日本のアフリカ農業支援二題(その2)

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        元国連大使、JICA副理事長  大島  賢三

― 日本・ブラジル・モザンビークの三角協力 ―

前号では、日本がアフリカの食料安全保障のため稲作振興に着目し、国際機関などを巻き込んで「コメ生産10年倍増」に向けたイニシアティブ( CARD )をスタートさせた取り組みを紹介した。本号では、東南アフリカのモザンビークで、日本とブラジルが組んで大掛かりな「三角協力」型の農業協力を始めようとしていることを取り上げたい。

セラード農業開発
 この背景には、日伯間の「セラード農業開発」がある。ブラジルに勤務経験のある人や農業関係の開発協力に携わった人には、「セラード農業開発」は、なじみのある言葉であろう。首都ブラジリアを中心にブラジル中西部に広がる“Cerrado”と呼ばれる地域は、面積にして207万ha(国土の24%、日本の5.5倍)に及ぶ広大な熱帯サバンナ地帯である。ポルトガル語で「閉ざされた、密集した」という意味合いのこの地域は、灌木林など特殊な植生が覆い、強酸性土壌で、農業には不向きの「不毛の地」とされていた。
 今日、最大の農産物貿易黒字額を計上し「世界最強の農業国」の地位を誇っているのはアメリカではなく、ブラジルである。国運FAO統計(2007年)によれば、意外にも「世界のブレッド・バスケット」アメリカは4位(180億ドル)で、ブラジル(369億ドル)の約半分にすぎない。ちなみに、同統計によれば、日本はランキング最下位で(184位、輸入超437億ドル)、中国よりも赤字額は大きい(182位、同270億ドル)。
 しかし、そのブラジルも約半世紀前には「飢餓社会」を抱えていた。それが今日の有数の農業国へと大変貌を遂げたのが、1970年代半ばからの農業の急速な発展であり、その中心が「セラード開発」であった。そして、日本はこのセラード農業開発に20余年に亘って技術協力と資金協力を投じ、少なからぬ貢献をしたのである。「緑の革命」の最大の功労者とされ、ノーベル平和賞を受賞した故ノーマン・ボーローグ博士(米国)は、セラード農業開発は「20世紀農学史上最大の偉業の1つ」と絶賛を惜しまなかった。最近の英誌エコノミストは、世界の食料価格高騰のコンテクストでブラジル農業の発展を特集し、「セラードの奇跡」を称賛した(ただし、この記事では、遺憾ながら日本の貢献のことに触れられることはなかった)。

大豆禁輸のショック
 日本がブラジルのセラードに関心を寄せる直接のきっかけとなったのは、1973年のアメリカによる大豆禁輸措置である。第1次オイルショックのあおりで禁輸措置が取られると、大豆など穀物輸入先をほぼアメリカ一国に依存していた日本は大きな衝撃を受け、食料輸入先の多角化、開発輸入、食料安全保障といった議論が本格化した。こうした中で、セラード地帯が大豆の供給基地になりうるとの期待が高まり、農水省を中心に対ブラジル農業協力事業の構想が生まれたのである。

 そして、1974年、ブラジルを訪問した田中角栄総理とガイゼル大統領との共同発表を契機に、両国政府間でセラード農業開発事業の実現に向けて検討が始まり、基本構想が固まっていった。すなわち、この事業はODAとして、①ブラジル国内の地域開発(地域益)への貢献となる、②世界の食料供給増大(国際益)にかなう、③日本の食料安全保障(国益)にもなるという3つの“win”である。

日本の貢献
 その上で、事業具体化のため、(a)技術協力と(b)資金協力を「車の両輪」として組み合わせ、今日では「プログラム・アプローチ」と称される総合的な協力計画へと進んだ。一方、この時期(1970年代半ば)、ブラジル政府は農業開発に向けて「セラード農牧研究所、CPAC」を創設したほか、農業金融制度を整え、社会・経済インフラ(道路、農村電化、港湾、貯蔵施設など) の充実に着手する。このブラジル側の努力に呼応して、日本は1977年に始まった(a)の技術協力で、CPACへの支援として研究機材を潤沢に供与し、人材育成を通してその研究能力向上に多大な貢献をした。これによりセラード農業に係る研究論文は飛躍的に増加し、CPACは一流の研究機関へと発展した。温帯原産である大豆の熱帯性品種が育種され、また土壌改良技術、各種作物の栽培技術、環保全技術が向上する。
 そして5年の準備期間を経て、1979年には(b)の資金協力(日伯セラード農業開発協力―PRODECER)も始まった。その後、22年間にわたり684億円が投入され、8つの州において21もの入植地の造成が進められた。この成果そのものは、ブラジル側が4半世紀にセラード地帯において新たに耕地化した全体面積約1000万haの3.5%に過ぎないが、その規模が示唆する以上に、事業地が開発拠点として周辺地域農地造成の先導役となり大きな開発インパクをもたらした。さらにPRODECERの開発方式は環境保全にも大きく寄与したと評価されている。

日系人の活躍
 セラード開発の初期過程で忘れてならないのが、日系人社会の果たした役割である。早くも1973年、日系のコチア産業組合がミナス・ジェライス州と共同で入植地事業を計画し、これがセラード農業開発の嚆矢となった。翌年にコチア農業協同組合員89名により、「無謀としか言いようのない」未開地への集団入植が始まり、数々の困難を乗り越えながら24000haの造成など、「特筆すべき大計画」への取り組みが進んだ。

 こうして1990年代になるとセラード農業開発は軌道に乗り発展期を迎える。その農学上のリスクは大幅に軽減されて民間(農家、アグリビジネス)の進出が促進され、農業生産量と輸出量が急速に増大し、営農形態や作物も多様化、農産加工業の進出も盛んになって今日へと至っている。

 セラード開発の牽引車となったのが大豆生産である。それまで大豆はセラード地帯でほとんど生産されていなかったが、農業開発が本格化し大豆が導入されると、その栽培面積は爆発的に拡大し、4半世紀でセラード地帯での大豆生産量は約3300万トン(2006年)(ブラジルの大豆生産量の63%)におよび、ブラジルはアメリカに比肩する世界第2位の大豆生産国となった。この結果、日本へのインパクトとして、アメリカからの大豆輸入依存度が95%(1977年)から71%(2010年)へ減少し、一方、ブラジルからの輸入比率は2.0%から16%へと増加し、輸入先の多角化につながった。
 今日、セラード地帯は大豆以外にも、綿花、トウモロコシ、果実、牛肉、コーヒー、野菜等の一大生産地帯となり、多くのアグリビジネスが興隆している。ODAによる協力に日本側が乗り出すに当たって描いた当初構想の目的は、こうしてほぼ達成されたと言ってよい。
セラードの経験をアフリカヘ
 さて、この2国間の大がかりな農業協力を通じて、ブラジルと日本は相互に多くのものを学び、信頼関係が生まれたが、この貴重な経験と知見を「地球最後の農業フロンティア」とされるアフリカで生かせないか、「アフリカ緑の革命」に役立てられないか、アフリカの需要を賄うだけでなく世界の食料供給増にも貢献できないか―という発想がどこからか出てきても不思議ではない。事実、先述のノーマン・ボーローグ博士は、われわれより以前に「セラードを開発した技術は、サハラ砂漠以南の広大な地域(や、インドネシアと中国南部)のかなりの地域に応用できると確信している」と予言的に述べている。
 日本とブラジルの間には、このセラード開発以外にも、日系移民に対する各種の支援、ブラジルを根拠地とした周近国への技術移転支援(南南協力、三角協力)などの日本からのODA協力実績があり、相互信頼の積み重ねがある。例えば、JICAの支援によりアフリカ諸国からブラジルに農業研修生などを受け入れる「三角協力」は1989年に始まり、その後10年間に400名以上のアフリカ研修生が参加した。

日伯パートナーシップ
 こうした実績を基礎に、2000年になり「日伯パートナーシップ」が両国政府間で署名された。そして2007年、JICA緒方理事長とアモリン外相の間で、このパートナーシップをアフリカでの共同事業に広げる可能性が話し合われ、その具体化の第一号大型案件として浮上したのが、このモザンビークにおける農業開発協力である。
 世界植生地図を広げると、赤道直下に熱帯雨林が帯状に広がり、その両側に熱帯雨林を挟むように熱帯サバンナ地帯が広がる。このうち、アフリカの熱帯サバンナの面積は約7億ha、そのうち4億haが農耕適地とされる(世銀資料)。この多様性に富む熱帯サバンナの中で、現在までのところブラジル・セラードのみが世界有数の農業生産地帯に変貌を遂げたわけである。

北部モザンビークヘの展開
さて、モザンビークは、東南アフリカに位置し、面積は80万k㎡(日本の2.1倍)。国土の7割を熱帯サバンナが占め、経済開発ポテンシアルは大きいが、17年続いた内戦の影響もあり貧しい脆弱国の1つである。日本とブラジルの専門家による基礎調査によれば、北部の「ナカラ回廊地帯」と呼ばれる一帯は、ブラジルのセラード地帯とほぼ同緯度で、比較的雨量もあり、耕作地に転換できる広大な未耕地が広がっている。その地域を東西につなぐ道路と鉄道は流通インフラとして重要で、日本、韓国、アフリ力開銀がその道路改修に資金援助する方針も決まっている。その東端のインド洋側には天然の良港ナカラ港が位置する。
 こうしてナカラ回廊地帯を「三角協力」の対象地として選ぶことに決まったが、一方でモザンビークとブラジルでは経済社会の相違も大きい。モザンビークは欧米からの財政支援なくして国家財政が成り立たない最貧国であり、技術レベルも低い。従って、ブラジル・セラードの開発モデルを右から左へとそのまま移植できないが、それでもブラジルとの三角協力に期待できることは多い。ブラジルには、零細農民の入植事業、大型農業の導入によるフロンティア開発、アグリビジネス、環境保全、衛星システムの技術にも優れた知見があり、モザンビークヘの応用が可能である。日本には農業分野の技術協力と資金協力の手段かある。
 こうして2009年7月、「世界の食料安全保障」が主要テーマの1つとなったG8のラクイラ・サミットにおいて、麻生総理とブラジルのルーラ大統領(いずれも当時)の間で「日伯セラード開発協力の経験を活かして、日伯連携でモザンビークでの農業開発協力を実施する」ことが合意された。実務的には、同年9月、モザンビークの首都マプトにて、JICAを代表して筆者、ブラジル国際協力庁長官、モザンビーク農業大臣の三者間で大枠合意が署名された。

三角協力の実施プラン
 この“ProSAVANA”と称される事業計画によれば、全体の計画を第一の準備段階と第二の事業化段階に分け、まず、第一段階では日伯共同でモザンビーク側の研究・普及能力向上を支援し、地域全体の農業マスタープランの作成、農村レベルでの実証調査、農産物増産支援、農村組合活動促進を行う。その上で第二の事業化段階では、ODA有償資金の投入、日伯民間企業の参入、国際機関(世銀など)との連携などにより本格的農業生産に入ることが計画されている。
 こうして始まった日・伯・モザンビークの「三角協力」は今後、恐らく10年以上は続く息の長い取り組みが必要になるであろう。これが成功すれば、同じくポルトガル語系で潜在可能性の高いアンゴラその他のアフリカ諸国における農業開発のモデルにもなりうる。

新しい農業開発モデルに向けて
 アフリカやアジアを舞台に今、中東湾岸諸国や、インド、中国など新興国、韓国などが潤沢な資金を投じて、広大な農地を借り上げる「農地争奪、Land grab」と呼ばれる熾烈な農地獲得競争が展開しつつある。その幾つかのやりかたは、零細農家を駆逐する「第二の植民地主義」だと批判を招いている。そういう風潮が広がる中で、この「三角協力」のモデルが、ホスト国の農業基盤の強化に貢献するだけでなく、大規模農場と小規模零細農場の双方に調和のとれた農業開発の可能性を開き、責任ある海外農業投資の行動規範を示すことになれば、3つの“win”を実現する極めて意義のある事業となるであろう。その意味で、 三国がInnovativeなアイディアを試み、日伯連携で相乗効果を実現していくことが期待されている。

 幸いなことに、日本側には、JICA・OB職員で現役時代にセラード開発に専門家として通算17年間にわたり直接に関わった本郷豊氏のような人物が健在で、引き続いてこの「三角協力」に携わることになっている。本稿も同氏の論稿を参考にさせていただいた部分が多い。ブラジル側には、政府のバックアップのほかに、前述のCPACを傘下に持つ強力な中核組織である「ブラジル農牧公社(EMBRAPA)」の人材など、セラード協力で鍛えられた専門家が数多くいて、この事業に全面的に参加することになっている。

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世界最大の食料輸出国たるブラジルと世界最大の食料輸入国たる日本が組み、アフリカで農業共同事業を展開することになったと言えば、あるいは皮肉のように聞こえるかもしれないが、既述のように、これは偶然ではない。近年、勢いが衰えてきているとはいえ、日本は、(アフリカではTICADプロセスなどを通じて)ODAを中心とする国際協力では、着実で信頼できるパートナーとしての地位・名声を得ているので、ブラジルにとりそういう日本と組むメリットは大きい。日本にとっても農業大国ブラジルと組むことのメリットは大きいので、まさに双方にとり“win-win”である。
 加えて、二国間関係で言えば、ブラジルは世界最大の日系社会を擁し、大の親日国である。G20の一員、食料、エネルギー、鉱物資源の安定的な供給国でもある。国連安保理改革ではG4の一員として日本の仲間だ。ブラジルと組むことで、「地デジ・システム」は南米と一部の南部アフリカで日本システム導入に効果を挙げたことも記憶に新しい。代表的な新興国、マーケットとしても日本と世界にとり益々重要性を増す国、ダイナミズムにあふれた複合民族国家、そして民主体制を整えた国でもある。
 アフリカの地で日本とブラジルが農業分野で大型の連携協力を進めることは、日伯両国にとり新たな、大きな資産になるに違いない。世界の食料安全保障のためにも一石を投じることになれば、なお幸いである。   (会報5月号より転載)