日韓交流を考える

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前駐大韓民国大使 重家俊範

昨年の夏、約3年の勤務を終え、韓国から帰国した。日韓関係は、種々の問題を抱えながらも、着実に前進している。

日韓の往来も、経済の停滞や為替レートなどの影響を受けて、年によって増減はあるが、年間500万人近い人々が往来するようになってきた。単純計算しても、1日1万5千人近い人々が往来していることになる。羽田、金浦の間は、今や、毎日24便が飛行する。若者たちの交流も増大している。特に日韓経済協会が中心になって2004年から実施している日韓高校生交流キャンプは、素晴らしいプロジェクトだ。これに参加した学生たちは、最後は抱き合い涙ながらにわかれるという。また、参加者の感想文の中で、若者たちは、生身で見た日本人、韓国人は、それまでに聞いてきた日本人、韓国人とは違うものだったと異口同音に書いている。若者たちは、先入観なしに、お互いを理解している。相互理解が前進していることは間違いない。

これまでの日韓交流史の中で、韓国の人々によって最も前向きに評価されているのが、江戸時代の朝鮮通信使の派遣である。1607年の派遣を含め計12回の朝鮮通信使が日本に派遣された。朝鮮通信使一行は、九州から瀬戸内海を海上移動し、各地で逗留し、交流した。その後は、陸路、江戸に向け移動した。

>2007年、韓国に勤務することになった時、知人の勧めによって、広島県呉市の東方にある下蒲刈島を訪ねた。かつて朝鮮通信使が常宿とした島である。当時、下蒲刈島の三之瀬は瀬戸内海でも潮待の港として栄え、琉球使節などもここを経由して江戸に向かっていた。

安芸灘大橋を渡り、数分走ると島の中心である三之瀬に入る。狭い商店街を通り抜けると、立派な石組みで作られた長雁木(階段状の船着場)に着く。海が手の届くような近くにある。船着場の真前に御本陣の跡がある。御本陣は、一行の案内役を務めていた対馬藩の宿所だった。その横から、古い石畳の小道が、民家の間を縫って、山の傾斜を登っている。その小道を上ると、使節団の宿所となった「上の茶屋」につくが、残念ながら、今は何も残っていない。それでも古い石畳は、通信使一行が船着場で大歓迎の式典を終え、列を成して宿所に登って行く風景を彷彿とさせるに十分である。

広島藩は通信使一行(正使他、儒学、音楽、医者など文化の素養のある人を多く含む500名に上る大使節団だった)を歓待するため、一行の嗜好を事前に調査するなど入念な準備をしたという。通信使接遇の経験のあった上関(山口県)などにわざわざ人を派遣して調査をしたりした。また、一行の荷物運搬のため、小船135隻を海田、仁方など近隣の村々から調達したとの記録も残っている。水の確保も大問題で、三之瀬の井戸だけでは足りず、広島や三原の城の井戸水を調達するため水船100隻を準備したそうだ。

広島藩は、特別のご馳走で一行をもてなした。このことは、通信使の一行の記録にも、「安芸蒲刈ご馳走一番」と記されている。

土地の人々にとって、異国の代表団を迎えるのは一大行事だったことは想像に難くない。次のような法度が出されたというから面白い。「通信使の船が通るときはその船を優先すること。彼らの風習が異なっていてもそれをとがめてはいけない。気まま、心ままは我慢しとにかくもめごとをおこさぬこと。海上から見える家はきれいにしておくこと。道路もよく掃除しておくこと。通信使を見物することは禁止、特に上陸のときは厳禁する。一行に「筆のもの」、「手跡」(書とサイン)などを求めてはいけない。」2007年は、朝鮮通信使の4百周年の年だった。同年10月に開催した「日韓交流お祭り2007In Seoul」では、朝鮮通信使の行列を再現した。

かつて、東アジアは、多くの文化の往来があった地域である。奈良時代然り、室町時代然りである。奈良時代は東アジア文化交流の一つの黄金時代だったのではないだろうか(中国のシステムの下での交流時代だったとの指摘はあるかもしれないが)。東アジアは、今や再び、緊密な交流を通じて、大きなコミュニティーを形成しつつある。東アジアが、何よりも世界の他の地域とのリンクも大事にしながら、そして、未来に向かって、一層繁栄する平和なコミュニティーに大きく発展することを願うばかりである。

(寄稿日 2011年6月23日)