラインを越え、筆者等の身柄が政府側支配地域からMILF側支配地域に引き渡される際には緊張したが、MILF側も、日本の前記のような支援は高く評価しているので、丁重に迎えられ、ムラド議長からアロヨ大統領への伝言を預ったりした。日本大使館の代々の政務公使、担当書記官が、比政府とMILFの間の意思疎通の円滑化に貢献している。特に2008年夏以降、停戦が崩れ戦闘が再開され、数十万人の避難民が困難な状況に置かれた際には、日本大使館の担当公使、書記官が、停戦再開のために比政府とMILFの間で大きな役割を果たした。これが翌09年7月23日の停戦再開に繋がったと考えられる。

2009年12月には、政府とMILFの間の交渉が進展せず、オブザ-バ-のような形で交渉に助言するグル-プの結成が求められた。ICG(国際コンタクト・グル-プ。International Contact Group。)と称されることとなった同グル-プには、日本、英国、トルコ、サウディと幾つかのNGOが参加を求められた。
英国の場合は、北アイルランドの和平交渉の経験に基づいて参加が求められたものであるが、英国は、国際監視団(IMT)に人を出していた訳ではないし、J-BIRDのような復興支援に取り組んでいる訳でもない。
他方、米国や豪は、復興支援は行っているが、国際監視団に人を出している訳ではないし、ICGにも参加を求められていない。特に米国の場合、キリスト教の超大国であるので、IMTは勿論、ICGに入って来ることには抵抗が強いのであろう。

中国は、このミンダナオ和平問題には何ら貢献していないし、他の主要国も前記のような状況にある中で、国際監視団に人を出し、復興支援に積極的に取り組み、ICGにも参加しているのは日本だけである。筆者は、比各地で日本のODAで建設された道路、橋等の完成式にアロヨ大統領(当時)と出席する機会が多かったが、大統領は筆者の顔を見ると、よく、ミンダナオ和平への貢献に感謝すると言っていた。アキノ氏については、昨年五月の大統領選挙で当確となった直後に筆者が表敬して日比関係につき説明を行った際、この問題についての日本の貢献に触れたところ、そこまで協力してくれているのかと驚いていた。この8月、MILF側と東京近郊でトップ会談を行うことができ、日本への感謝の念を更に深めたものと推測される。なお筆者は4月末に離任したので、このトップ会談の設定には関わっていないが、秘密が漏れやすい比を相手として、実現翌日の発表まで、よく秘密が保たれたと感心している。

3.2008年夏の挫折とミンダナオ和平の今後
さて、トップ会談が行われたからといって、交渉が前進するとは限らない。筆者は、2008年夏にアロヨ政権下でMILFとの合意が成立し署名式がKLで行われる予定となった際、米国大使等とともに招待されたことがある。しかし外相、和平担当閣僚や我々を乗せた飛行機がマニラからKLに向っている最中に、マニラで最高裁が「本件合意は違憲のおそれあり」として翌日の署名を禁じる仮処分を決定してしまった。MILF側は強く反発し停戦が崩れた。米国大使や筆者がマニラに戻ると、多くの知人から「MILFに譲歩しすぎた合意内容を知っての上でKLでの署名式に立会いに行ったのか」と難詰された。「全人口の5%しか占めないイスラム教徒の、そのまた一部である強硬派のために、憲法改正が必要となる程の譲歩はしたくない」というのがキリスト教徒である有力者たちの自然な反応であることを痛感した。また高度の自治が与えられる地域に含まれてしまう市町村に住んでいる現地のキリスト教徒の反発や、これらキリスト教徒の出身地である比中部の政治家の反発も激しかった。

いずれにせよ、この時に署名されかかった合意より不利な合意は、MILFにとって受諾困難である。他方、政府にとっては、この時の合意と同様、又は、それ以上の譲歩は、最高裁から違憲とされる危険が高い。かくして交渉の早期進展は容易ではないと考えられる。
勿論交渉の前進が望ましいが、ボトム・ラインは、交渉が決裂せず、停戦が崩れないことである。日本としては、このための環境作りに資すべく、前記の三分野での貢献を忍耐強く継続していくことが肝要と考えられる。  (2011年10月24日寄稿)