上野景文著『バチカンの聖と俗』(かまくら春秋社、2011年)
元駐チェコ共和国大使 髙橋 恒一
本年7月末に出版された上野景文著「バチカンの聖と俗」(かまくら春秋社)は、15年程前から文明・文化についての論考を発表してきた著者が2006年から4年間にわたるバチカン大使としての体験と観察を基に書き下ろした意欲作です。著者によれば本書は、バチカンについての概説書でも単なる体験記でもなく、「文明論としてバチカンに迫ることを試みたもの」ですが、その言葉どおりに著者がバチカンでの体験を通じて捉えたバチカン像が興味深いエピソードと供に種々の視点から鮮明に描き出されています。
先ずバチカンの国名について宗教機関でありながら、主権国家でもあるバチカンの二重性を体言している由緒正しい国名は、わが国が使用している「バチカン市国」ではなくもう一つの国名である「 Holy See」 ( HS, 邦語訳は「聖座」又は「法王座」)であり、国際的にも HS の方が通りがよいという、日本では余り知られていない重要な事実が指摘されています。また、現在のバチカンは、国土も国民も産業も持っておらず、むしろ信条や目的を共有する人々が集まった目的集団であり、国家とぃうより、法王をトップに戴く国際機関と捉えた方が理解しやすいとの指摘もバチカンの特性を理解する上で有益だと思われます。
宗教機関としてのバチカンに関しては、体験的文明・文化論の観点から捉えたカトリック教会の本質として以下の3点を挙げており、これが本書の主旋律となっています。(1)2000年に亘り歴代の法王が、キリストの言葉により正統性を与えられた初代法王聖パウロの後継者として正統性を維持してきたこと。(継続性、正統性の連鎖)
(2)世界中の全司祭が、法王により任命された司教を通じ法王に結びつき、正統性の連鎖を通じて、聖パウロに結びついていること。(普遍性、世界性)
(3)カトリック教会は、2000年を生き延びる過程で、あるいは世界性を達成・維持する過程で、分かりやすさ、親しみやすさを高め、民衆を教会に引き付けておくため、聖母、聖人、聖遺物、法王、教会などの「中間項(パラメーター)」を設け重視してきたこと。(「中間項」の維持―工夫・妥協の名手)
著者は、カトリック教会の聖遺物へのこだわりと信者獲得のため教会間でも行われたという骨の争奪戦の歴史を詳細に観察し、聖遺物へのこだわりは、民衆の心を引き止めるためにカトリック教会が示した柔軟性の最たる事例であると述べています。その上で著者は、中間項にこだわる現実主義のカトリック教会と神と人間の間の中間項は不純物であり不要だとしてこれを排除する純化思想のプロテスタント教会との違いは、ある種原理的違いではないかと指摘しています。こうして著者は、同じ一神教型文明と言っても、多神教的要素を積極的に取り込んだカトリック型文明とイデオロギーの純粋性にこだわるプロテスタント型文明は、別種の文明であると結論付け、これまでの2つの文明対比論から3つの文明対比論に転換した旨宣言しています。著者の「大きな神様」と「小さな神様達」というキーワードによる世界の文明対比論は、ユニークであり、カトリック型文明とプロテスタント型文明の違いについての説明も説得的ですが、新しい3つの文明対比論についても、今後、正教会、ユダヤ教会及びイスラム教をも含めた形での本格的な論考が発表されることが期待されます。
バチカンの対外関係については、一方において国際的プレイヤーとしてのバチカンの存在感の大きさが強調されています。著者は、ローマ法王の存在感を高め、国家としてのバチカンのマグネテイズムを高めている要因として、国際社会のお目付け役としてのローマ法王が有するモラル・パワーとメッセージ力、情報力(40万人のカトリック司祭、11,7億人の信者、カトリック系のNGOによる情報収集のメカニズム)、発信力(ローマのカトリック系メデイアの力)、ノウハウの蓄積(外交の老舗)等の諸点を挙げ、わが国もバチカンのこうしたパワーにもっと注目し利用することを検討すべきことを提言していますが同感です。これと同時に宗教国家であるが故のバチカン外交の困難性も指摘されています。後半のキリスト教諸宗派及び諸宗教とカトリック教会との関係についての詳細な記述を読むと、宗教上の関係と外交関係が密接かつ微妙に絡み合っていること、バチカンが我々の知らないところで長期間にわたり困難な交渉を忍耐強く続けてきていることがよく分かります。
本書の後半では、欧州において科学信仰、人権信仰、表現の自由信仰、ライシテ(宗教と統治の分離思想)、自然・環境信仰といった神なき信仰が根を下ろした西欧北部とバチカンを中心とする伝統的欧州(西欧南部)との間でイデオロギー論争が激化している状況が豊富な具体的事例により紹介されています。そしてこの論争は、伝統的キリスト教をバックボーンとする既存の西欧文明と脱キリスト教の文明という、2つの文明間のせめぎ合いを意味しており、欧州の文明的変貌を反映しているとの著者の見方が示されています。欧州についての情報は、数多くありますが、こうした文明的基盤まで掘り下げた分析というのは、珍しく、今後の欧州情勢を見ていく上で重要な視点だと思います。
最後に著者は、世界全体を見渡せば、西欧や日本のように世俗化の進んだ社会も例外的に存在するが、国際社会全体では、宗教の影響力はむしろ強まっているとして、宗教という要素を軽視しては、世界の多くの国の国民と文化を理解し社会動向を予測することは出来ないので、外交力の強化を図る観点より宗教の動向を制度的・体系的に把握する方向で外務省が組織の整備を図ることを提言しています。時宜にかなった提言であり外務省の現役の皆さんに是非検討をお願いしたいと思います。
本書は、著者が明確な問題意識に立って多くの顔を持つバチカン・カトリック教会と正面から取り組んだ探求の書であり、バチカンについての一風変わった良い解説書であるだけでなく、西欧北部と南部との間でイデオロギー論争が激化している欧州の最新情勢と宗教の影響力が強まりつつある世界におけるカトリック教会と諸宗派、諸宗教との関係についての類例を見ない解説書にもなっています。バチカン・カトリック教会だけでなく、欧州情勢やグローバルな国際関係更には文明論等に関心をもっている方々に、広く一読をお勧めいたします。
(2011年9月26日寄稿)