平成21年8月末の衆議院総選挙に係る選挙無効請求事件について
元外務省外務審議官、元最高裁判所判事、現在弁護士 福田 博 氏
3月23日最高裁判所は、一昨年8月に行われた総選挙のうち選挙区制で行われた部分については違憲状態にあるとの判決を下した。判決言い渡しの際、裁判長(最高裁長官)が口頭で述べたところによれば、投票価値の平等に関する判決理由の骨子は、「本件選挙当時において、いわゆる区画審設置法3条2項の一人別枠方式に係る部分は、憲法の投票価値の平等の要求に反する状態に至っており、この基準に従って改正された公職選挙法に定める選挙区割りも、憲法の投票価値の平等の要求に反する状態に至っていた。(中略)。衆議院議員選挙における投票価値の平等の要請に鑑み、事柄の性質上必要とされる是正のための合理的期間内に、できるだけ速やかに一人別枠方式を廃止し、区割り規定を改正するなど、その要請にかなう立法的措置を講ずる必要があるところである。」という内容である。
裁判所の用語はなかなか難解であるが、要するに、衆議院議員の選挙区選挙において小選挙区制が導入された際、あわせて導入されたいわゆる「一人別枠方式」(注:都道府県にあらかじめ議員定数を1議席ずつ配分し、残余の議席数を都道府県の有権者数に応じて配分する方法。結果として有権者人口の少ない県の有権者の投票価値が高く評価される。平成6年の公職選挙法改正で導入され、平成8年の総選挙から実施された。)は、憲法の定める投票価値の平等を損なう違憲状態をもたらしているので、出来るだけ早く「一人別枠方式」を使わない選挙区割りに改め、総選挙を行えというのが今回の判決である。
「違憲状態」という考えに賛成した裁判官は15名中12名、それより厳しく「違憲」と決めつけているのが2名、「国会の裁量の範囲内の問題」であるから憲法違反の問題は無いという裁判官が1名という構成からすると、実質14対1の圧倒的多数の意見でもあり、最高裁のこのような考え方が近い将来変わるとは思えないように見える。その意味では、従来の考え方からの大転換である。しかし、この判決で、民主主義制度の基本である「投票価値の平等」をめぐる問題は全て解決されたのかということになると、かなり問題は残っているというのが私の感想である。
投票価値の平等の問題についてはこれまで最高裁判所は常に「国会の広い裁量」の存在を前提とする判決を出し続けてきた。現に、今回違憲状態という判決を出す前にも、最高裁は「一人別枠方式」を合憲とする大法廷判決を3回出している。前回の大法廷による合憲判決からまだ丸4年も経っていない。そうであるにも拘わらず、今回、それを違憲状態にあるというためには、何か新しい理由が無ければならない。判決文を読むと、「憲法は・・投票価値の平等を要求している・・。しかし、(それは)選挙制度の仕組みを決定する絶対の基準ではなく、国会が正当に考慮することができる他の政策的目的ないし理由との関連において調和的に実現されるべきものであり、国会・・の裁量権の行使として合理性を有するものである限り、(それ)が一定の限度で譲歩を求められることになっても、やむを得ない・・。(中略)一人別枠方式の意義については・・我が国の選挙制度の歴史、とりわけ人口の変動に伴う定数の削減が著しく困難であったという経緯に照らすと、(小選挙区制度)を導入するに当たり、直ちに人口比例のみに基づいて各都道府県への定数の配分を行った場合には、人口の少ない県における定数が急激かつ大幅に削減されることになるため、国政(の)安定性、連続性の・・必要、・・この点への配慮(がないと)選挙制度の改革(注:小選挙区制度の導入)自体が困難であった・・状況下で採られた方策である・・」という長い前置きの後、「そうであるとすれば、一人別枠方式は、おのずからその合理性に時間的な限界があ・・り、新しい選挙制度が定着し,安定した運用がされるようになった段階においては、その合理性は失われるものというほかはない。・・・加えて、本件選挙区割りの下で生じていた選挙区間の投票価値の格差・・が2倍以上の選挙区の数も増加し・・ており、一人別枠方式が・・その主要な要因・・であ・・る。そうすると、・・一人別枠方式は・・立法時の合理性を失(って)おり、それ自体憲法の投票価値の平等の要求に反する状態に至ってい(るのみならず)、本件選挙区割り・・も、その・・方式を含む区割り基準に基づいて定められている以上、これもまた、憲法の投票価値の平等の要求に反する状態にいたものというべきである。・・」と書いてある。
平たく言うと、いわゆる一人別枠方式に基づく選挙区割りは、導入当初にあっては、国会の裁量権を梃子に、何とか合理性があるという説明が出来たが、投票価値の平等の関係で見ると今や、許される「有用期限」を過ぎてしまったので、違憲状態になっているというのが、今回の判決を支える理由である。これまで合憲と言い続けたのでいきなり違憲と言うことも言い難いが、大分時間も経ったので事情が変わったという理屈をつけて、今や「違憲状態」になったと言う論法を使えば、過去の最高裁における度重なる合憲判決も正当化できるし、国会や選挙制度審議会の顔もつぶさないで済むというわけである。
私は、平成7年9月から平成17年8月まで10年間最高裁判事として奉職し、その間機会あるごとに代表民主制にあっては投票価値の平等がきわめて重要であるという意見を表明してきたが、率直に言うと一顧だにされなかった。どこかに書いたこともあるが、そのような意見を書くことについて明らかに妨害を試みる担当調査官もいた。定年退官後、知ったことであるが、かって「ミスター最高裁」と呼ばれ今日の最高裁判所を形作った故矢口洪一最高裁長官(平成18年逝去)は、最高裁が違憲審査権の行使(憲法81条に明文で定められている。)に消極的過ぎるのではないかという質問(明らかに投票価値の平等に関連して発せられた質問である。)に対し、「二流官庁がいきなりそんな権限をもらっても出来やしないです。」と答えた記録があることを知るにいたり、「そうか、僕は10年間、二流官庁で働いていたのか」、「憲法に定められた職責を果たさないのは、公務員の職務怠慢に当たるのではないか」、という感慨を持ったことを今日でも昨日のことのように思い出す(注:ちなみにこの発言記録は政策大学院大学のオラルヒストリーシリーズにあり、閲覧出来る。)。我が国の司法は長年にわたりドイツ司法から強い影響を受けているが、今のドイツには通常の裁判所とは別に憲法裁判所が存在し、ドイツの民主主義体制を維持する上で大きな力を果たしている。矢口さんの発言を知ってからは私は、日本にも通常の司法とは別に独立した憲法裁判所を作るべきだと明確に思うようになった。今回の判決は、我が国の最高裁判所にとって確かに大きな転換といえるかも知れないが、この私の考えは変わらない。
どうしてそう思うのか?理由は簡単である。判決を子細に読むと、代表民主制において投票価値の平等がいかに基本的に重要かという認識が未だ基本的に希薄であるように見えるからである。最高裁判所から違憲審査権が無くなれば(勿論そのためには、憲法改正が必要であり、実現までには大分時間がかかる。)、それは憲法裁判所の下位に位置づけられ、名実ともに二流官庁になるであろう。10年間もそこで働いた一員としては残念にも思う。しかし、我が国の民主主義体制の将来を思うと、やむを得ない。
民主主義体制とは突き詰めていくと、国民の多数決で決める制度であるということが出来る。議員を選挙するときも、議員が法案や予算を決めるときも多数決で決めるのである。何が多数か?投票価値が平等でないと何が多数かは分からない筈である。民主主義体制を標榜するのであれば、投票価値の平等は全てのことに先立つ大前提である。しかしこれまでの最高裁判決には、今回の判決を含めその基本的認識がない。あってもきわめて希薄である。若干具体的に見てみよう。
今回の判決理由を見ると、第一に気になる点は、憲法の求める投票価値の平等は、国会の考慮する政策的目的理由と調和的に実現されるもので国会の裁量権との関係で一定の譲歩を迫られることもやむを得ないという考え方が依然として底流にあるということである。何でも合憲という結論を導き出すために、「国会の広い裁量権」を振りかざしてきたこれまでの判決と比較すると、大分ましな書き方になっているとも云えるが、本質は変わらない。同じことは、いわゆる「一人別枠制」は、導入当初は憲法上許される範囲のものであったが、もはや違憲状態になったとの下りについても云える。前回の大法廷判決(一人別枠制を合憲とした。)から丸4年も経っていない。これまでの大法廷判決を正当化しつつ判決の方向を大きく変えるための苦肉の策かもしれないが、基本的な考え方を変更するときには、率直に「改める」と言った方が良い。(過去の判例を全て無視するという方法もあるかも知れないが、中々そこまでは踏み切れないであろう。しかし、過去の大法廷判決を見ても判例変更は理論的に可能であり、その実例もある。)匙加減的な理屈で方向を修正しようとするのは、「法解釈の安定」、「法の支配」といった概念そのものを損なう可能性無しとしない。「国会の裁量」というとき、その国会は時の選挙法、選挙区割りで当選してきた議員で占められており、基本的に自分たちの当選に有利な選挙法や選挙区割りを変えたいとは思わない。そういう問題について是正を迫る権能を持つのは我が国では憲法81条で違憲審査権を与えられている司法のみである。いわば利害関係の当事者(利益集団)で占められている国会に解決方法を「丸投げ」して、自分たちの責任は果たしているというのがこれまでの最高裁判決であるから、正しい方向にようやく第一歩を踏み出すときは、妙に過去を正当化しない方が良い。余談ではあるが、この点について参考になる一冊の本がある。故ジョン・H・イリー ハーヴァート大学教授の著作「デモクラシー・アンド・ディストラスト」(1980年刊)がそれで、民主主義体制の中でどうして選挙で選ばれてもいない最高裁判所が違憲審査権を持つのだろうということを探求した名著である(注:米国の連邦最高裁判所は判例法によって違憲審査権を獲得しており、これにチャレンジするものはいない)。米国の法科大学院の学生であれば、憲法を勉強するときには必ず目を通すと言われている。邦訳もあるが、ディストラスト(不信)の部分が「司法審査」と訳されていて、原タイトルの持つ意味が大きく薄められている。この本を読むと、国会といえども全国民を代表する議員が投票価値の平等を軽視し続けることは許されず、その是正の役割が司法にあることがよく分かる。
もう一点気になる点を上げて見よう。今回の判決理由を通読して感ずることは、総選挙の選挙区選挙においては、選挙区割りの基本を都道府県に求め、かつ、「格差」(裁判用語では較差という。)2倍未満なら合憲であると言うことが暗黙の理解になっているように見える点である。これまでの最高裁判決では選挙区選挙にあっては、衆議院議員は3倍までの格差、参議院議員は6倍までの格差は合憲という判決を出し続けてきた。今回の判決以降は衆議院については格差2倍未満であれば合憲であるという判決が出ることになりそうである。都道府県という行政区画(総務大臣の認可があれば、県境を変えることが出来る。近年、その実例もある。そもそも、地方自治法第6条で都道府県そのものの存廃も法律で決めることが出来る。)を選挙区割りの基礎にすることにも、これまで通り違和感を感じないようである。民主主義体制の国で、一番重要な有権者の投票価値をこのような気楽なやり方で決める国は中々いない。
投票価値の平等という命題にアプローチするのに「格差」という算定方法を採用する国が他にあるかどうか、私は寡聞にして知らない。この方法は、最小の有権者数の選挙区と最大の有権者数の選挙区を比較してその倍率を出して選挙の時に投票価値の平等が担保されているかどうかを決めようとする。いわば、外側から問題にアプローチしようとする方式で、外縁的アプローチとでも云えるかも知れない。そこから、3倍(衆議院議員)6倍(参議院議員)以内であれば合憲といった妙な判決がまかり通ることになる。理論的には説明不能で、私は、あるとき、ラーメン屋の親父(最高裁判所)が塩加減をみて「これはラーメンのつゆ」(合憲)、「これは漬け物汁」(違憲)というようなものだと言ったことがある。要するに投票価値の平等という重要な問題は,我が国の裁判所にあっては匙加減の問題に帰着することになる。我が国で独自の発展を遂げた手法である。他の国にあっては、有権者の総数を選挙区の数で割って平均の有権者数を算出し、そこからの乖離が各選挙区においてどれだけ存在するかという尺度で投票価値の平等を実現しようとする。米国を例に取ると、連邦制の国であるから投票価値の平等の実現は中々難しいのでは無いかと思われるかも知れないがこれを厳密に実行している。それを支えるのは1960年代前半に下された幾つかの連邦最高裁判決で、「投票権は民主主義社会の基本的地位を占めるものでその価値を薄めることは許されない、投票価値の平等は全ての市民を代表する公正な選挙を行うための必須の条件である」との考え方を鮮明に打ち出している。私が米国連邦最高裁判事(今でも現職である。)から直接聞いたところでは、現実に誤差の範囲(平均からの乖離は最大で4%未満ではないかと述べていた。)を超えたら必ず直さなければならないということを聞いたことがある(ちなみに、乖離4%を格差の計算方式で引き直すと1.08倍になる。)。今回の判決によっても、憲法判断は格差2倍未満か否かの問題に留まるのではないかという疑念が残る我が国とは大差がある。米国の話をもう一寸続けると、選挙区割りは国勢調査を10年に一回行いその結果を反映させる。昨年4月に行われた国政調査の結果は本年1月からの区割りに反映された。これでも現職の有力議員に有利な選挙区割りを行うことまでは防ぐことは出来ない。いわゆるゲリマンダリングというやり方で、投票価値の平等を厳守しつつ支持者の多いところをつなぎ合わせる方法である。今回の選挙区割り改正でどうなったかは知らないが、昨年までのイリノイ州第17選挙区はまさにその典型の一つであった。飛び地は許されないのでつなぎ合わせた選挙区の格好は「スケートボードに乗るウサギ」という名前がついた。今までのところ、ゲリマンダリングまでは米国司法の手が届かない。地位の保全に知恵を絞る議員はどこの国にもいるのである。我が国では、都市部と地方の格差是正の美名の下に現職議員の地位保全が公然と続けられている。
いずれにせよ、格差というアプローチでは基本的な投票価値の平等実現は極めて難しい。今回の大法廷判決後も問題が色々残っているという私の考えの一端をご理解いただければ幸甚である。
せっかくの機会であるからこの問題を全く違う視点から見てみたい。その一つは、近年我が国の政治について漠然とした閉塞感をお持ちになっている人が増えているのではないかと思うが、私は確かに閉塞感が増しており、かつ、その大きな原因の一つは、投票価値の不平等に根ざした部分が大きいのではないかと思っているので、まずその点について私見を述べたい。
代表民主制とは、有権者が国の運命を一定期間託す政治家を選挙で選ぶシステムのことで、多数決で行われるのが本来の姿である。しかし長い間、投票価値の平等にさほど意を用いることもなく選挙区割りを定めてきた結果、多くの選挙区割は長年にわたって固定化し、いわゆる世襲議員ないし側近的縁故議員の急増を招く結果となったという現実は統計上も否定出来ない。その中には優秀な人もいるが残念ながら全体としてみると国ないし国民の運命を一定期間預けて良いと思う人々の数は相対的に減ってきているのではないかと私は思っている。有権者数に応じて議員を選出する選挙区割りを厳密に行えば、選挙区割りもある程度変わってくるわけで、今よりも少しは事態はましであったろうと思う、それが可能で無くなったことについての責任から最高裁が逃れることは出来ないのではないか?システムとして代表民主制が本来持っている良さが大きく失うことに力を貸し続けたからである。冷戦終了から早20年余、いわゆる新興国のめざましい台頭などに比して我が国の相対的地盤沈下は著しい。新人の登場が長年にわたって妨げられた結果、新たに登場した人々を見ると、評論家的行動を執る人も少なからず存在するように見える。勿論、評論家の存在は民主主義制度にとって決定的な重要性を持ち、その役割を過小に評価してはならない。多数決で物事を決めていく民主主義国家にあっては、色々なものの見方の存在が不可欠で、これによって有権者はその運命を預ける候補を選択する見方を広げることが出来る。しかし評論家が自由に評論できるのは、結果について責任を負わなくても良いことが大きく寄与している。言論の自由や報道の自由は民主主義制の優れた面を確保するために絶対的と言っていいほど重要であるが、自分の言動に結果責任を負わなければならない政治家とは役割が全く異なる。政治家の言動がすぐ変わる、軽い、と思うのは私だけであろうか?もちろん、重大な事態が生じたときなど、適切かつ果敢な行動を執ることも国民の運命の将来を担う政治家に求められることは当然である。そのような能力と識見を持つ人は世の中にそう多くは無い。それを見出し政治家として育てていくシステムがないと民主主義制の利点は大きく損なわれる。
もう一つの視点は、近年の我が国の国家財政の状況である。国家の債務は今やGDPの200%を超え、先進国の中でもずば抜けて多い。長年にわたるバブル後の不況から脱出するための費用も少なからずあったが、不要不急の公共工事、色々なばらまきがその増加に貢献したことは否めない。ツケは次世代にくることが確実であるのみならず、その時期も早まるかも知れない。格差是正と言いつつ実際には地方の振興に役に立たない支出を増やす政治家の誕生とその人たちの存続を許した選挙制度の存在は、これまた代表民主制の持つ良さ(新たな事態に即応できる政治家を生み出すシステム)が無くなっていることを示している。
後注:この論考はあまり字数を増やさないよう心がけて大急ぎで執筆したため、説明不足の点が多々あることをお許し願いたい。もし時間があれば下記についても目を通していただくと、若干お役に立つかも知れないと考える。
1.2009年3月23日出版:福田 博著 世襲政治家はなぜ生まれるのか?
(日経 BP社刊)
2.2009年11月出版:Why Are There So Many Hereditary Politicians in Japan? by Hiroshi Fukuda Asia-Pacific Review: Volume 16 Number 2 . November 2009 Routledge: Taylor&Francis Group ISSN 1343-9006
3.2010年5月14日講演:日本の民主主義 (福田 博) 西村高等法務研究所(西村あさひ法律事務所付属の研究所です。ホームページ
2011年03月29日執筆