国際的に注目されるロシア農業の動向
道都大学名誉教授 元駐ソ連大使館参事官 柴崎 嘉之
1. はじめに
ロシアは、2010年8月15日から2011年6月まで、穀物の禁輸措置をとり、同年7月に解除した。ここでは、国際穀物市場に与える影響の大きいロシアの農業動向をみることとする。なお、主要な参考文献は「エコノミスト」(露文)(①)と「農工コンプレックス」(②)である。
2. 穀物禁輸とその解除
ロシア政府は、2010年8月15日から同年末まで穀物(小麦、大麦、ライムギ、トウモロコシ、小麦粉等)を禁輸すると発表した。その後、禁輸(小麦粉を除く)を2011年6月末まで延期した。しかし、2011年産の作柄回復により、同年7月からは、禁輸が解除された。
ロシアの穀物生産は、2008年に1億820万トン、2009年に9,710万トンと連続豊作の後で、2010年には6,100万トンへと大きく減産した。2010年は、130年の観測史上初めての暑く、雨の少ない天候のために、穀物の作付面積(4,800ヘクタール)のうち、25%が壊滅するという被害を受けた。このため、冬穀物、春穀物の種子不足が1,440万トン、飼料不足が1,330万トンと見込まれたことから禁輸措置に踏み切った(②10・9)。禁輸措置がなければ、家畜の大量と殺を余儀なくされたであろうとしている(①10・10)。
ロシアの禁輸措置は、世界的な穀物価格高騰の一因となったとみられる。ロシアの小麦は、安価で中東諸国で輸入されていた。小麦の輸入の半分がロシア産であったエジプトにおいて、トン当たりの食用小麦の価格は、2010年8月9日のフランス産が285ドルであったが、2010年7月のロシア産は184ドルであった。このような急激な小麦価格高騰は、「中東の春」をひきおこす原因のひとつとなったとも考えられる。禁輸後において、小麦のトン当たり価格は、ロシアにおいて、国際水準より100~120ドルも低かった。
3. 世界の穀物貿易の変化
旧ソ連は1987~91年の期間に、平均してネットで35,00万トンの穀物を輸入していたが、2009年には旧ソ連合せてて5,500万トン近い輸出をした。この違いは、往復で9,000万トンの穀物が世界市場に供給されたのに等しい。なお、2010/11年における世界の穀物貿易量は2億7,754万トンと見込まれている。
ロシアは2000年頃にはほとんど穀物の国際市場に登場していなかったのが、2005年以降穀物の輸出大国として出現した。スクルイニキ農相は、「長い年次においてロシアは初めて世界の食料市場でかなりのプレーヤーとなり、穀物輸出が2008年に2,400万トンと世界第三位の輸出国となった。今後10~15年のうちに穀物生産1億2,000万~1億2,500万トン、輸出3,000万~4,000万トンを安定的に行うことを可能にさせるであろう。」(①10・4)と述べている。
米国農務省は、2019年までに、世界の小麦の生産や貿易で大きな変化が起きると予測している。すなわち、第二次世界大戦以来世界最大の小麦の輸出国であった米国が、第一位の輸出国の地位を2019年までにロシアに譲り渡すと見込んでいる。
ロシアは、2008年および2009年には、北アフリカや中東向けに小麦の輸出量を著しく増加させるとともに、インドネシアやマレーシアにも輸出を開始するとともに、日本、韓国、ブラジルまで輸出することを視野に入れるようになった。
ロシアの穀物輸出増大の野心は、今回の禁輸によって試練を迎えたが、2011年の作柄好転により、2011年7月からは穀物輸出を再開することになった。
4. ロシアの農業生産動向
最近におけるロシアの穀物輸出増大の動きの背景には、改革年次において畜産部門が急激に縮小したため、飼料穀物の需要が減り、国内で余剰が生じたために、これを輸出しようとしたことがある。
対比価格でみたロシアの農業生産は、1990年を100とすると、1995年は66.9、2000年は60.7と大きく落ち込み、その後、回復に向かったものの2005年に68.1、2010年に71.3にとどまっている(①11・6)。
改革年次において、農業生産が低迷している理由を若干指摘しよう。
第一は、価格関係が農業にとって不利になっていることである。すなわち、1991年から2008年の間の上昇率は、農業生産物の販売価格が8,000倍だったのに対し、農業が必要とする生産物やサービスの価格が4万6,000倍となった(②10・4)。この結果、農業機械、化学肥料、農薬等の購入量は急減した。
第二は、農業に対する国家支援が急減したことである。現在価格水準でみて、連邦政府の農業・漁業向けの支出は、1989年において約1兆125億ルーブル(②10・4)だったのに対し、2010年には353億ルーブル(1,000億円)へと減少した。
第三は、農村インフラが未整備なことである。例えば、農業組織(2008年における平均規模は、播種面積が2,800ヘクタール、従業員128人)のうち、舗装された経営内道路を有していたのは47%にすぎなかった(②09・6)。
播種面積は、1990年の1億1,771万ヘクタールから2010年の7,484万ヘクタールへと4,252万ヘクタールも減少した。この減少面積は、ドイツ、フランス、イタリアの耕地面積を合わせたものに相当する。これらの耕作放棄地には、雑草、低木樹林などが繁茂し、病害虫の巣となっている(②10・5)。
家畜の頭羽数(年末)は、改革年次において、牛およびそのうちの乳牛の頭数は一貫して減少し、いまだに減少に歯止めがかかっていない。豚や家きんは、大きく減少したものの2005年以降は増加傾向にあり、羊・山羊も急減した後で、2006年以降は、ほぼ横ばいの状況にある。この結果、頭羽数は、1992年から2010年の間に、牛は61.7%減、うち、乳牛は56.4%減、豚は45.4%減、羊・山羊は57.6%減となり、家きんは、2009年までに33.9%減となっている。
食肉生産は、牛肉および子牛肉は、改革年次を通じて一貫して減少したのに対し、豚肉、家きん肉、山羊・羊肉は、減少の後、2005年以降は2010年までに、豚肉は47%増、家きん肉は約2倍、山羊・羊肉は22%増となった。この結果、2010年の1992年に対する生産の比率は、食肉全体で14%減、うち、牛肉および子牛肉が53%減、豚肉が17%減、羊・山羊肉が43%減に対し、家きん肉はほぼ2倍となった。
肉牛、豚、羊の飼料要求は、先進国の1.5~2倍(①09・4)となっているが、飼料が量的にも不足し、たんぱく不足など質てきにも問題があるためである。
2005年以降、生産が増加している養鶏部門は、専門企業に生産が集中し、家きん肉の87%、鶏卵の76%を占めている。ブロイラーは約3億羽の人工孵化の鶏および6,200万羽のハイブリッドのひなが輸入されている(②10・8)。同じく、2005年以降に増産が進む豚肉は、主として工業タイプの生産設備によって達成されている(②10・5)。なお、肉牛の生産性は、先進国の2分の1から3分の2と低い(①10・8)。
5. 深刻化する農村問題
世界経済が示していることは、所得上位10%層と下位10%層の所得格差が1:10を超えると危機的な社会的緊張の状態にあるとされるが、ロシアは1990年に1:4.5だったのが、現在1:18である。なお、欧州連合は1:6である。
農業組織の平均労働報酬(2010年には、月額で1万573ルーブル:3万133円)の国民経済全体に対する比率は、1990年の95%から2010年には49.9%に低下した。これは、燃料部門の23%、金融部門の22%にしかすぎない(②11・5)。
2010年の農村住民の失業率は、10.8%で、都市部の住民の5.8%を大きく上回っている。全人口に対する農村人口の比率は27%なのに対し、農村に貧困者の42%が集中している(②11・6)。居住者100人以下の農村集落には商業や生活サービス(理髪等)の店舗のなく、移動販売車もやってこない。農村集落の約3分の1は、舗装した道路へのアクセスをもたない。(①11・4)。
6. おわりに
世界での人口増加と途上国を中心に所得向上に伴う穀物需要の増大に対し、穀物生産を増大させる可能性の大きい国としてロシアが期待されている。ロシアに存在する4,200万ヘクタール超の耕作放棄地と自然条件の類似したカナダに比べ穀物の単位面積当たり収量は3分の2である(②11・4)ことから、作付けの増大、単位面積当たり収量の上昇の可能性がある。2006年の1人当たり穀物生産量は、欧州連合が550キログラム、ロシアが533キログラムであった。欧州連合は穀物と畜産物の主要な輸出地域であるのに対し、ロシアは穀物を輸出することはあるものの、畜産物は大量に輸入している(①10・12)。ロシアは穀物の利用効率を上昇させ、余剰を生み出す余地が大きい。
ロシアの良好な営農条件にめぐまれた地域では穀物を中心に生産、加工、流通(輸出を含む)、販売などの垂直的な統合を図るホールデングが出現し、傘下の企業の機械・設備などの近代化投資を積極的に進め成果をあげているものがある(②10・12)。また、既にみたごとく、最近年次において効率的な養鶏工場や養豚コンプレックスの建設が進められている。
ロシアが穀物輸出を推進していくためには、穀物の保管、輸送、港湾施設などの改善を必要としている。
輸出が軌道にのり、その恩恵を穀作農民が受けることができ、穀物増産とその利用効率向上に積極的に取り組むようになれば、穀物の輸出大国になる可能性もあろう。豊凶変動、自国の利益優先の政策など不確定なありながらも、穀物輸出大国の地位を高める可能性もあるであろう。ロシアの今後の動向が注目される。 (9月27日寄稿)