宗教や過去の軽視からの脱皮(バチカンを通して日本を見る)

MrUeno.jpg

   杏林大学外国語学部客員教授・前駐バチカン大使 上野 景文

昨秋帰国するまでの4年間、バチカンに勤務している間に—と言っても、実態はと言えば、ローマ市にいたのだが—「見えるようになった」ことが幾つかある。特に、世界各国の事情を観察する際、宗教と言う「補助線」が有用な場合があることや、バチカンは「過去」に徹底的にこだわる処だと言うことを見出だして、新鮮に感じた。しかも、これらの点は、日本の現状に関し「このままで良いのか」と振り返る材料を提供してくれているようでもあるので、右の二点を取り上げ、そのインプリケーションを探ってみることとした。

1. 宗教から逃げるな
先ず、第1点–「補助線」の話—について。バチカンでの仕事を通じて、宗教や信仰という「補助線」を持ち出すことにより、世界各地の事情の理解が容易になる場合がある、或いは、それまで見えなかったものが見えてくる場合がある、と言う点が分かるようになった。然も、近年宗教の「復権」がグローバルに進む(注1)中で、宗教と言う補助線の有用性は当然のことながら、高まって来ている。
たとえば、バチカンとイランの間にはしっかりとしたパイプがあると言う、日本からは見えにくい意外な事実があるのだが、両国とも宗教が政治の上に立つ「宗教国家」であるという共通性を掴(つか)んでおきさえすれば、「さもありなん」ということになる。ジャスミン革命、ナイル革命後の中近東で、イスラムの「復権」がどこまで進むかを見極めないと、5-10年先の地域の姿は占えない。米国が「宗教国家」の顔を持つことは周知のことだが、その点を押さえておかないと、同国はすっきり理解できない。米国と比べると「世俗化」、どぎつく言えば、「脱キリスト教化」が進んだ西欧北部ですら、「宗教の気配」を感じさせることがある。といっても、「神無き信仰」の台頭の話だが。たとえば、自然を神聖視する「動物権」信仰の影響下、薬品開発実験に動物を使うことを規制する、或いは、家畜の屠殺法を規制するEU指令が次々と制定されている。同時に、動物権信仰の徒等は、反捕鯨キャンペーンを含め、あちこちで摩擦を生じている。これらは「宗教摩擦」だと位置付けないと、有効な対応策は立て難い。
「宗教の復権」がグローバルに進展しつつある中、日本がやがてその波をかぶることになることは必至なのだが、昨秋久方ぶりに戻った日本は、世界の潮流に無頓着であり、宗教は何と「部屋の片隅に追いやられている」風ではないか!! 内外のギャップは歴然。おまけに、学者であれ、ジャーナリストであれ、政治家、行政官であれ、この国では宗教に「触れよう」としない。露骨に言えば、「逃げている」。
クジラの問題を例にとろう。反捕鯨運動家は、「鯨を殺すことは正義に悖る(=不正義である)」と言う教理を掲げた信仰に突き動かされており、これにきちっと反論するためには、日本人の宗教・信仰の観点は絶対に避けては通れないのだが、現状はと言えば、その観点は素通りしている。昨年神戸新聞に書いたので、ここでは詳細には立ち入らないが、水産庁の役人に宗教論に踏み込むことを求めるのが無理であるのならば、せめて、宗教者、あるいは、宗教に詳しい人材が、国際的論戦に参画することが期待される(注2)。ということで、さる神社関係者に論戦への出馬を奨めてみたりもしたが、消極的反応しか得られていない。
宗教を避けんとする風潮に関連して、もう一点指摘しておく。大震災であれだけの犠牲者が出たのに、「国民全体が一丸となって、喪に服そう」との声はついぞ聞かれない。政府はもとより、学者、メディアからも。宗教的ニュアンスのあることは、誰も触れたがらないと言うことなのだろう。欧州であれ、北米であれ、今度のような悲劇があったら、「国民の総意として、一緒になって喪に服す」のが普通であり、自然だ。誰もそう言い出さないという事実そのものに、私は違和感を覚える。勿論、震災後多くの国民が自発的に哀悼の意を示し、また、「自粛」と言う形で、各層より連帯の意思が示された。それはそれで、極めて貴重なことだと思う。が、それだけでよいのだろうか。やはり、国民の総意であることを示すために、公的な形を整えて、つまり、「国家として弔う」ということがあって良いのではないか。その際、政府がイニシアチブをとるべきことは言うまでもない。救出、瓦礫撤去が一段落したところで、宗教色を含めなくても良いのだが、国民的な形で「喪に服して」はどうだろうか。

2. 「過去」へのこだわり
では第2点に移ろう。「過去へのこだわり」の話だ。欧州は、過去の否定の上に建国され米国とは異なり、おしなべて「過去」に強いこだわりを示す。中でも「過去」へのこだわりが強いのがバチカンだ。それを強く感じたのは、江戸時代初期に処刑されたキリシタン百八十八人をバチカンが長崎で顕彰(「列福」と言う)した三年前だ。日本人の感覚では、江戸時代初期は今日からは「完全に隔絶された世界」なのだが、彼らは「昨日のこと」のように扱っていた。
それだけにとどまらない。キリスト教はこの二千年間、五百年ごとに分裂を繰り返して来たが、バチカンは、二千年前に別れたユダヤ教とも、千五百年前別れた中東系正教とも、千年前別れたギリシャ・スラブ系正教とも、更には、五百年前別れた英国国教会とも、この五十年、関係を修復している。また、カトリック教会が依拠している典礼、しきたり、衣装などには、古代~中世から継承されて来ているものが少なくない。
つまり、バチカンにとっては、五百、千年はもとより、千五百年前ですら「過去」になりきっていないことがあると言うことだ。「過去」はしばしば「現在」として扱われる。「過去」にこだわるバチカン文化ほど、日本とのギャップを感じさせるものはない。何しろ、こっちは数十年前を「切り棄てる」ことすら逡巡しないのだから。
振り返ってみれば、近~現代を通じ、日本人の伝統・過去への眼差しは「冷ややか」なものであった。明治になると、江戸時代は「遅れていた」と言ってこれを切り棄て、戦後になると戦前は「暗黒だった」と切り棄てた。そのたびに、外来を中心とする新しいシンボルに飛びついた。だから、明治初期、日本人が見棄てた浮世絵は二束三文で手放され、海外に流出した。明治政府は、「なんば歩き」と言う旧来の歩行法すら切り棄てた。文部省は、明治以来つい数年前まで、学校教育の現場から邦楽を一貫して締め出して来た。だから、文部省唱歌はすべて「和製洋楽」だ。戦後も、「古い」の一言で切り棄てられた「過去」は少なくない。たとえば、半世紀前、新住居表示導入のため、古い町名を全国的に放逐するという文化的暴挙が敢行された。この結果、明治期、或いは、江戸期を対象とした小説のリアリティーが半減するところとなった。然も、さしたる反対や抵抗なしに。郵政当局だけでなく、国民の意識も「過去を棄てる」ことに躊躇がなかったということだ。
その点を改めて感じさせられたのは、震災前、古文書を紐解き、貞観津波など幾つもの事例から、巨大津波につき警鐘した学者がいたのに、原発専門家や担当する官僚は十分アテンションを払わなかったと聞いた時だ。ひとつには、既定の施策を大幅に改定させられることへの抵抗感がそうさせたということだろう。だが、それだけか。国民が総じて「過去に冷たい」という日本的状況、より正確に言えば、日本の文化的状況が、専門家の「心をも縛っていた」のではないか。だとすれば、問題の根は深い。そのような空気が充満する日本だから、千年前の地震のことを持ち出しても、実務家は、「そんな大昔の研究につきあっている暇はない。学者の間で議論を続けるのは構わないが。」と相手にしなかったのではないか。
「過去を棄てる」という日本のこれまでの生き様であるが、西洋的モダニズム導入のためには「仕方なかった」との弁明はあるのだろう。一般論としてはそうかもしれない。が、日本の場合度を越しており、「ほどほど」を遥かに超えている。勿論、何もかも「棄てず」に守り通すことは、全て「棄てる」のと同じくらい、愚かなことだ。要は、新たに取り入れた「現在」と、棄てずに堆積した「多様な過去」との間に見られる矛盾に耐えるだけの精神的強靭さを持つことだ。時間とともに、堆積した「多様な過去」の間で、習合作用が働き、新たなアイデンティティーが生まれるのだが、それまでの間、耐え忍ぶ「強さ」がなくてはならない。今の日本には、その強さが欠けている。何はともあれ、国民の多くが「棄てる」ことに「痛み」を感じない現状は文化的疾患というものだ。このたびの震災を奇貨として、「過去軽視」の生き様を改めることを呼びかけたい。何もバチカン並みを求めるつもりはないが、「過去に敬意を払う文化」への転換は不可欠だ。

3. まとめ
以上お示しした二つの見解を読者はどう受け止められたであろうか。中には、「筆者はバチカンにかぶれやがって」と反発された方もおられよう。念のために付け加えるが、私は、バチカンの真似をせよと言っている訳ではない。ただ、バチカンから観察した「世界の潮流」に照らすなら、日本はかけ離れていると言う事実をお伝えしたかっただけだ。陳腐なレトリックを使えば、宗教面でも日本は「ガラパゴス化」の危険があると言うことでもある。そう、「宗教」及び「過去」に「正当な地位」を与えることが、まずもって必要だ(注3)。

(注1) 拙文 「『宗教復権』潮流直視を」 (讀賣新聞、2011年1月25日)
(注2) 拙文 「反『反捕鯨』論を深めるには」(神戸新聞、2010年8月23日)
(注3) 拙著 「バチカンの聖と俗 :日本大使の一四〇〇日」(かまくら春秋社) 

                      (2011年7月19日寄稿)