「人間の安全保障」の発展 (前編)

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上田 秀明  前駐オーストラリア大使

 「人間の安全保障」は、近年総理や外相の演説で日本外交の主要な柱の一つとして
たびたび言及されている。ODA大綱の基本方針に謳われて、「人間の安全保障・草の根
無償協力」が実施されており、国連では2005年の首脳会議の宣言に明記され、日本の拠出による「人間の安全保障基金」が活用されている。

 日本だけでも、「人間の安全保障」のタイトルを付した学術書が何十冊と出版されており、大学や大学院の科目となっている。しかしながら、いまだに人口に膾炙したとまでは
言えず、「一体、人間の安全保障とは何だ?」との疑問や「人間の安全保障を唱えることは、さなきだに脆弱なわが国における国家安全保障をめぐる議論をゆがめるのではないか?」との疑念を有す人も少なくない。筆者は、人間の安全保障をわが国外交政策の柱の一本とした当時(1998年-2000年)に国際社会協力部長として少なからずかかわったので、この間の背景、経緯、その後の展開についてまとめて、参考に供することとしたい。

1. 人間の安全保障の考え方が出てきた背景

  • (1) 日本の外務省は、ODA中期政策で、「人間の安全保障」は、一人一人の人間を中心に据えて、脅威にさらされ得る、あるいは現に脅威の下にある個人及び地域社会の保護と能力強化を通じ、各人が尊厳ある生命を全うできるような社会づくりを目指す考え方である。具体的には、紛争、テロ、犯罪、人権侵害、難民の発生、感染症の蔓延、環境破壊、経済危機、災害といった「恐怖」や、貧困、飢餓、教育・保健医療サービスの欠如などの「欠乏」といった脅威から個人を保護し、また、脅威に対処するために人々が自らのために選択・行動する能力を強化することである。」(ODA中期政策、2005年2月4日)と説明している。
  • (2) このような考え方が出てきた背景としては、1990年代の初めころから
  • 世界各地で民族問題をはじめとするさまざまな紛争が顕在化し、武力
  • 紛争や騒動が発生し、多くの住民が殺傷され、難民となるなど悲惨な事例が多発したことがある。冷戦の終結により、米ソ両大国による各陣営の締め付けが解消したことから、蓋をされていた問題が顕在化したことや資源をめぐる利権争いが原因であろう。特に、東側では、マルクス・レーニン主義の「民族人種の平等、民族対立の解消」という建前の欺瞞が暴露され、虐げられていた少数民族に開放感と民族的アイデンティティの高揚がみられた。ソ連邦の解体により、バルト諸国、ウクライナ、白ロシア、モルドヴァ、コーカサス諸国、中央アジア諸国が独立したが、他方でロシア連邦内の諸民族の独立は認められず、コーカサスの少数民族には不満が残り、チェチェン紛争となっていく。
  • また、チトーの死後も何とか統一を保ってきたユーゴスラヴィア連邦では
  • 皮肉なことにソ連の崩壊で「敵」を見失い、連邦はばらばらになり、クロアチア、 ボスニア・ヘルツェゴビナ、コソボと各地でセルビア系と各民族が互いに入り乱れて悲惨な戦闘を続ける始末となった。
  •   アフリカではエチオピア、アンゴラなど社会主義政権の崩壊かおり、また資源をめぐる利権争いも絡んで、ソマリア、エリトリア、アンゴラ、ルワンダ、コンゴ、シェラレオネなど各地で紛争・民族対立が激化した。アジアでは、東チモールの独立運動が再燃した。中東では、イラクによるクウェート侵攻が起こり、湾岸戦争が戦われた。 これらの紛争により、一般市民、特に女性や子供が犠牲者となり、大量の難民、避難民が発生し、「民族浄化」というおぞましい事例までが起った。しかもこのような悲惨な状況がCNNやBBCの報道により世界中の人々の目に連日飛び込
  • んでくる事態となった。

  • (3) 冷戦の終焉は、また世界単一市場への動きを促し、情報革命を一層進行させ、グローバリゼーションという大きなうねりを加速した。これにより、世界各地で経済発展が加速され、数億人の人々が恩恵を受けることになったが、同時にこのプロセスに乗り切れなかったり、取り残される人々も出現した。
  •  ボーダレス経済が進めば、経済危機が瞬時に国境を超える危険性も増大した。
  • 1997、98年のアジア経済危機に際して、インドネシア、タイなどではソーシャル・セーフテイ・ネットが来整備であったため、職を失ったり、市場からはじき出された人々が困難に直面することになった。経済が発展すれば格差も生じ、隣の芝が青く見える心理になりがちで、経済・社会体制への不満が鬱積することにもなる。
  •  さらにヒト・モノ・カネが国境を越えて迅速に移動する裏で、不法な動きも活発化し、麻薬取引、人身売買、武器の密輸、マネー・ロンダリング、コンピューター犯罪など国際組織犯罪が横行した。国際テロ活動も各地で目立つようになり、各国は対策に苦慮する。 また、AIDs/HIVの蔓延に加えて、新型インフルエンザなどの新たな感染症の危険が現実のものとなり、人類は、SARS対応に追われた。
  •   地球規模の環境問題がますます深刻化しており、とりわけ温暖化対応が喫緊の課題となってきた。
  •   これらの脅威は、いわばグローバリゼーションの影の部分ともいうべき課題で、
  • 放置しておけばやがて人間社会を根底から覆しかねない問題であるのだが、従
  • 来の国家安全保障の課題とは必ずしも一致せず、また既存の軍事力を中心とす
  • る安全保障の対処では対応できない。また、これらの1 題は国境を超えて地
  • 球規模での対応を必要としており、一国だけでは対処しきれないものが多い。
  • そこで従来の安全保障の方法ではない新たなアプローチが必要ではないかとの疑問が出てきたのである。

2. UNDPの人間開発報告書

  新しいアプローチのロ火を切ったのはUNDPである。例年発出してきた人間開発報告
書の94年版で、「人間の安全保障という新しい考え方」が必要だとして、「原爆投下か
ら50年たった今、「私達は、あらためて考え方を根底から変える必要に迫られている。
核の安全保障から「人間の安全保障」へと頭をきりかえなくてはならない……冷戦の
ため、安心して日常生活を送りたいという普通の人々に対する正当な配慮はなおざり
にされてきた。
多くの人にとって安全とは、病気や飢餓、失業、犯罪、社会の軋轢、政治的弾圧、環境災害などの脅威から守られることを意味している。人間の安全保障は武器へ関心を向けることではなく人間の生活や尊厳にかかわることである。人間の安全保障という考え方は単純ではあるが、21世紀の社会に大変革をもたらすカギとなるのではないか。」と提起した。

  その際、基本概念を考察するにあたっての四つの特徴として、世界共通の問題、相互依存の関係、早期予防の有効性、人間中心・人々の自立重視を挙げた。その構成要
素として、国連憲章にいうところの「恐怖からの自由と欠乏からの自由」を指摘し、前者が重視されがちだったが、後者も考慮されるべきであり、「いまこそ国家の安全保障という狭義の概念から、人間の安全保障という包括的な概念に移行すべき時である。」として、領土偏重の安全保障から人間を重視した安全保障へ、すなわち軍備による安全保障から「持続可能な人間開発」による安全保障へ切り替えるように主張した。
  UNDPは、この考え方を1995年のデンマークでの社会開発サミットで採択さ際文書
の基礎とすることを企図したが、サミットで言及はあったもののこの段階ではまだ大きな支持は得られなかった。これは新しいアプローチの提案であったが、経済開発の専門家集団の理想論として扱われた嫌いあり、他方で途上国は自らの「発展の権利」を重視し、いかなるアプローチにせよ、世銀グループや国連ファミリーの勧めを「内政干渉」ととる傾向あったためである。

3. 日本の人間の安全保障政策

  • (1) UNDPの提案に対して日本は否定的ではなく、村山総理はデンマークでの
  • 演説で、「人にやさしい社会」の創造を目指すとし、「人間優先の社会開発を重視すべきである」と述べている。また、1997年の国連環境開発特別総会で、橋本総理は、地球環境問題に取り組むに当たって、「将来の世代に対する責任」と「人類の安全保障」の二つの観点を強調した。
  • しかしながら、人間の安全保障を日本外交の中心にすえていったのは、なんと いっても小淵外相(のち総理)である。小淵外相のリーダーシップで1997年の対人地雷禁止条約に防衛当局や米軍の懸念を押し切って日本も加わったとされているが、そのころアジアを経済危機がおそい、上述のように各国で弱者が困難に直面していた。1998年5月、小渕外相はシンガポールで演説し、社会的弱者に対する思いやり、人間中心の対応が重要であるとうったえた。総理に就任後の1998年12月2日、「アジアの明日を創る知的対話」で人間の安全保障をテーマにスピーチをし、「人間の安全保障の観点に立って社会的弱者に配慮しつつ、アジア経済危機に対処することが必要であり、この地域の長期的発展のためには人間の安全保障を重視した新しい経済発展の戦略を考えていかなければならない。」と述べた。 続いて、同年12月16日、ハノイでの政策スピーチ「アジアの明るい未来の創
  • 造に向けて」において、アジアにおける平和と安定、主要国間の協調関係を基盤として努力すべき分野の一つに人間の安全保障を重視するとして、「人間の安全保障基金」を国連に設置するために5億円の拠出を表明した。さらに1999年1月、施政方針演説において「人間の安全保障について内外政全般にわたる日本の責務」であると述べた。
  •  この後、小渕総理は、韓国や米国での政策演説において、またアイスランドで
  • の日北欧首脳会談においても人間の安全保障に言及し、1999年12月、国際問
  • 題研究所40周年記念シンポジウムでもこの取り組みを推進する旨述べた。
  •   小淵総理のこのような取り組みの背景には、ご自身の考え方が反映されていることはいうまでもないが、そのサポートとして、東海大学教授でもあった武見
  • 外務政務次官の貢献がある。同次官は人間の安全保障にいち早く注目し、東海
  • 大学平和安全保障研究所においてはこれをさまざまな角度から研究しており、
  • これをふまえて政務次官から小淵大臣に具申されたものとみられる。
  • (2) 筆者は、1998年の1月に国際社会協力部長に就任したが、国連を中心に国連予算や人権、難民、国際組織犯罪、気候変動などの環境問題、はたまたILO、ITOの専門機関などと大変間口の広い所掌事務に戸惑い、互いに関連のなさそうな個々バラバラの案件の処理に追われる日々を送ることになった。これらの案件に取り組むにあたっての何らかの統一されたアプローチというか定まった視点のようなものが必要ではないかと考え、部内で種々議論した際に、赤阪審議官(現国連事務次長)がUNDPのとなえる「ヒューマン・セキュリテイ」を紹介してくれた。
  • これを人間の安全保障と訳し、部内の各分野を貫く横串としてみたところ、足元
  • がしっかりする感じを得た。もちろん、過度の単純化はできないが、人間の安全
  • 保障を表看板にして日本のマルチ外交を進めていけるとの考えにいたった。そう
  • こうしている時に、武見次官のアイデアにそって準備されている小淵大臣のシン
  • ガポール演説の中味を知ることになったので、政務次官室にとびこみ、まさに事
  • 務方で人間の安全保障で行こうとしているところですと申し上げたら、政務次官
  • もおおいにやろうということになったのである。
  • 山本正氏が大臣スピーチの準備に携わったと知り、すぐに同氏とも連絡を取るな
  • どして、ここに人間の安全保障を推進するリーダーシップと実働部隊が整ったの
  • である。そこで、国連代表部の小和田大使(後に佐藤大使)にご相談し、有益な
  • 示唆を得るとともに、省内でこの考え方への支持を得ることに勤めた。実のとこ
  • ろ、これには相当苦労した。
  •  伝統的な安全保障を担当する部署からは、当然のことながら「あいまいでよく
  • 分からない」、「国家安全保障に替わるものなのか?」、「脅威にいかに対処するのか」などなどさまざま疑問、疑念が出された。これらの指摘に対して部内でもさ
  • らに、議論を進め、加藤総合外交政策局長(後に竹内局長)、大島(賢)経済協力
  • 局長ほかの理解と支援を得て、省内で人間の安全保障について理解が広がっていった。そして政策ペーパーや対外的に発表する論文を準備していく過程でこの考え方が徐々に精緻なものとなっていったのである。
  • (3) 日本の考え方として、これらのさまざまな脅威に対処するには、個人としての
  • 人間に重きを置き、自由と可能性を確保することを目指す人間の安全保障の考え
  • 方が有効である一対応は一国では困難であり、国際社会の様々な主体(国家、国際機関、NGO)の協力が必要であるI新たなルールや協力体制を創設するた
  • めの国際合意の形成が必要である:途上国に対しての人間の安全保障の考え方に基づく協力を行う必要かおり一対象はUNDPのアプローチである開発にとどめず、広範な新しい脅威を視野にいれていくべきである、ことなどの点がまとめられてきた。また、国家安全保障との関係では、人間の安全保障は国家安全保障に替わるものではなく、国家安全保障の基礎の上に実現されるものであるとして整理された。
  •   これらの考え方にたって、上述の小淵総理のハノイ演説において日本の政策として人間の安全保障が打ち出されていったのである。小淵外相の後任の高村外相は、人間の安全保障の考え方に早くから賛同され、外交演説および国運総会の一般演説で言及するとともに、ケルンーサミット外相会議の議長総括文章に含めることに成功された。
  •   このように、人間の安全保障は優れて政策論として展開されていったわけで、理論的に未成熟であったのは否めないが、日本がこれを推進することにより、日本外交の幅を広げ、国際場裡でリーダーシップをとることにつながるとの思惑があ
  • ったのである。
  •   2000年春に小淵総理が急逝されたが、続く森総理、小泉総理も引き続き人間の安全保障を推進された。
  • ちなみに、人間の安全保障を推進する体制が整うなかで、アジア大洋州、アフ
  • リカ中近東、中南米の各大使会議の際に、本省側から説明し、各大使に任地での
  • 推進を依頼した。省内での議論と同様の疑問が多く出されたが、1年目の会議では疑義を表明されたアフリカ駐在の某大使が翌年の会議では「人間の安全保障は良いアプローチだ。」と熱心な推進派になっていただいたのは心強かった。

4. 人間の安全保障基金と草の根・人間の安全保障無償

  • (1) 日本のODAはかねてよりベシック・ヒューマン・ニーズと人材育成を重視してきており、人間の安全保障を人間の安全保障の考え方を導入することにより、さらに方向が定まると考えられた。その具体的ツールとして、いわゆるマルチの協力で、国連に「人間の安全保障基金」を設けることとし、九八年秋の補正予算で5億円が計上された。これは、川田国連行政課長(現東京都儀典長のアイデアに基づくもので、国連の諸機関が(場合により、各国やNGOとの共で)実施するプロジェクトで人間の安全保障の考え方に沿う案件を推進しようというもので、実態上日本の意向にそって支出されることになっている。小淵総理は、上述のようにこの基金への拠出についてハノイで表明したのである。1999年の最初の案件は、タイにおけるコミュニテイ・ベースの社会的弱者とタジキスタンにおける医療従事者の能力強化の二案件で、さらに追加でコソボの初等教育支援を行った。その後日本は累次にわたり追加し続け、2008年までに373億円を拠出しており、プロジェクトは190に上っている。一方いわゆるバイの人間の安全保障の協力として、99年当時は、アジア経済危機の中でソーシヤル・セーフティ・ネットが不十分なために困難に直面していた経済的・社会的弱者を救済するために、インドネシアヘの緊急無償40億円などを行った。
  • (2) 1999年8月に改訂されたODA中期政策では、基本的な考え方の5.で「人間中心の考え方に基づき、後発開発途上国(LLDC)に特に配慮する。 更に、環境の悪化や飢餓、薬物、組織犯罪、感染症、人権侵害、地域紛争、対人地雷といった種々の脅威から人間を守る「人間の安全保障」の視点に十分留意していく。」とされ、人間の安全保障が重要な柱とされた。
  •   続いて改訂されたODA大綱においては、人間の安全保障がさらに重視された
  • (2003年8月29日閣議決定)。すなわち、基本方針の(2)、「人間の安全保障」の視
  • 点では、「紛争・災害や感染症など、人間に対する直接的な脅威に対処するためには、グローバルな視点や地域・国レベルの視点とともに、個々の人間に着目した「人間の安全保障」の視点で考えることが重要である。このため、我が国は、人づくりを通じた地域社会の能力強化に向けたODAを実施する。また、紛争時より復興・開発に至るあらゆる段階において、尊厳ある人生を可能ならしめるよう、個人の保護と能力強化のための協力を行う」と謳われた。
  •   さらに、新しいODA中期政策(2005年2月4日)で、「人間の安全保障」の考え
  • 方が冒頭1、のように定義され、「(ハ)我が国としては、人々や地域社会、国が直面する脆弱性を軽減するため、「人間の安全保障」の視点を踏まえながら、「貧困削減」、「持続的成長」。「地球的規模の問題への取組」、「平和の構築」という4つの重点課題への取組を行うこととする。」とされた。そして、「人間の安全保障」の実現に向けた援助のアプローチとして、「人間の安全保障」は開発援助全体にわたって踏まえるべき視点であり、(イ)人々を中心に据え、人々に確実に届く援助、(ロ)地域社会を強化する援助、(ハ)人々の能力強化を重視する援助、(ニ)脅威にさらされている人々への稗益を重視する援助、(ホ)文化の多様性を尊重する援助、(ヘ)様々な専門的知識を活用した分野横断的な援助、が重要であるとされた。
  • このようにして、人間の安全保障は、日本の国際協力の太い柱の一本となり、草
  • の根無償資金協力のスキームが人間の安全保障・草の根無償資金協力のスキームに発展的に拡充され、現在では年額150億円の規模で様々なプロジェクトが展開されるにいたったのである。JICAが人間の安全保障にことのほか熱心に取り組んでいるのは心強いところである。         (以下後編に続く)